<5・ありがとう>
朝から作業をやって、昼ごはん休憩。そして午後も作業。
全てが片付いた時にはすっかり日は落ち、辺りはすっかり暗くなってしまっていた。くたくたになって山を降り、僕は自分の家へと向かう。皆も疲れきっているのは同じであるようで、一部の元気が残ってるおばちゃんキャラ達以外はすっかり無口になっていた。昨日の、遅くまではしゃぎまわって遊んでいた集団とは全く別物になってしまったかのよう。多分、体力云々より精神的な披露が大きかったのだろう。
「はあ……ごく稀にあることとはいえ、やっぱり間近で見ると気が滅入るよ」
防護服のメットを外したカバの夫婦が、ぼそぼそと喋りながら通り過ぎていった。
「事故なのか事件なのかわからないけど、これっきりにして欲しいもんだね。現世での辛い記憶なんか、思い出したくもないし……人がそういうのを見て苦しんでいるのを見るのも本当に辛い」
「ええ、その通りね。今回は誰かが意図的に風船を割ったんじゃないかって話があるけど、本当かしら。何のためなのか全くわからないわ。この世界には、憎しみも怒りも全部吸収されてなくなるはずだし……個人的な恨みなんてそうそう貯まるはずもないのに。滝壺エリアのみんなは、特に優しくて穏やかなメンバーばかりよ?」
「さあてねえ……愉快犯、にしては悪質だな。神様と警察がなんとかしてくれればいいが、最近は人の数も増えて対処が追いついていないからなあ……」
誰かが意図的に黒い風船を割ったのかもしれない。彼らの言葉が、僕の心の奥にずっしりと詰まるように沈んだ。同時に、僕が感じていた違和感が正しかったという確信も。
――記憶は、まだ完全に戻らない。でも、少しずつ思い出してきてはいる。
僕は大きく息を吐いた。神様を心の底から信じているように見え、親切にしてくれた彼女――ふわりを探すために帰路につきながらも周囲を見回す。
――僕の家は、五人家族。お母さん、お父さん、お姉ちゃん、お兄ちゃん、そして一番下の弟の僕。でも……みんなは僕の、血の繋がった家族じゃない。だって僕は動物で、みんなは人間。僕は、そこに飼われていた何かの動物だ。
何の動物だったのかは、未だに思い出せないけれど。でもお母さんやお姉ちゃんはよくベッドに僕を招き入れてくれて、一緒に眠ってくれたのを覚えている。まだ小さなお兄ちゃんに絵本を読んで貰ったこともあるし、お父さんと一緒にテレビを見たこともある。僕が人間の言葉をすぐに喋ることができたのもそれらのおかげだろう。彼らのおかげで人間の文化の多くにも詳しくなったし、結構コアな知識も身につけることができたように思う。彼らはたくさん話しかけてくれたので、人の言葉を理解できるようになるのも早かった。僕は、間違いなく幸せな家庭に拾われたのだ。
そう、拾われたのである。
なんせ、僕は元々は、公園のベンチの横に捨てられていたのだから。僕にとって人間のお母さん、は二人目だった。最初のお母さんは僕を捨てる時、こんなことを言っていた気がする。
『ごめんね。うち、二匹目は飼えないのよ。どうか、いい人に拾われてね……』
捨てられるまでのことは、小さすぎてよく覚えていない。ただ、いつまでも声を枯らして、行かないでと叫んでいた記憶はある。冷たいダンボールの中で、ひとりぼっち。寒い日のことだった。このままなら自分は死んでしまうのに、いい人に拾われてねも何もあったものではない。
泣き疲れて眠っていた僕を助けてくれたのが、二人目のお母さん。僕は、助けてくれたお母さんが大好きになった。同時に、もう一度捨てられることがあったらどうしようと不安で仕方なかったのである。今の日々が幸せであればあるほど、捨てられた心の傷がじくじくと傷んでたまらなかったから。
どうか、この日々が最後の最期まで続きますように。そう願っていた。願っていたというのに――。
――わかってる。何で僕がこの世界に来てしまったのか。僕がお母さんを信じて待つことのできる強い子だったら、多分こんなことにはなってないんだ。
信じられなくて、寂しさが爆発して。だから僕は、此処に引き寄せられてしまったのだろう。
この、偽物の楽園に。
「何でこんなことしたの?」
はっとして顔を上げた。路地裏から、聞きなれた声が聞こえたからだ。その声は記憶にあるよりずっと尖って低いものであったけれど。
「君だよね、シリル。……滝壺エリアの黒い風船を割って回ったの。少し顔色悪かったのもそのせいでしょ」
「……わかっていたのに、言わなかったのかふわり。相変わらず偽善者だな」
「そう思いたければそれでいいよ。話逸らさないでくれる?どうしてこんなことをしたのか、ってわたしは訊いてるの。滝壺エリアに住んでた子達がどうなっちゃったか、君もその目で見たはずだよ?酷いことをしたとは思わないの?」
僕は慌てて、声がする方へと走った。角からそっと顔を出し、暗い路地裏で話し込んでいる二人の姿を伺う。
思った通り、話しているのはふわりとシリルだった。どちらもまだこちらに気づいてはいないらしい。ふわりは、初めて見るような怖い顔をしている。
「酷いこと?……お前がそれを言うか、神様の狗め!」
シリルはギンッ、と音がしそうなほど強くふわりを睨んだ。
「悲しい記憶と、マイナスの感情を強引に消して!楽しい気持ちを神様の魔法で植え付けて、何が楽園だ!何がみんなを幸せにするだ!そんなもの、魔法で誤魔化してるだけじゃないか。黒い風船を割った時のあいつらの様子を見ただろう、あれで改めて思い知った奴も多いはずだ。この世界は偽物だと。心の傷をちゃんと癒すこともせずに、魔法の力で誤魔化しているだけにすぎないと!そんなもの、俺は本当の幸福だなんて認めない!」
それは。まさに僕が思っていたことと同じだった。
記憶を思い出したら教えてね、とふわりが言ったこと。辛い記憶は幸せになるために不要だと告げたこと。この世界に大量に浮かぶ“幸せ”を詰め込んだカラフルな風船と、回収される“不幸せ”の黒い風船。
この世界は、悲しみを力技で消し去ることで成り立っている場所なのだ。
本当の人生は、楽しいことだけではないからこそ価値あるものであるはずなのに。
「何でこの世界に、神様が作ってもいない黒い風船がどんどん増えていくんだと思う?……神様が魔法で上書きしたって、人の心から完全に闇が消えることなんかないからだ。どんなに楽しい気持ちを植え付けて押さえ込もうとしても、心に押し込めた傷が消えたわけじゃないから、見えないところにどんどん負の感情は溜め込まれていく。だから黒い風船がどんどん増えるんだ。お前らがやってるのはそれを見て見ぬフリして片付けて、その場凌ぎをしてるだけだろ……!」
「君が言いたいことはわかるよ?でもね、辛い記憶を抱えたまま幸せを見つけられる人が、この世の中にどれだけいると思うの?みんながみんな、君みたいに強いわけじゃないんだよ。捨てられて、虐げられて、虐められて、苦しめられて……その記憶を抱えても心から笑えるようになる人なんてほんのひとにぎりなの。だったら辛い記憶と気持ちを消して、少しでも早く、一人でも多く幸せになって欲しいと思ってもいいじゃない……!わたしも神様も、ただそうやって……っ」
「そう思いたいのは勝手だが、それを人に強制するな!大体本気で辛い記憶が不要だと思ってるなら、何でお前自身がそいつを神様に消してもらわないんだ。本当は自分だってわかってるからじゃないのか……!」
「!!」
シリルの言葉に、完全に声を失うふわり。そんな彼女を一瞥すると、シリルは険しい表情のまま路地の奥へと歩き始めた。
一度だけ振り返り、告げる。
「俺は、消さない。……人間に虐め殺された記憶も、その怒りも、俺の一部だからだ。誰かを恨むことは自由だ、死んだ後でやっと許された俺の真実なんだ……!そいつを誰かに奪われて、幸せになんてなれるかよ。俺は俺だ、それ全部ひっくるめて俺なんだ……!この世界に流れ着いちまったのが俺の弱さだとしても俺は……俺の全部を、手放したりなんかするもんかよ」
後に残されたのは、茫然と佇むふわり。ああ、もしかしてそういうことだったのか、と。僕は苦い気持ちを噛み締めたまま、そっとふわりに駆け寄っていく。
「……ふわり」
「ごめん。……嫌なとこ、見せちゃったねぇ」
振り返った時、彼女はいつもの彼女だった。きっと途中から、僕が覗いていたことに気づいていたのだろう。
「わかってるんだよ、自分でも……矛盾したことしてるって。本当に、記憶を消して楽しい気持ちだけを植え付けてもらうのが幸せだっていうなら、わたしが真っ先にそうするべきだっていうのは。それなのにそうしないのは……人にどう言ったところで、辛い記憶も必要だって自分で思ってるからだよね……」
「……さっき、シリルが言ってた。自分は人間に虐め殺されたって。ってことは、この世界にいる住人って……」
「全員じゃ、ないよ。中には生きたままこの世界に流れつく人もいる……君みたいにね。でもわたしは……うん、リオの思っている通り」
はにゃ、と困ったような顔で少女は笑う。今までで一番、胸が痛くなる笑みだった。
「わたしも、人間の世界で死んだの。ダンボールの中で、他の兄弟と一緒に捨てられて、放置されちゃって。……寒かったし、喉も乾いたし、苦しかったなあ。ダンボールの中からずっと、すぐ近くの家の様子を眺めてた。人間の子達はあったかい家に入れていいな、ベッドがあって、美味しいごはんが食べられて羨ましいなって。……だからわたし、人間に近い姿になったの。猫の自分を、完全に捨てられたわけでもないくせにね」
『窓の外から、こういう感じの女の子のポスターが見えたの。こういう姿なら、人間に好きになってもらえるかなって、そう思って』
最初に会った時のふわりの言葉を思いだし、僕は胸が締め付けられるような気持ちになった。彼女は、人間に愛されたいと願いながら、その短い生涯を終えたのだろう。可愛らしい女の子の姿になれば、今度こそ人間に好きになってもらえるはずだと信じて。
「辛い記憶に、泣いちゃう時もいっぱいあって、それが苦しくて。だから、神様の言う通りに動いてきたの。みんなの辛い記憶を消してもらえるように。楽しい気持ちだけ感じて、毎日笑って貰えるように。……動物も、人間も、そんな強くなんかない。特に死んだ後でさえ苦しみ続けるなんて、そんな可哀想なことないじゃない?」
「ふわり……」
「それが本当の幸せだなんて言えないっていう、シリルもきっと正しい。わかってるんだよ。わかってたんだけどね……」
沈黙が落ちる。僕は静寂の中、必死で言葉を探した。僕と彼女は今でこそどっちも人間に近い見た目をしているけれど、実際は全然違う生き物で。抱えている感情も過去も違うし、僕に彼女の痛みの全てがわかるなんて言えるはずもないけれど。
泣き暮すほど苦しい気持ちを抱えてなお、それでも人間を恨まないでいる彼女を――毎日笑って、誰かの幸せを願おうとする彼女を。気づけば僕は、そっと抱きしめていたのだった。
ああ、こんなふわりだから。神様は、使者として彼女を選び、招き入れたに違いない。
「……君の言うことも、シリルの言うことも正しいと思う。でもね……」
ふわりは少しだけ驚いた様子で、僕の顔を見つめているようだった。鼻先を、彼女のふわふわとしたピンクの髪が掠め、どこか甘い香りが漂う。
彼女は死者としてこの世界に行き着いたけれど、僕はそうじゃない。まだ、帰る場所がある。共に此処で生きることができないことなど、最初からわかっていたことだ。
それでも、同じことを願うことはできる。
共に幸せを、祈ることならできるのだ。
「でも、ふわり。今の君がこんなに優しいのは、その辛い記憶と心があったからだと思うんだ。自分が辛い想いをした分、君は他の誰かにはそんな想いをしてもらいたくないって、そう思えるようになったんでしょ。そんな君のおかげで、笑顔になれた子もたくさんいるんだと思う。……それも、幸せってことなんじゃないのかな」
「……わたしが?」
「そう、君が。……辛い記憶、不要なんかじゃないよね。苦しくても悲しくても……それが全部、君って存在を積み上げてるはずなんだから。そういうものを乗り越えて、幸せを見つけることもできる。ふわりが本当は、誰よりそれをわかってるんじゃないのかな」
それは、僕が僕自身に言い聞かせていることでもあった。
捨てられた記憶。捨てられるかもしれないという恐怖。忘れたいと思ったことなど何度でもある――でも。
そういう時間があったからこそ、家族を一生懸命愛したいと思ったのもまた、紛れもない僕という存在に違いないのだ。
「……帰るんだね、君は。元の世界に」
ふわりの言葉に、僕は黙って彼女を抱きしめる腕に力をこめた。それが何よりの答えだと彼女も気づいただろう。
「ありがとう。……そうだよね。君はまだ、生きてる。帰る場所があるんだものね。そしてその帰る場所の家族を、君はまだ信じる勇気を持ってる。だったら、そうした方がいいよ。人間の世界にも、楽しいことたくさんあるし……君が一番欲しいものは、きっとそこにあるんだものねえ」
「……ごめん、ふわり。僕」
「ううん、いいの。一つだけ、お願いしてもいいかな」
そっと身体が離れる。彼女は目を潤ませて、僕に告げたのだった。
「あと一日だけ、わたしに頂戴?……君と一緒にあと一日で、いっぱいいろんなものを見て、考えたいの。本当の幸せってなんなのかってこと。君と一緒なら、見つけられる気がするから」
***
幸福。
言葉にすればたった漢字二文字だが、その意味は人それぞれ千差万別であることだろう。何を幸せと考えるべきか、なんて他人が決められるものではないに違いない。
ふわりが言った言葉もまた、真実だ。苦しい記憶を抱えたまま幸せに生きていける者なんてひとにぎりで、忘れられるならばそうしたいと願う者もきっと少なくないに違いない。過去を抱えて、重い荷物を背負って、長い道中を歩き続ける。それにはきっと強さが必要で、耐え切れずに折れてしまう者も少なからずいるはずなのだ。
それでも僕が、その荷物を背負って現世で生きることを決めたのは。そうやって転んでも、差し出される腕があると知っているからに他ならない。
独りぼっちではないと信じられる。人間も動物も、本当のところそれ以上の幸せは他にないとも言えるのかもしれなかった。
「お母さん!」
声を上げて、ベッドから飛び起きる。残念ながらもう人間の姿ではない僕の声は、家族には“きゅう!”という鳴き声にしか聞こえなかっただろうけど。
「あ、起きたのかリオ!」
お父さんが駆け寄ってきて、僕を抱き上げた。髭をすりつけて甘える僕の背を撫でながら、お父さんが言う。
「朝のお風呂、連れていってやるからな、水もう張ってあるぞ。……それと、今日はいいニュースがある。お母さん、無事に帰って来られるそうだ。おばあちゃんが危篤を脱したって」
「きゅ!?」
「お、嬉しいかリオ!良かったな、お前大好きだったもんなあ」
どうやらお母さんが何も言わずにいなくなってしまったのは、おばあちゃんが入院してしまったからということらしかった。何だそういうことだったの、と僕は心の底から安堵する。そういうことなら説明してくれれば良かったのに――と思ったが、ペットの僕が人間の言葉を理解しているなんてお母さん達は思っていないのだろう。歯がゆい気持ちはあるが、仕方ない。
僕がお父さんに連れられてお風呂にダイブし、気持ちの良いプールを堪能してしばらくした後、玄関のチャイムが鳴った。僕は風呂の床で滑りそうになりながらも、濡れた身体のまま飛び出してしまう。
こら、リオ!というお姉ちゃん達の声が聞こえるが、今は無視だ。玄関に見えた、大きなスーツケースを持ったお母さんの姿を見るなり、思い切りダイブする。きゅう!と甲高い声を上げて大歓迎だ。
――おかえりなさい、お母さん!
コツメカワウソの僕は、お母さんのあったい腕に抱きついて鳴いたのだった。




