45.旅立ちの日
そしてとうとう、オーギュストが旅立つ日を迎えた。
グラハム邸の玄関先には、彼を見送るためにエドガーや夫人、そしてシャーロットとその両親が来ていた。
「まったくあの子ったら、まさか朝からどこかに行ってしまうなんて……」
母親は仲良くしていた癖に、エリザベスが見送りに来ないことに呆れてため息をついていた。
彼女はどうやら、部屋にいたら無理にでも連れ出されると思って、家族のまだ誰も起きていないうちからどこかに行ってしまったらしい。
「どうか気にしないでください。それより、今までお世話になりました」
オーギュストはそう言って微笑むと、世話になっていた間は、まるで本当の自分の両親ができたみたいだったと二人にお礼を述べた。
「最初は変な子だと思ったけど……あなたはすごくいい子だったわ」
母親は涙ぐんだあと、これから旅路は長いんだから、ちゃんと食べられる時に食べておきなさいねと付け加えた。
「うちには息子がいなかったからねぇ。いやぁ、もしまたこっち戻ってきたらお酒を飲もう。なんなら、そっちの国のウィスキーをお土産に持ってきてくれても構わないぞ」
父親はさらに戻ってくる時はいつでもいいと言った。
シャーロットは昨日言った通り、今日の方が大泣きをしている。
「本当、ここにねえ様を連れて来れなかったのが残念だわ。ぐすん。昨日、やっぱり無理にでも部屋に忍び込んで、逃げ出せないようにしておけばよかったわ」
そう言うと、シャーロットはさらにうわーんと泣き、オーギュストは苦笑いした。
「それじゃあ、元気で。もし、僕もそっちに行く事が会ったらよろしく」
エドガーはそう言って、オーギュストに握手を求めた。
だが、オーギュストは握手ではなくエドガーの事を抱きしめると
「ああ。また会おう。出来れば近いうちに……君は僕が初めてキスした男性だし」
と耳元で囁くと、エドガーはああ、それもいい思い出だと言って笑った。
「挨拶は終わりましたね。では、馬車の準備も整いましたから、行きましょう」
ラファエルに馬車に乗るように促され、オーギュストは乗り込んだ。
皆が手を振る中、ドアが閉められ馬車が発車すると、彼は皆が見えなくなるまで馬車の外を見続けた。
車中、彼はここに来た初めての日のことを思い出していた。
馬車がなくシャルルとひたすら歩いた畦道のことも、今となっては切ない思い出だ。
気がつけば涙が出ていたらしく、これ使ってくださいとシャルルがハンカチを差し出している。
馬車はこちらに来てからしょっちゅう見かけた、丘に羊や牛のいるいつもの光景の中をひたすら過ぎて、運河の方へと向かっていった。
◆◆◆
早朝から出掛けたエリザベスは、街の方へと出掛けに来ていた。
とにかく家から逃げ出したかっただけなので、特に行き先は決めていなかったが、色々ぶらぶらしたあと、気がつくとジェームズの工場の近くに来ていた。
そういえば火災があった後、再建を手伝ってくれる企業が見つかったと言ってたが……
彼女は気になって、工場の方に行ってみると、ジェームズが言っていた通り仕事は早く進んでいるようで、前に見た時とはうってかわり、外壁も屋根もちゃんと直されているようだった。
彼女は工場が元にありつつある状況に安心していると
「これはこれは。どうもお久しぶりですね。エリザベス嬢」
と背後から話しかけられた。
誰だろうと振り返ってみると、白髪混じりだがキチンと整えられた髪型にメガネをかけた中年の男性と、その後ろに従者と思われれる男性が立っていた。
呼びかけられたはいいが、この人は一体誰だろうと彼女が不思議そうな顔をしていると、その中年男性は微笑んだ。
「ずいぶん変わったと思うので、わからないのは仕方のないことです。マコーリーですよ。お久しぶりですね」
ええ?! マコーリーさん?! エリザベスは思わず大きな声で驚いて叫んだ。
自分の知っているマコーリー氏といえば、過剰なほど若作りして不気味に見える中年男性だったが、今目の前にいるのは年相応に見える中年男性だった。
「あれから色々ありましたが、私も来週にはロンドンへ帰る事になったので、今日は仕事を休んでこの街での思い出を楽しんでいた所なのです……ところで、あなたの側にいたオーギュスト君はどうされていますか?」
オーギュストの名前を出された彼女は一瞬嫌な顔をしたが、彼はちょうど今日、本国へ帰るところだとマコーリー氏に説明した。
「おお、それはそれは……では、彼とあなたは結局なんでもなかったのですね。変な質問かもしれませんが、彼がここに来ていた本当の目的はなんだか知っていらっしゃいますか?」
「ええ。彼は本当は大きな商会の御令孫で、結婚相手を探しにこちらへ来ていた事は本人から直接聞きましたわ」
マコーリー氏はそれはそれはと言うと、では、自分の商会に圧力をかけたのも彼だと知っていたのかと尋ねた。
そのことにエリザベスはとても驚き
「いいえ……そんなこと初耳です!」
と言って、それは一体どういう事だとマコーリー氏に詰め寄った。
すると今度は知らなかったと言われたマコーリー氏の方が驚いた顔を見せた。
「おやおや……そうだったんですね。実は、使用料の件を手を引くように仕向けたのは彼だったんですよ。彼の商会の方が立場的には上だったので本部に圧力をかけて。でも、一歩間違えればあちらの商会だって大火傷を負う可能性もあったのに……よく勝負にでたものです」
その時の事を思い出したのか、マコーリー氏はハアと大きくため息をついた。
「更にそれだけじゃありませんよ。あなたのご親戚を支援している企業だって、どうも元は彼の商会から派生した企業なようですから」
その話にエリザベスはそんな……と言って言葉を失った。
確かに支援を名乗り出た人物は、自らの事を詮索するなと言っていたのに、まさかオーギュストがその本人だったのだから。
「しかも、その企業はどうやらご親戚の工場の支援だけではなく、ここら辺一体の羊毛をブランド化して展開しようとしているらしいですからね。まぁ、メリディエス商会ならそんなのは容易いでしょうし。そうなれば、この地域の収入が増えて安泰でしょう。もちろんご親戚の工場も」
マコーリー氏は、いやぁ参りました。そもそも私の敵う相手ではありませんでしたと言った。
「もちろんこの事実を知った時は、私も怒り狂いましたがね……ですが、あなたを手に入れられなかった代わりに、本当の愛とでも言いましょうか、私はありのままの自分を愛してくれる大切な人を見つける事ができました」
そう言うと、彼は後ろに立っていたトーマスに向かって微笑んだ。トーマスも一瞬だけ彼と目を合わせ、微笑み返した。
「まあ、そこまでやってのけるなんて、彼は本当にあなたの事を想っていたんですねぇ。まあ、私も男だからわかりますよ。心から想っている人に対しては口ではなく行動で示しますから。でも……何にもなかったと言うのは少々意外ですが。そうですか」
一方、マコーリー氏から話を聞いたエリザベスは顔を青ざめさせた。
まさか……オーギュストは自分にただ同情を寄せていたのではなく、本当に愛してくれていたのだなんて。
あのテラスで言われた、本当です、信じてください! と必死に言っていた彼の姿が、彼女の頭の中に蘇った。
思い起こせば、母にワインを贈った時も自ら名乗り出なかったし、複数の男達が怒鳴り込んできた時も彼は一人で助けに来てくれた。
それだけではない。教会で二人で一夜を過ごしたときもずっと見守っていてくれた……
どうして
どうして彼が助けてくれたのだと今まで気づかなかったのだろう!
このままでは……
……確か、運河の船に乗って港に向かうと言っていたはず!……
エリザベスは彼の元に急ぐ事を決意して
「すみません、マコーリーさん! 今、何時ですか?!」
とマコーリー氏に時間を尋ねた。
「今ですか? ええと、もうそろそろで10時になる所ですね」
マコーリー氏はズボンのポケットから自分の懐中時計を出して確認すると、彼女に時刻を告げた。
良かった、まだ間に合うかもしれない。彼女はありがとうございます! とマコーリー氏に言って大急ぎでその場を去っていった。
「ふふっ、何を急いでるのかわかりませんが。さあ、私たちも行きましょうか」
マコーリー氏はズボンのポケットに再び懐中時計を戻すと、トーマスにそう話しかけた。
彼らは決して横並びで歩く事は無い。
だが、それぞれの左手の薬指には、デザインは異なるが同じ色のリングが光っていた。




