ぼくとわんこ
ゼイゼイ、ゼイゼイとわんこがせき込んでいる。
「これじゃ遊べないよ」
ぼくはわんこの大好きなトラのぬいぐるみを床に置いた。
わんこは悲しそうにぼくを見つめてくる。
「そんな目で見られても」
最近のわんこは病気で興奮するとよくせき込む。遊べば興奮してやっぱりせき込むからしばらく遊べていなかった。
「今日は調子がいいと思ったのになぁ」
ぼくはせめてこれくらいはと思い頭をなでてやる。わんこは嬉しそうに尻尾を振るがそれも駄目だったらしい。やっぱりせき込み始める。
「あーあ」
ぼくは撫でるのをやめるとわんこは再び悲しそうにこちらを見てくる。
「早く元気になってね。そうしたらいっぱい遊んであげるから」
ぼくは名残惜しく思いながら別れを告げると、寝室に向かうことにした。
・・・
わんこに初めて会ったのはまだ3歳の頃だった。その頃わんこはまだお婆ちゃんの犬で、他人には懐かない犬だった。ところがお婆ちゃんの家族には何故か懐いて、それはぼくも同じだった。「犬もゆうちゃんが家族なのか分かるんだね」そう、お婆ちゃんが言っていたのを覚えている。
でもその記憶が残っている一番の理由はわんこがぼくの上でおしっこを漏らしたからだった。うれしょんというらしい。犬は嬉しいとついおしっこを漏らすことがあるのだそうだ。僕にとっては最悪の思い出だった。お婆ちゃんの家には替えのズボンなんてなかったから浴衣みたいなのを着ることになったのを覚えている。
・・・
ぺろぺろ、ぺろぺろと誰かが猛烈にぼくの顔を嘗めるので目を覚ました。
「やめろ、やめろったら。わんこ! 」
誰かと言うか、もうそいつはわんこしかいなかった。
ぼくの寝室は2階にあるから普通の犬なら登ってこれない。でもわんこはと特別だった。階段を駆け上がり寝室に進入してくる。そしてこうしてぼくの顔を嘗め回して起こす。わんこが病気になる前はよくある光景だった。でも今は病気になってそんな元気はないはずだった。
「わんこ病気が治ったの? 」
「うんなおったよ!」
わんこが元気よく答えた。
「ええ!? 」
ぼくは思わず声を上げる。だってわんこが喋るものだから。
「ゆーた! いっしょにぼうけんにゆこう! 」
わんこは僕の袖を引っ張りながら言った。ゆーたっていうのはぼくの名前だ。
「どうして喋ってるの? 」
「げんきになったらいっしょにあそんでくれるってゆったじゃない? いっしょにあそぶにはsたべれたほうがいいでしょ? 」
当然でしょ? みたいにわんこが言う。
どう考えても犬が喋るのはおかしいと思うのだけれど。
「だからぼうけんにゆこう! 」
「わんこってそういう声だったんだね」
とはいえ実際に喋れるのだから仕方がない。分数の割り算だってひっくり返せば掛け算に直して計算できる。何故なのかは分からないけど出来るものは出来るのだから仕方ない。世の中そう言うものなんだ。ぼくは計算が得意なタイプだった。
「いいよ冒険に行こう」
わんこが話せるならぼくも嬉しかった。でもぼくはまだ子供だし、あまり遠くは困るなとも思った。
「冒険ていったってどこにいくの?」
そんなぼくの心配をよそにわんこは元気よく答えた。
「さんぽ! 」
冒険って散歩のことなの?
・・・
早朝。まだ薄暗く町は寝静まっている。他の家族はまだ寝ているからぼくは黙って家を出た。冒険と言ってもただの散歩だ。30分とたたずに戻って来れるだろう。
「ひもはつけないの? 」
「リードのこと? 」
いつもならリードをつけるところだけど今日はその必要もない。なにせ話せるんだから意志疎通が取れるのだから。
「ぼくあのひもすきなんだけどな。さんぽ! てかんじがするから」
「でも友達にリードをつけるなんて変じゃない? 」
「いままではともだちじゃなかったの? 」
「いや、それは、まぁ今までも友達だったけど…」
痛いところを付いてくる。わんこのことは友達だと思っているけどやっぱり普通の人間みたいに接するわけにはいかない。うっかりリードを離して車に惹かれそうになったこともあるし安全のためだ。今は話し合えるし大丈夫だろうけど。
「わーい、さんぽだ! 」
ところが、家から出た途端わんこは一目散に駆け出した。しかもいつもの散歩コースじゃない方向へ爆走し脱した。
「ちょっと! どこに行くの!? 」
ぼくは慌てて呼びかける。
まばらながら車も行きかう道路をあっという間に駆け抜けて向こうの通りへ。散歩コースに信号を渡るコースはない。車にひかれたら危ないからだ。だからそっちには1度しか行ったことがないはずなのに。
「待ってってば!」
わんこは何も答えず一目散に駆けていく。これじゃあまるでぼくから逃げているみたいだ。逃げる? 今までわんこが逃げ出したことなんて1度も…いや、1度だけあった。
わんこはもともとぼくの家に住んでたわけではなかった。お婆ちゃんの家に住んでいた。でもお婆ちゃんがなくなって家で引きとることになったんだ。
もともとお婆ちゃんの家でぼく達は面識があって懐いていたし、わんこも大人しかったから油断していた。家に引き取られて最初の散歩の時わんこは逃げ出したのだ。多分お婆ちゃんの家に帰ろうと思って。あの時もこんな風に道路を渡って行ってしまった。
「待っててば!」
あの時から虎視眈々と逃げ出すチャンスをうかがっていたのだろうか? 冒険て言うのもぼくを騙す嘘?
そう思うと心がきゅっとなった。
「…」
勿論そんなことはなかった。ぼく達の友情は本物なのだ。いつのまにかわんこは立ち止まってこっちを見ていた。しばらく何事か考えているようだったけれどやがてこっちに戻ってくる。最初に逃げ出したあの時と同じように。
「ふふふ、びっくりした? 」
「うん。お婆ちゃんの家に戻るつもりかと思った」
「そうだね。あのときはもどるつもりだったけど、いまはそんなきはないよ」
わんこはそういって笑った。
「でもゆーたってげんきになったよね。さいしょはすごせきこんでたのに。ちょっとはしっただけでせきこむものだから、しんぱいになって、だからぼくはかえるのをやめたんだよ」
そういえばわんこが引き取られたころは僕もまだ体が弱かった。小児喘息ってやつ? でももうすっかりよくなった。代わりにわんこがせき込むようになっちゃったけど。
「僕が元気になったんだからわんこも元気になりなよ」
「もうなったよう」
わんこが尻尾を振りながら答えた。
・・・
いつもの散歩コースを歩く。
病院の周りをぐるっと回るコースだ。ぼくが喘息の頃はよく通っていた病院だった。
病院なので駐車場がある。ここにも車が通るから気を付けないといけない。わんこが家に来てだいぶ慣れたころ駐車場で首輪を解いて遊ばしたら走る車の下を駆け抜けて肝を冷やしたこともあった。
「あのときぼくはしんじゃったんだ。なんてね。じょーだんじょーだん」
わんこは笑いながら言うけどあの時は本当に心配した。
「本当に死んだと思ったんだから」
「まだしぬときじゃなかったってことだね」
わんこは目当ての電柱を見つけると一目散に駆けていく。そして電柱におしっこをかけた。
「くそう、しばらくこないうちに。ここはぼくのなわばりなのに」
散歩コースの最後にこうやってマーキングするのがわんこの日課だった。今まで病気でこれなかったからここに来れたのは久しぶりだった。しっかりマーキングしないとね。
「ここまで来たら折り返しだね」
さあ帰ろう。
そう言おうと思ったけど、その時ふと気づいた。帰るってことは冒険が終わるってことだ。冒険が終わったらわんこはまた喋れなくなってしまうかもしれない。犬が喋るなんて普通のことじゃない。いつか終わることだ。散歩から帰ったら喋れなくなっちゃうかもしれない。
「なにいってるのさ。ぼうけんはこれからだよ」
だからわんこはそう言った時少し安心していた。
「きたよ」
わんこが言う方を見ると丁度バスがやってきたところだった。ここに来るのは病院行の定期のバスだ。赤と白の普通のバス。でもやってきたのは見たことのない水色のバスだった。結構年期が入ってるから新しくはない。こんなバス走ってたっけ?
「さあ、ゆこう」
当然のようにバスに乗るわんこ。
「でもぼくお金持ってないよ」
「お金ないなら乗れませんよ」
ぼくとわんこの話を聞いていたらしい。バスの運転手さんが言った。
「しゃべるいぬなんてめずしいでしょ。ぼくにめんじてのせてよ」
「駄目ですよお客さん。ルールは守らなくちゃ」
わんこは食い下がるが運転手さんはつれない返事だった。
「それに犬が喋るなんて珍しい話じゃない。ここでは犬や猫どころかぬいぐるみだって喋るんだからね」
運転手さんが顎をくいっとして一番前の席を指す。その座席には犬と虎のぬいぐるみが散らばっていた。子供が忘れて言ったのだろうか? 勿論喋ったりするようには見えなかった。でも運転手さんの口ぶりからすると喋るらしい。
「どうしようか。ここであわないといけないひとがいるんだけど」
わんこが困ったように言った。
「あらいいじゃない。お金は私が出してあげる」
救いは意外なところから現れた。バスのお客さんの一人が申し出てくれたのだ。
今時珍しい着物姿の綺麗なお姉さんだった。膝には猫を乗っけている。ぬいぐるみではない本物の猫だ。なんとなくどこかで会ったことがある気がしたけどそんな可愛い人にも猫にも知り合いはいなかったのできっと勘違いだろう。
「ただって言うのは良くないんじゃない?」
お姉さんの膝で眠っていた猫がじろりとぼくを見る。わんこと同じようにお姉さんの猫も喋れるみたいだった。
「ドラちゃん目が覚めたのね」
お姉さんが嬉しそうに言った。ドラちゃんというのが猫の名前らしい。確かに猫はドラ猫だった。
「ねこがしゃべった! 」
わんこが驚いたように言う。
「犬が喋ってるんだから猫だって喋るわよ」
猫が呆れたように言った。それは違いない。運転手さんもここでは動物が喋るって言ってたし。
「ふふふ、ここで会ったのも何かの縁ね」
お姉さんがお話ししましょうと言ってくれたのでぼくはわんこを抱っこするとお姉さんの隣に座った。
・・・
「お爺ちゃんがね。ちょっと呆けてしまったの。でもそうしたら代わりにドラちゃんが呆けてしまってね。ドラちゃんのお世話をしないといけないって気を張っていたらお爺ちゃんの呆けたのが治っちゃったの。ドラちゃんは恩人なのよ」
お姉さんはそう言いながら猫の背を優しくなでる。
お姉さんは自分がどうしてこのバスに乗っているのか教えてくれた。ある日、呆けていたはずの猫が喋りだしてこのバスに一緒にのることになったらしい。
「呆けてないわよ。失礼ね」
猫は不満そうに言った。
お姉さんの事情はぼくとよく似ていた。
「ゆうちゃんの病気もわんこが治してくれたのかもね」
お姉さんはそういうとわんこの頭を優しくなでる。
「えらいね」
「ぼく、えらい? 」
わんこはそれを嬉しそうに受け入れている。わんこが他人に気を許すのは珍しい。基本的に家族にしか懐かないはずなのに。
「なんだか懐かしい気がする」
わんこはそういうとうとうととし始める。お姉さんはお金を立て替えてくれた恩人なので気を許しているのかもしれない。
「それってぼくのせいでわんこが病気になったってこと? 」
「そんなに真面目に考えなくてもいいわ。動物が人間の代わりに病気になってくれるなんてちっとも現実的じゃないもの」
「でも現に現実的じゃないことが起きてるしなぁ」
もしわんこが病気になったのがぼくのせいならぼくがまた喘息になればわんこの咳も治るだろうか?
「めったなことを考えるもんじゃない。みゃあ達は人間より寿命が短いんだから。サービスでちょっと悪いものを持って行ってやるだけなんだから。それに…」
猫は何か言おうとしたがお姉さんを見てやめる。お姉さんは「やっぱりドラちゃんが呆けてしまったのはお爺ちゃんのためなのね」とうるうるとした瞳で見つめているのに気が付いたからだ。
「ああもうやめやめ! みゃあはもう寝る」
猫はそう言って目を閉じてお姉さんの膝で丸くなってしまった。
・・・
「寝ちゃったみたいだね」
「寝ちゃったね」
それからしばらくして猫が寝息を立てて本当に眠ってしまった頃、意外な者達に話しかけられた。
「やっとみっちゃんと話せるね」
「久しぶりだね」
話しかけてきたのは犬と虎のぬいぐるみだった。最初にバスの運転手が話せるって言ってたあのぬいぐるみ達だった。話せるどころか歩いて僕らの席までやって来ていた。
「あら、あなた達ってもしかして? 」
お姉さんにはぬいぐるみ達に心当たりがあるみたいだった。懐かしそうに2人?2匹?2体?を見つめる。
「知り合いなの? 」
「昔持ってたぬいぐるみだわ。大きくなったらいつの間にかなくなっていたけれど」
どうやらぬいぐるみはお姉さんの関係者みたいだった。
「いつの間にかなくなったわけじゃないよね」
「みっちゃんのお母さんに捨てられちゃったんだよ」
「なんとなくそうじゃないかとは思っていたけど…」
お姉さんは申し訳なさそうに言った。
「謝らないで欲しいな」
「私達は感謝してるんだもの」
ぬいぐるみ達はお姉さんとそして何故かぼくを見ていった。
「みっちゃんが思いを込めて接してくれたから命をもらえたし」
「また会えたし。次は人間になれそうだし」
「人間になれるの? 」
お姉さんはきょとんとして聞いた。
「いいことしたからね」
「ご褒美だって」
ぬいぐるみ達は笑いあう。
お姉さんは事情はよく呑み込めていなかったみたいだけど、それはそうだ。ぼくも飲み込めない。兎に角おめでとうと言った。
「人間になったらみっちゃんと結婚したいな」
「それは駄目だよ。人間のこと1から学ばないとだから」
「まずはみっちゃんの子供に生まれたい」
「ゆーたでもいいよ」
好き勝手に話すぬいぐるみ達。こんな奇妙なぬいぐるみの子供なんて冗談じゃない。お姉さんにいたっては求婚までされている。そんなの軽くホラーだ。でもそんなぼく達の気持ちなんて気づきもしないぬいぐるみ達は一方的に話すと満足したのか、次のバス停で降りると言って去っていった。
・・・
「不思議なこともあるものね」
ぬいぐるみが去ってからお姉さんと僕はしばらく放心していた。
「あのぬいぐるみ達ぼくの名前も知ってた」
「じゃあ本当にゆうちゃんの子供にあの子達が生まれ変わるのかも」
「冗談はやめてよ」
冗談じゃない。100歩譲ってお姉さんならぬいぐるみのこと知ってるからいいかもしれないけどぼくとぬいぐるみ達は縁もゆかりもない。
「むしろ私もゆうちゃんの子供に生まれ変わろうかしら」
「ちょ、ちょっと何言ってるの? 」
ぬいぐるみ達のとんでもなさにあてられたのか、お姉さんまで無茶苦茶なことを言い出す。
「なんとなく思い出したの。私じゃあの子達を産んであげれないって。だってもう私の子供達は決まっているから」
お姉さんはぬいぐるみ達に合ってなにかに思い出したみたいだった。何か吹っ切れたような顔をしている。ぼくはぬいぐるみ達とは関係ないから何も心当たりはないけど…
いや、そうじゃない。本当はちょっとぼくもちょっとだけ思い出した。
「お姉さんみっちゃんって言われてたけど、もしかして本当の名前ってみちこって言うんじゃないですか? 」
「正解」
お姉さんはぼくをぎゅっと抱きしめた。みちこって言うのはお婆ちゃんの名前だった。
「大きくなったねゆうちゃん」
・・・
「ゆーた、みっちゃんとドラちゃんは? 」
わんこが目を覚ます。もう、バスに乗っているのはぼくとわんこだけになっていた。
「降りたよ」
お姉さんはわんこも一緒に降りないか聞いていたけどわんこが起きないから諦めたみたいだった。
「一緒に降りなくてよかったの? 」
「うんいいよ」
わんこはそういうと改めてぼくの膝に座りなおした。
「いったでしょ。僕はもう帰るのはやめたって。ゆーたと一緒にいくよ」
やがてバスは次のバス停にとまる。ここがぼく達の終着点なのかそれともお婆ちゃんがぼくに合えたように、未来に出会う誰かに出あうのだろうか。