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27.奇跡

 その日の夕方。エリザベスは身支度を終えて待っていたというのに、マコーリー氏の迎えの馬車は時刻を過ぎてもやって来なかった。

 迎えにくると言っていたのに。自分が日付を間違えてしまったのだろうか? エリザベスは予定を確認したが、間違いなく約束したのは今日だった。


 何かトラブルでもあったのだろうか? でも、正直言って迎えに来ないのであれば、わざわざこちらから出向いて会いたいと思う相手ではない。

 エリザベスはもう約束の時間から2時間は過ぎているし、きっともう今日は来ないのだろうと判断して、いつもの服へと着替えた。


 翌日。

 彼女は部屋で過ごしていると、母からジェームズが尋ねてきたから出てもらえないかと頼まれた。

 なぜ、おじ様が? もしかして、内緒にしていたのが心苦しくなって母や父に借金のことを話にきたのだろうか? そんな事になれば、両親と大喧嘩が始まると判断した彼女は、急いで階段を降りていった。


 しかし、尋ねてきたジェームは憔悴しきっていた前回とは大違いで、ニコニコと微笑みながらエリザベスの事を玄関先で待っていた。

 なぜそんなに機嫌が良さそうなのかと彼女は訝しんだが、ここは母の目があるから話を聞かれないようしたいと、ジェームズを庭の一角へと案内した。


「おじ様。急に尋ねてくるなんてどうしたの? 何かまた良くないことが起きたの?」

 心配している彼女とは対照的に、ジェームズはいや違うというと、むしろビッグニュースだと両手を彼女の前で広げた。


「ビッグニュースなんだよ、エリザベス。いいか、君はもうあのマコーリーとかいう男と結婚する必要は無くなったんだよ!」

「何ですって? どういうことなの?」

 彼女はジェームズの言ってることが嘘なのではないかと信じようとしなかった。

 なぜ、急にそんな話になったのだろうか。ジェームズはむしろ騙されているんじゃないかとさえ彼女は疑った。

「それがね、エリザベス。信じられないことに、奇跡が起きたんだ!」

 彼はまたしても両手を広げてそういうと、その奇跡について語り始めた。


◆◆◆


 マコーリー氏から融資を受けないかと提案されてからしばらく。

 ジェームズとトッドはエリザベスには悪いことをした。

 だが、こうするしか無かったと罪悪感を感じながら、火災で残った鉄釜などのわずかな機材を再利用するために回収していると、見たことのない中年男性と若い男性の二人組がジェームズの元を尋ねてきた。


 二人とも服装や言葉遣いからして、ロンドンからきた人間のようだ。

 そんな人間たちがこんな潰れかけている工場になんの用だと、ジェームズはとても怪しんだ。


 だが、二人はそんなに警戒しないで欲しいと言って、実は彼らの雇い主がこの工場の製品を大変気に入っており、火災にあった事を聞いて酷く悲しんでいると伝えきたのだ。

 そのため、この工場を再建できるのなら無担保無利子で融資を行いたい。なんなら、機材も最新のものを揃えて、販路も拡大する手伝いをすると言ってきたのだ。


 もちろん、ジェームズもそんな美味しい話なんてあるか。むしろ、この二人組は詐欺師か何かで、彼のことをさらに追い詰めようとしているのかとさえ思った。

「悪いが帰ってくれ。他に融資してくれると言ってる人がいて、もう契約しようとしている段階なんだ」

 彼はそう言って二人を追い返そうとした。


 しかし、二人はちょっと待ってくださいとジェームズを引き留め、素直に帰ろうとはしなかった。

 彼らは自分たちを信じられないと思うのは理解できると言った。そして更に、その交わそうとしている内容よりも、なお好条件を付けたいので、マコーリー氏と交わそうとしている契約内容を見せてくれないかと言ってきた。


 ジェームズはそんなに見たいならと二人に契約内容を見せると、二人はそれを隅から隅までくまなく読み出し、これは……! と顔を合わせた。

「ジェームズさん。あなたがこの契約をまだ交わさなくて本当に良かった。こちらをご覧ください」

 若い方の男がペンでその問題部分を指し示すと、とても紛らわしい書き方をしているが、結論から言うと数年経てばジェームズ側が不利になる可能性が十分にあるという内容だった。


 さらに細かい説明をすれば、数年は無利子で無理のない返済額が設定されているが、一定期間を超えると無利子の状態が廃止される可能性があり、廃止される事になればもちろん有利子になるのだが、もしそうなれば返済期間がさらに長くなる可能性もあり、長くなるほど雪だるま式に借金額も増えていくというものだった。


 また、それを防ぐには現状の提案されている収益に対して返済の割合を変えるやり方ではなく、毎月一定額を返済する方式にした方がいいのだが、切り替えるとさらに利子が増やされ、現状の経営のやり方のままだと収入は増える見込みがないし、場合によっては収益が激減する月もある事を考えると、借金を返すことができずに最悪工場と土地をマコーリー氏に取られることも指摘した。


「あなたが騙されるのも無理はない。この契約については、よほど法律に詳しい人間が側にいないと見抜けませんよ。知らない方なら、ずっと無利子であると勘違いしておかしくありません」

 若い男は真剣な目をしながらそう語った。

「それじゃあ、あの男は最初から私の事を助けるつもりなんて毛頭なかったのか……!」

 説明を受けた後、ジェームズは悔しそうに拳を両膝で握り締めて、歯を食いしばるようにした。

「おそらく。しかも今後も綿の方が伸び続けると言われていますから、工場を手に入れたら丸ごとその生産に変更するつもりでしょうね」

 と購入予定の機材リストを見ながら、中年の男の方が付け加えた。


 顔を伏せているジェームズに、中年の男はさらにこう言った。

「初対面の我々が、信頼できないというのはわかります。ですが、もし我々の方と契約してただければ、エリザベス様の結婚を阻止できるとしたどうですか?」

「……?! なぜそれを?」

 関係者しか知らないはずなのに、どうして彼らがその事を知っているのかとジェームズは驚いて顔をあげた。


「正直に申しますと、我々がこちらに行くように指名されたのは、エリザベス様の結婚も阻止するようにと雇い主から言われているためです」

「そんな、何ために? そもそもその雇い主というのは一体誰なんだ?」

「それについては申し訳ありませんが、現段階でお伝えすることはできません。我々が唯一契約に条件としてつけるなら、決して雇い主を誰かと詮索しないこと。ただそれだけです」

「……」

 ジェームズは顔の前で手を組むとしばらく沈黙した。

 関係者だけしか知らない情報を知っている、しかも身分を明かせない雇い主なんて怪しすぎる。

 しかし、このままマコーリー氏と契約しても破滅するのは目に見えてるし、かと言って工場を再建しなければ……


 十数分近く悩んだ挙句に

「よしっ! わかった。私も覚悟を決めた」

と彼は膝を両手でピシャリと叩くと、二人組に対してこう言った。

「では、マコーリー氏に契約はしない事を伝えて、そちらと今から契約する事にしよう」

 その言葉に訪ねてきた二人は、ああ良かったと胸を降ろすと、では契約内容を改めて確認しましょうと書類を彼の前に提示した。


◆◆◆


「信じられない……!」

 エリザベスは喜ぼうとしても、その一言しか言うことができなかった。

「まあ、あちらがどうしても契約して欲しいというような感じだったから、私からも事務室の椅子をもっと座り心地のいいものにしてもらいたいとか、作業室の拡張とか、毎週金曜日は職人のためにビールを用意して欲しいとか、色々とリクエストはしておいたけどね。仕事も早くて、契約した翌日から職人の出入りが始まってるんだ」

「もう、おじ様ったら」

 色々ちゃっかりしているしているジェームズに、くすくすとエリザベスは笑い声をあげた。


「さらに信じられないのはこれだけじゃないんだ」

 ジェームズは両腕を再び広げると、使用料の値上げについても中止になったとエリザベスに教えた。

 昨日知り合いの議員から聞いた情報によると、まだマコーリー氏から正式に発表があったわけではないが、どうやら本部の方からはっきりと値上げに関しては行わない方針が通達されたと噂があったのだ。


「まだ噂程度だが、どうやらその内にマコーリー氏が発表する段階まで来ていると聞くから、きっとこれも中止になるはずだ」

 その言葉を聞いたエリザベスは両手を口にあて、目には涙をうかべて、信じられない! 信じられない! と何度も言って喜ぶ様子を見せた。


 君には嫌な思いをさせてしまって、本当にすまなかったと思っている。

 だが、神は我々は見捨てることをしなかったんだと、泣いているエリザベスの背中をジェームズがさすっていると、遠くで二人に向かって勢いよく手を振っている人物がいた。

 その人物が二人の元に駆け寄ると、エリザベスが泣いている上に、隣にはジェームズがいたため、マコーリー氏の事で何か良くない事でも起きたのか?! また無茶難題を焚き付けてきたのかと大騒ぎした。


「いいえ、違うわ。オーギュスト」

 エリザベスは涙をハンカチで拭うと、信じられない奇跡が起きたのよ! と言って、グラハム夫人の屋敷から戻ってきたオーギュストに向かって微笑んだ。

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