第九話 逢引(デヱト)
朝、目を覚ますとまず順三は剣の稽古をする。
涼しさより若干、寒さと呼べるようになってきた朝方の空気。モニカの部屋から離れない、すぐに飛び込める距離の中庭に出た彼は着物の袖から出た手にステッキを握り、正眼に構えた。それだけで空気がぴりっと張り詰めるのを、自分でも感じる。
かつて師によって教え込まれた各種の技をひとつずつ練り、動きを確認していく。
満足に刃筋が通っていないと感じれば――まあ、ステッキに刃筋もないものだけれど――しつこいくらい同じ動作を繰り返し、納得いくまでやり直す。
汗がにじみ、日が高くなっていく。
五つの技をすべて成し終えるまでにすっかりずぶ濡れになった順三は、最後の動作を終えると残心を怠らず、腰にステッキを戻した。
「ふう。ま、こんなところか」
身に着けたものが鈍っておらず、少しずつでも師の技に近づいていると思えるこの時間は彼にとって重要な時間だった。なにより集中していると言ってもいい。
「おみごとですね」
「うわっ」
そこに話しかけられ、集中していたはずなのに……とびっくりする順三。
振り返れば中庭をのぞむ窓で、起きてきたらしいモニカがこちらを見ている。
気配を消すのがうまいのか、こうして眼前にいても薄い印象しかなかった。あんなにも可憐で美しいのに。
ころころと笑いながらモニカは頭を下げた。
「急にお声がけしてしまって、申し訳ありません。妾、狙われる身でありますので平素より気配を消していることが多くて……」
「あ、ああ。なるほど。隠形に長けているのはそういう理由でしたか」
ぎくしゃくしながら順三は返す。
けれどそれはモニカの知らない一面を見たから、というよりも。
「……どこまでを、見ました?」
「最後に繰り出していらっしゃった、切り上げの技ですが……たしかあれは、妾をお守りくださった際にも用いていたものですね?」
「ええ、まあ……【冴斬り】といいます」
見られたのが既知の技だったことへ、なんとなく安堵する。その気のゆるみを察したのか。モニカは自分がなぜ緊張を強いてしまっていたのかと疑問そうな顔で、問うてきた。
「稽古は、見られたくないものですか?」
「と、いうよりは――見られないようにしてきたためそのクセが抜けていなくて。師匠からも言われていたんです、『どのような技にも返し技がある、ゆえに多くの耳目にさらすのは得策でない』なんて」
「そうでしたか。それは不躾にのぞいてしまったこと、ますます謝らねばなりませんね」
「いえ。モニカさんは守られる側ですから、知っていてもらっても構わないんですけど」
順三がどのような技を使うか、他者に漏らすようなこともないしそもそも阜章の技を系統立てて知っているわけでもない。部分的に見られたからとて、本当はとくに問題がないのだ。こっそり見られていたことに気づけなかった自分への反省が、ちょっと大きいだけである。
「よかったら、きちんと見ますか? 残りの技についても」
「いいえ、秘されていて然るべき技なのでしょうから。今後の楽しみとしても、とっておこうと存じます」
「楽しみって、基本的に俺の技は発揮されないほうがいいとは思うんですが」
「あ。それもそうでしたね」
うっかりなのか冗談なのか、わからない顔でモニカはぼやく。その様子に毒気を抜かれて、順三は少し笑ってしまった。
「ともあれ、汗を流しませんと風邪をお召しになってしまいます。湯殿を用意させますね」
「いや、そんな。お手をわずらわせるわけには」
「いえいえ。護衛の方の体調管理も雇い主のお仕事です」
気恥ずかしく思いながら、順三はありがたく湯を借りることにした。ただ、モニカのそばを離れるわけにもいかないため、とりあえずたらいに湯を張ってもらい手ぬぐいを浸して身を清めるに留める。
モニカは興味深そうに順三の肢体をながめてきたので、顔が火照って仕方がなかった。
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「……順三様。なんと申しますか、お部屋の使い方が……アレなのですね」
それからややあって、午後。
部屋の執務机で資料をまとめていたモニカが顔を上げ、ふと順三を見ながらつぶやいた。
なにか、異世界における礼法的によくない使い方をしていたか、と焦る。
「モニカさん。俺、なにか失礼をしていたでしょうか……」
「いえ、礼を失しているというわけではないのでそう恐縮しなくともよいのですが……ただ、その」
「?」
「……なぜ畳の上にしか、私物を置いていらっしゃらないのです」
あれから。
同衾を断って離れから畳を頂戴した順三は、これを部屋の隅に置いた。
その上に布団を広げて眠り、起きたら畳の上できれいに布団を三つ折りにして。
残る半畳の上で、いまも正座して控えていた。
「たいして私物もありませんから。畳の上だけでいいかなと」
「それは、妾も理解しておりますが。それにしても、その上から微動だにしていらっしゃらないとお見受けします」
「いやぁ、長いこと納屋暮らしだったもので。広く場を使うことに慣れていなくて」
「……あなたがいかにあの家で惨い扱いを受けていたかがまたひとつ、よくわかりました」
モニカはため息をついてつかつかと歩み寄ってくる。
順三の傍らに置かれている例のステッキを見て、彼女は白いレヱスの手套を嵌めた手で、ふむと口許を隠した。
「あなたの腕前であれば、この棒切れでも十二分に護衛の働きが見込めるのでしょうが。そうは申しましても『剣術』としての強みは、幾分発揮しづらくなるのでしょうね」
「まあ、多少は。もちろん、流派としては得物を択ばずの精神なんですけど」
とはいえ、刃があるからこそ可能な技というものは多い。
ステッキにもステッキの利点があろうが、そうは言っても順三は剣士だった。棒術を得手とするわけではない。
そのように考えていると、モニカはじいと順三の手と、ステッキを見比べた。
「そういうことでしたら、ちゃんとした本身の刀を手に入れにまいりましょう」
「え?」
突然の言葉に、順三は動揺を隠せなかった。
そんなさらりと、「夕飯の材料を買い出しにいきましょう」というくらいの軽さで買えるようなものではないはずだ。
加えて、なんだか刀が欲しいと遠まわしな催促をしてしまったように感じて、慌てる。
「いえ、そんな。俺のために、モニカさんにお骨折りしてもらうわけには」
「妾の護衛として十全に力量を発揮していただくためです」
「それはわかるんですけど」
「安全を確保する、その手段のひとつですよ。これは順三様自身の安全確保をしていただく、という意味も含まれます」
「……ありがとうございます」
そうまで言われてしまっては断れない。ご厚意に甘えることとして、順三は頭を下げた。
モニカはにっこりと笑んで、外套の用意をしている。順三も畳んでいた羽織に袖を通した。
「ところで、刀を手に入れると言っても。モニカさんにはあてがあるんですか」
「お忘れでしたかしら? 妾、この國へ四民平等策とそれに伴う制度と歴史を学び、故郷に取り入れるために来訪しているのですよ」
「ということは」
「前時代のこの國が抱えていた技術についても、当然調べていますもの。鍛造の技と美術品と呼べるまでに刀身を研磨する技法、およびそれを伝える方々も存じております」
さらりとすごいことを述べて、モニカは外を示した。
明るく陽光の輝く屋外へ、彼女は手招く。
「お出かけいたしましょう。もちろん道中は、あなたが妾を守ってくださるのですよね?」
当然、否やはなかった。
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日ノ本の國においては古来より男女が連れ立って歩くことは軟弱であるとされ、避けられる。
その価値観は開化後の明治でも変わっておらず、基本的に表で男女が並んでいると怪訝な目を向けられる。
ましてや、美しい容姿のモニカを伴っていれば、目立つことは避けられなかった。
呼びつけた人力車に乗った二人は、道行く人から視線を向けられる。順三はなんとなく、隣の彼女に尋ねる。
「異世界では、あまり気にされないんですか?」
「なにをでしょう?」
「こういう感じで外に出るとか、そういうところを」
「さあ……? 供が居ることを当たり前としていたものですから、ことさらに気にしたことがありませんでした」
「そ、そうですか」
順三としては気になる。
というのも、あくまで主目的が護衛とはいえ──一か月だけの間柄とはいえ、いまの彼の立場は婿なのだ。
女性と外へ、遊興そのものの目的ではないとはいえ、そういう男女としての関係のもとに出かける。
……こういうのは逢引というのではないのか。
それがなにを意味するかはよくわからないが、ただ少し、ふわっふわっとした心持ちになっていた。
「……あっ」
ふいに、モニカが口許を押さえる。
頬に朱が差し、隣に座る順三から顔を背けた。
どうやら、不用意な発言で彼女の方にも意識させてしまったらしい。
気まずい沈黙。
耐えきれなくなり、順三は口を開いた。
「その。形ばかりの関係ではありますが」
「は、はい」
「婿というのは、こういうときどうすればいいんでしょう?」
「……、」
「ほら。その、関係を疑われないほうがいいですし。自然に見えた方が、と。思ったん、ですけど」
口にするほどに自分でもどうなんだこれ、となってしまう順三だった。しどろもどろである。
モニカはややあって、ふっと微笑みをこぼしながら。
ちょうど停まった車のなかで、そっと手を差し伸べてきた。
「では。足元が不安ですので、降りる手助けをしてくださる?」
「が、がんばります」
おっかなびっくり車を降りて、彼女の手套越しの手を握り支えた。二度目だがまだ、触れるのは慣れない。こわばる順三。
そんな彼に、着ている銘仙の裾から美しい脚をちらりとのぞかせながら、不安定そうに立つモニカは目を細めて笑い言う。
「腰に手を回していただいても?」
「ええ……?!」
「ほら、おはやくお願いします」
ぐらぐらしそうなので慌てて手を差し出し支えた。
帯で絞られた腰は細く、また近づくと、華やかな香りがして落ち着かない。肉桂と金木犀のような、ほのかに暖かさを感じる匂いだった。
視線の高さの都合上仕方がないが、眼前で豊かな胸が跳ねるのも、心臓に良くない。
「ありがとうございました」
「いいえ……」
「存外、照れてしまいますね。こういったことをお願いするのは」
精一杯顔を背けていたので見落としていたが、モニカの方もいまだ顔の赤みは取れておらず緊張している風だった。
二人してあさっての方を見やる。車引きをつとめていた侍従が、「そろそろ向かわれては……」とうながしてくれた。
「そうですね……こほん。参りましょう、順三様」
「は、はい」
「手は、もう離していただいても」
「すみませんっ」
握りっぱなしだった手をやっと離して、順三はあせあせと正面に向いた。
住宅街から離れた山の方に位置するここには、傾斜に沿うように簡素なつくりの平屋がぽつねんと建っている。内に火の気があるらしく、ぼうぼうと屋根にある煙突が黒煙を吐いていた。
火があるということは、いかにも刀匠がいるという空気である。
しかし時代は明治。廃刀令となって長い。
もはや刀鍛冶という存在はおらず、大半が『鍛冶師』となり農具や包丁といった生活の鉄具をつくるに留まっている、とはかつて阜章流の師からも聞いたことがあった。そしてその師から、最後にもらったのがあの仕込み刀だった。
誰かを守るとの目的を果たしたのだから当然の末路ではあるが、師との繋がりだったあの刀が失われたことに、いまさらながら順三は寂しさを覚えた。
「ごめんくださいな。もし。いらっしゃるのでしょう」
引き戸をごんごんと、躊躇いなくモニカは叩いた。
その間に順三が見やった前庭には、なにに使うかはわからないが順三の背丈ほどの石くれの山。その向こうには小屋があり、扉の下部にある隙間からこぼれている黒い粉を見るに石炭を納めてあるようだった。
やがて引き戸がごろりと開く。
中からふすぅー、と煙が這い出てくる。
濃く濁った炉の煙ではない。
薄く透けた、煙草の紫煙だった。
「なんだぁ。研ぎか、それとも直しか。いま相槌が出払ってるからあんままともなモンは作れんぞ」
いがらっぽい、けれど高い声が紫煙の根本から届いた。
室内の薄闇からぬうっと出てきて、じろん、と。
赤みがかった髪の女が、モニカと順三をにらみつけていた。
くわえ煙草のこの女の手元には──大きな金づち。
べつに心配はないと思いつつも、さりげなくモニカと女の間に滑り込む順三だった。ちょっと、モニカがうれしそうな顔をした、ような気がする。