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20.嗤う悪魔



 エリザベスは鏡台の前に座り、髪の毛をナイトキャップを収めていると、窓のカーテンがパタパタと靡いていることを鏡越しに気がついた。


 今夜はいつもよりも風の強い夜のようだ。

 窓を閉めるため彼女は椅子から立ち上がり窓に近づくと、少し焦げ臭い香りが彼女の鼻腔を刺激した。

 何か燃えているのかしら? 彼女は閉める前に窓から顔を出すと、その予感は的中していた。

 彼女が今いる家からやや右寄りの方面で、黒い煙がもくもくと上がっている。


 しかしながら、向かいの家の屋根が丁度被ってしまっていたため、煙の原因はどこから発生しているのか、その時点では彼女が把握することはできなかった。


 ……火事だったら怖いわね。すぐに消し終わるといいのだけど……


 ベッドサイドのランプの火を消し、そう思いながら彼女は横たわると目を瞑り、眠りに落ちた。



 翌朝。

 朝食を済ませたエリザベスが中庭の草花に水をあげていると、大変よと言ってジョンの妻が彼女の元に駆け寄ってきた。


「おば様。どうなさったの?」

「お隣さんから聞いたんだけど、昨日の火事はどうやら紡績工場の方で起きたらしいの。エリザベス、確か親戚があちらにいるんじゃなくて?」

 たしかに昨日の火事を思い出すと、ジェームズやトッドがいる紡績工場の方角だ。

 彼女は手に持っていた陶器製のジョウロをガーデンテーブルに慌てて置いた。


「は、はい。そうです! 母の従兄弟がやってるんですけど。無事なんでしょうか?!」

「ごめんなさい。安否までは聞いてないの。でも、親戚の無事を確認したいわよね。どうしましょうか……」

 現在、エリザベスは父親の指示に従って街に近いジョンの家に匿われている。

 もし、出歩いているところを男達に見られたりでもしたら、また攫われる可能性がある。

 そのため来週の交渉まで一歩も家から出れないという状況だったのだ。


「そうだわ!」

 エリザベスはふと、ある事を思いついた。

「ねえ、おば様。アランの服を貸してくださる? あの子の背丈なら私と変わらないから変装して工場まで行ってみるわ!」


◆◆◆


 シャツにズボン、そして帽子を深めに被って少年の格好をしたエリザベスが工場の方までいくと、興味本位で野次馬にきた人間達が確認しにきたり、戻っていったりとひっきりなしの様子だった。


 どうかボヤ程度で済んで欲しい。

 そう願ったエリザベスの想いも虚しく、工場の外壁は残ってはいたものの煤けており、屋根は崩れ落ちているという有様だった。

 野次馬からは、全焼だってなあとか、あれは復旧にも時間がかかるぞなどの声があがっていた。


「ちょっとすみません!」

 エリザベスが人をかき分けて工場に入ろうとしたものの、野次馬を立ち入らせないようにするためか、門はロープでガッチリと締められてしまっていた。

 だが、昨日の火事は夜に起きたものだ。もしかしたら、ジェームズもトッドも家に帰っていたかもしれない。

 彼女は望みをかけて、工場から少し離れた彼らの家へと向かった。


◆◆◆


 彼女がジェームズたちの家に行くと、扉越しにはいと聞きなれた声で返事をして出迎えてくれたのはトッドだった。

「よかった! あなたは無事だったのね。昨日火事があったようだったから心配だったのよ」

 エリザベスは安堵をし、目に浮かんだ涙を指で拭った。


「ところでおじ様は? おじ様も無事よね?」

「うん。親父は……あっちだ」

 そう言ってトッドがエリザベスを招き入れると、いつもは飄々としているジェームズもさすがに憔悴しきっており、頭を抱えるようにして応接間の椅子に座りこんでいた。


「おじ様……」

 エリザベスがそう彼に声をかけようと思った矢先。彼女は彼の向かいに、男が座っているのが目に入った。


 そしてその男が振り返ると―――


 エリザベスが今最も会いたくない人、なんとマコーリー氏がだったのだ。


「何故あなたがここに!?」

 彼女が驚いて両手に手を当てると、マコーリー氏も少年に変装しているのがエリザベスと気が付き、おやおや、こんなところでお会いするなんて奇遇ですねぇとわざとらしいようなセリフを吐いた。


「ふふっ。いつものドレス姿も素敵ですが、男装したあなたもなかなか素敵だ。どうしてそのような姿をしているのかは不思議ですが」

 その言葉にエリザベスは背に氷を当てられたのかのように、肌に鳥肌を立つのを感じた。

 しかし、彼女らの会話を遮るように

「エリザベス。ちょっとこっちへ来てくれないか」

と、トッドは彼女のシャツの袖を引っ張ると彼女に外に出るように頼んだ。



「ねえ、何であの人がここに居るのよ?!」

 エリザベスはトッドに連れられて外に出ると、開口一番にそう尋ねた。

 トッドは少し黙り込んだが、ゆっくりと彼女に向ってこう言った。

「昨日の火事で工場の器具や製品はすべて燃えてしまったんだ。帰るときに火の元については親父も、当番の担当者もちゃんと消し忘れてないかチェックをして工場を出ていったから、おそらく放火だろうと。巻き込まれた人はいなかったから、器具さえ揃えられればまた製品を作ることができるけど……再建するにはお金がない。うちには新たに機材を買いなおすほどのお金は無いし、親父は工場を畳むかもしれないと言っていた」

「そんな……」


 でも……と、トッドは続ける。

「たまたま火事のことを知って、うちのことを気の毒に思ったマコーリーさんが先ほどやってきて、お金を無利子で貸してくれると言ったんだ」

「なんですって?! それで、おじ様はその提案を受け入れたの?」

「いや。それはまだなんだ。マコーリーさんもただそう簡単には貸すことができないって言ってたから。その代わりの条件として……」

 トッドはそこまで言うと、急にエリザベスに向かって頭を大きく下げた。


「頼む! エリザベス。どうか……どうかマコーリーさんと結婚してくれ! 彼も工場を再生するほどの資金を無条件で貸すには身内じゃない限り無理だっていうんだ。だから、貸す代わりに君に結婚を前提とした交際を承諾してもらうよう俺たちに言ってきたんだ。もし、このまま貸してもらえなければ、工場を畳むどころか借金を抱えたままでうちの家族は……」

「そんな。お金を貸してくれるのは彼だけではないはず。きっと探せば……」

 と、エリザベスが言いかけた途中に、玄関のドアが開いて中からマコーリー氏が出てきた。


「ふふふ。エリザベス嬢。やはりあなたは女性だ。ビジネスについては世間知らずですね」

 会話を聞いていた彼はチッチッチと言いながら指を振って、彼女の言いたいことを遮った。


「いいですか。世の中でお金を貸すというのは、それなりにメリットが返ってくるからみんな貸しているのですよ。でもこちらの工場はどうでしょう。世間では綿の方が売れているいるのに、未だに羊毛にこだわって羊毛製品しか製造していない。そんな今時大して儲からない工場にポンとお金を貸してくれる人物など、かなりのお人好しくらいしかいませんよ。まあ、そんな人をビジネスにおいて私は見た事がありませんが」

 そう言って、マコーリー氏は肩を竦めた。


「まさか……それがわかっていて、あなたかあなたに頼まれた誰かが工場に火をつけたの? そうなんでしょう?!」

 エリザベスは信じられないといったように、彼に向って大きく叫んだ。

「ほほほほ! エリザベス嬢、それはさすがに想像力が豊かすぎですよ」

 手の甲で口を押さえるようにして彼は笑った。


「まさか。まさか。私が火を放つわけないでしょう。それに、先ほど火を放ったと思われる人物が捕まったと耳に入れました。どうやら犯人はあなたの家に押し入った男連中の一人だそうですね。かなり泥酔してるようでしたら、感情任せに火を放ったのではないかと言われていましたが」

 マコーリー氏は手を振り払うようにしてそう言うと、で、どうするんですか? あなたは自分を通して私と結婚しないことも可能ですが、もし結婚しなければ……ねえと彼はトッドに向って、にっこりとほほ笑んだ。


「だからどうか頼む、エリザベス」

 トッドはただ頭を下げるだけではなく、今度は膝をついて彼女に懇願した。

 そして、頼む、頼む、君じゃないと俺たちは助からないんだ。後生だからと泣きながら言って彼女に向って、何度も彼女に頭を下げた。

「……」

 そんな泣き崩れてぐしゃぐしゃになっている姿のトッドをエリザベスはじっと見つめ、幼いころにここで遊んだ記憶や、工場で働くおじの姿を思い返していた。

 もし、自分がここで承諾しなければ彼らは……


「トッド。お願い、立ち上がって」

 エリザベスは嗚咽を漏らしながら、泣いている彼を抱きかかえるように立ち上がせると、あなたの気持ちはわかったわ。大丈夫よ。と耳元でささやいた。

「マコーリーさん。彼らを助けるには……私があなたと結婚するしかないようね」

 彼女の後ろ側に居たマコーリー氏に振り返り彼女はそう言った。


「ええ。それが一番の最善だと思います。それで、あなたとしてはどのようにお考えでしょう?」

 紳士らしい穏やかな表情でそう聞くマコーリー氏が、その時のエリザベスにとってどう映ったかは定かではない。

 しかし、彼女は覚悟を決めて静かに声を出した。


「あなたとのお付き合いを……承諾いたします」


 その言葉を待っていたというように、マコーリー氏はパチパチと拍手をエリザベスに向って叩くと、まるで神に勝った悪魔のようにふははははと大きな笑い声を上げた。

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