一人
人家が途切れ、街道に出ても、誰も追いかけてこなかった。
「北の聖地……」
声に出してつぶやく。
聞いたことはあった。北へ北へと進んだ雪山の中にあり、あらゆる魔法に通じた精霊たちがいるという。確かに禁じられた魔法を解く術を知っているだろう。だが、それを一人で、となると途方もない旅に思えた。
大人の足でも何カ月かかるかわからないのに。
どうして僕がやらなきゃいけないんだ。
召使いにでもやらせようか、と今さらながら思う。
しかし頭に契約書がちらついた。
契約を破れば、さらに重い刑になるだろう。
それにまた父と群衆の前に出る気概はなかった。
進むしかない。
街道を行くと、小さな村が見えてきた。
空腹を感じて食堂に入る。
「ゲラルト様も大変だな」
いきなり父の名が耳に入り、ルイスは声の主を見た。中年の男が店主と世間話をしていた。男の隣に座る。
「今の話、詳しく聞かせてくれ」
男は見知らぬ少年の物言いに少し眉を上げた。ルイスは小さく舌打ちして銀貨を一枚出した。渡す瞬間に「そうか、金を屋敷で補充してもらうこともできないのか」と気づいたが、銀貨は手を離れた後だった。
男は話した。
王都に移民が入ってきて、いさかいが増えていること。裁判長のゲラルトは多忙を極めて倒れ、休養を命じられ妻子の元へ今朝がた戻ったこと。
「貧富や肌の色で差をつけない、平等に裁きを下すって言うんで庶民に人気だが、その分敵も多いらしい」
「へぇ」
そうか、お父様は仕事が忙しくて、疲れていたんだな。
でなければ僕にこんな仕打ちをするわけがない。きっと、そのうち迎えに来て下さる。
食堂を出てあたりを見回す。ある方向にだけ、やけにはっきり目の焦点が合う。自然と足がそちらへ向かう。
契約が染み込んだ身体が「北へ北へ」と急かすようだった。
その夜は宿に泊まった。子供一人で不審がられたが、父の名前と金を出すとすんなり案内された。食事をとり、ベッドに入る。拍子抜けするほど順調だった。窓辺に置いた虫籠の中で、虫はじっとしていた。視界に入れたくなくて寝返りをうつ。
今日一日で、すっかり世界が変わってしまった。
こんな形で屋敷を出るなんて思ってもみなかった。常に周りに人がいるのが当たり前だった。
そもそもテオが現れなければこんな目に遭わなかったのに。あいつのせいだ。
全部夢だったらいいのに。
そう思いながら眠りについた。
翌朝、食事中に視線を感じた。
隅の席の男と目が合う。薄汚れた服を着て、土気色の顔の中で目だけがぎらついていた。
胸騒ぎがした。
ルイスは急いで食事をかきこみ、虫籠を首にかけて宿屋を出た。
自然と早足になる。
集落が遠ざかり、道は森の中に入った。ひと息ついて立ち止まる。
声が聞こえたのはその時だった。
「おい」
振り返る。
さっきの男が森の入り口に立っていた。
「お前、上等な服を着ているな。
有り金を全部出せ、俺は酒を飲むんだ」
男の手にあるナイフが光った。
声も出なかった。身をひるがえし、虫籠を抱えて駆け出す。魔法は使えない。走るしかない。
男が追いかけてくる。それほど速くないが、声はルイスの耳に届いていた。
「なんで俺がこんな真似を……なにが平等な裁判だ。俺は貴族だぞ? どうしてガキを襲ってまで金をせしめなきゃいけない、くそっ」
追い付かれる直前、とっさにルイスは男の後ろ目がけて金貨を投げつけた。
「金だ!」
男は金貨を追っていき、その隙にルイスは全力で走った。
限界まで走って、ルイスはようやく足を止めた。
肩で息をしながら、そうっと虫籠の中を見ると虫は青菜にへばりついていた。安心する反面、ゆっくり動く様子がのんきそうで苛ついた。虫籠ごと捨ててしまいたいが、契約がある。
誰も助けてくれない。
「やればいいんだろ、やれば」
誰にともなく投げやりに言って、ルイスはまた歩き出した。
一週間が経った。
ルイスは着ているものを売り、古着を身に着けた。フード付きのマントで顔を隠して歩き、人とは最低限の言葉のみ交わした。金はあちこちに隠して持ち歩いた。
道中、柔らかそうな葉を見つけては虫籠に差し入れた。
宿屋には泊まらず、野宿をした。夜盗が怖くて早く寝て、闇に溶け込んだ。
不当な仕打ちには未だに納得していなかった。僕は悪くない。時が流れ、北の聖地へたどり着きさえすれば、このつらい旅も終わる。
だが、今までの暮らしと違う一人旅を続けるうち、心の中でもう一人の自分の声が聞こえるようになった。
「こうなったのは誰のせい?
本当にただ、北の聖地へ着けばいいの?」
理性は「考えないといけない」とささやく。
だけど、それはひどく恐ろしいことだった。暗い、底なしの穴の中を覗き込むような行為だった。それも、他でもない自分の中に空いた穴だ。
余計な考え事で足を止めるな。早く旅を終わらせて、家に帰るんだ。
頭を振って、先を急いだ。