26.魔女の媚薬
部屋の机には未処理の書類が山になっている。
ため息を吐きながらも取り掛からねば……と、トーマスは億劫そうに机のキャビネットの引き出しを開けた。
だが、彼は引き出しの角に置かれた小さな袋を見つけると、それを手に取りまじまじと見つめて先ほどの決意など忘れた、と言うように自分の世界に入ってしまった。
この小袋は、彼が酒場で飲んでいた際に突然妖しげな銀髪の美青年に囚えられて、事の終わりにその青年が彼へ残していったものだ。
中には香が入っており、その甘い香りを袋の上から嗅げば、トーマスはその青年から受けた"レッスン"をありありと思い出して、身体が疼くのを感じた。
あぁ、まただ。この疼きを止めなければ……と、彼がそこに手を触れようとした瞬間、トントンと誰かが部屋のドアをノックしたため、彼はハッと我に返り慌てて小袋をズボンのポケットに入れた。
ドアをノックしていたのは、マコーリー氏の執事だった。
「旦那様がお呼びです! さあ、今すぐに来てください!」
そう言うと、執事は部屋の中に入り、椅子に座っていた彼の腕を強く引っ張った。
◆◆◆
「まったく、これはどういうことだ!!」
普段はそのように叫び声をあげることもないのに、この時は屋敷中に響き渡るような大声でマコーリー氏は叫んだ。
そして、彼はトーマス、トーマスはどこに行ったのです! と執務室から飛び出し、近くにいた執事に早くトーマスを呼んでくるよう言いつけた。
彼がなぜこのように怒りをぶつけているのか。その原因は、当初倉庫の使用料の値上げに乗り気だった本部の方から突然、一転して値上げする事を禁止されたのだ。
さらに、それだけではない。紡績工場のジェームズ氏へ融資するという話だったのに、それも急に白紙に戻して欲しいといわれたのだ。
そして、これだけでも怒り心頭となるのに、この大事な報告を一週間も彼の側近であるトーマスが黙っていたのである。
執事に服を引っ張られるようにして、トーマスは執務室に連れていかれると、マーコーリー氏の机の前に立たされた。
「私が腹を立てている原因はわかりますね?!」
マコーリー氏は片肘をつき、もう片方の手の指で机をトントントンと回答の制限時間を指し示すように叩いた。
「……」
しかし、一向にトーマスは話そうとしない。
痺れを切らしたマコーリー氏は、立ち上がるとツカツカと彼に歩み寄り、手をあげると思い切り彼の頬をバチン! と引っ叩いた。
その衝撃にトーマスはよろめき、後ろの方へ尻餅をついた。
「ここのところ、なんだか様子がおかしいから疲れが溜まっているのかと黙っていましたが……こんな失態を犯すなんて! 使用料の件については、今日までに議会の方へ回答しろと書いてあるじゃないですか! こうなった経緯を早く話しなさい!」
マコーリー氏がそう叫ぶと、トーマスは俯いたままだったが、立ち上がってぽつりぽつりと話し始めた。
彼によると、突然、マコーリー氏の商会の最重要取引先であるメリディエス商会が、今後は一切取引をしない。
取引をしたいなら、この地域の倉庫の使用料を1%たりとも値上げするなと実質脅しのような形で、本部に言ってきたというのである。
さらに、ジェームズ氏の工場についても、突然全く聞いたこともない企業が出てきて、マコーリー氏の提案よりも好条件で融資を行ってくれると言ってきたそうなのだ。
「なっ! なんなんですか! こちらのことが全部筒抜けになっているような状況は! さてはトーマス! あなたが誰かに……」
「……」
何も言わないことで怒りをさらに増長されたマコーリー氏は、机をガン!! と思い切り蹴り上げた。
すると、片付けてなかった書類の山から、ある書類がスーッと彼の前に落ちてきた。それは、エリザベスの家で世話になっているオーギュストという男に関する調査書だった。
「あの男……そう言えば。そしてメリディエス……まさか?!」
マコーリー氏は大急ぎでその調査書を読むと、オーギュストの本名は
「オーギュスト・フィリップ・ポワティエ」ではなく
「シェリル・オーギュスト・フィリップ・メリディエス」で、身分も奨学生ではなく、紛れもないメリディエス商会の次期後継者であると記載がされていた。
さらに、彼が現在結婚相手を探していると言うことも。
「あんの小僧〜〜!!!」
頭の血管を浮き上がらせ、マコーリー氏は怒りに震えた。
使用料の事もそうだが、融資すると言ってる企業に関してもきっと突貫工事で作って、マコーリー氏の手を引こうとさせたんだろう。
メリディエス家の財力とコネさえ使えば、そんなのはお茶の子さいさいなのは明らかだ。だが、そんな彼に頭の中の悪魔がふと囁いた。
「そんなにエリザベスが欲しいなら、早く穢してしまえばいい」
そうだ。
そうなのだ。
脅せる手段がなくなってしまった以上、そうするしかない。
彼女が穢れなき乙女でなくなれば、流石にあの小僧も手が出せなくなるだろう。
幸い、今日の夜はエリザベスとの会食がまた入っている。
「ふふふ……」
マコーリー氏が不気味に笑っていると、いつの間にかトーマスが執務室のドアに鍵をかけ、さらに彼は何処からか香炉を炊いて持ってきて、執務室の机にそっと置いた。
「それは何です?」
マコーリー氏が尋ねると、トーマスはこう答えた。
「こちらは身も心も蕩されるためのお香です」
「ほう、それはいい……」
それはそれは今夜にうってつけだ。食事のワインに少し眠り薬を盛って、さらにこの香りを使えばきっと……
そのようにマコーリー氏が如何わしい考えを張り巡らしていると、香の影響でいつの間にか興奮していたのか、彼は下半身が熱くなってくるのを感じた。
「トーマス。この香りに効果がありそうなのはわかりました。だから今すぐ火を決して残りは夜にとってーーー」
と言った瞬間、トーマスは彼に抱きつき、さらにはなんと彼の唇を強引に奪った。
「?!」
驚いたマコーリー氏は、バランスを崩すと床に倒れ、何がなんだかわからぬまま呆然とした。
しかし、間髪を入れずトーマスはマコーリー氏の上に馬乗りになると、自分のクラヴァットを外し始めた。
「あ、あなた! 何を考えてるんですか! 正気ですか?!」
マコーリー氏はそう叫んだものの、トーマスは外す手をやめず、それでマコーリー氏の口を塞ぐと、今度はマコーリー氏のクラヴァットを外して彼の手首を縛り上げた。
「ふんっ!んんー!」
彼は必死に抵抗したが、馬乗りにされている上に手も縛られているために足をバタバタとするしかできない。
「旦那様。どうかお許しください。ですが、私はもう自分を止めることができないのです……! ここ数日、ずっとあなたに身も心も愛される夢を見ておりました。エリザベス嬢ではなく、ずっと側にいた私を見てください!」
トーマスはマコーリー氏を強引に立ちあがらせると、力任せに勢いよく執務室の机に彼をねじ伏せさせた。
マコーリー氏は逃げようと抵抗しようとしたが、ふんっと力を入れた際に、机に置かれていた香炉の香を思い切り吸い込んでしまったため、香りの効果ですぐにふにゃふにゃと力が抜けてその場に突っ伏したままの状態となった。
トーマスが押さえつけていた手を離しても全く動こうとはしない。
トーマスは彼の背後に立ったまま
「これでようやく、あなたと結ばれることが出来る……」
とマコーリー氏の耳元へそっと囁くと、ああこの瞬間を待ち侘びていたのだと歓喜に震えた。




