<1・はじめまして。>
ベッドの中で丸くなって、嗚咽を漏らしたことは覚えている。何で、どうして。そんな言葉を繰り返し、繰り返し唱えたことも。
――お母さん、どこ。どうして、帰ってこないの。
父や姉、兄達は傍にいてくれる。でも一番大好きなお母さんが家に帰ってこなくなってから、もう一週間が過ぎてしまった。
不安で胸が押しつぶされそうになる。寒い中、かつての“お母さん”に置き去りにされた記憶が蘇ってくるのだ。あんなに優しく背中を撫でてくれたのに。名前を呼んで、大好きだと言ってくれたのに――あの人は、自分を捨てた。今の新しいお母さんは、もうそんなことはしないと信じていたのに。
自分のことが、嫌いになったのだろうか。
お母さんが何かを話しかけていたのを、ちょっとしたことで機嫌を悪くしてそっぽ向いたからいけなかったのだろうか。
だから自分はやっぱり悪い子で、要らない子だということになって、お母さんも僕を捨てていくことを決意したのだろうか。
――嫌だ。嫌だよ。そんなの嫌だよ。あったかいベッドがあっても、ごはんがあっても、他の誰かがいてくれても……お母さんが傍にいてくれないなんて、嫌だ。
泣きながら真っ暗な闇の中に沈んでいって、気づいたら眠ってしまっていたのだろう。けれど、僕が覚えているのはそこまでだった。
起きて、と。鈴が鳴るような優しい声で呼びかけられて、僕は目を覚ますことになるのである。
「起きて、リオ。みんなが、君を待ってるよ。大丈夫、此処には、怖いものなんて何もないから……」
はっとして目を見開いた僕は、あまりの眩しさに唖然とすることになるのだ。
そこは、ふわふわのベッドのように柔らかいピンクの床に、いくつもの丸い風船が浮いていて、金色の空が広がっている――そんな不思議な空間であったのだから。
「こ、ここ、どこ!?」
驚いてきょろきょろする僕の手をそっと握った者がいた。はっとして振り向くと、そこにはピンク色の髪に緑色の目をした可愛らしい女の子がちょこんと佇んでいるではないか。
人間ではない、ことはすぐに分かった。人間そっくりの姿をしているが、決定的に違うところがあるからである。彼女は、猫の三角形の耳をくっつけていた。その上で、お尻から長く艶やかなしっぽを垂らし、ゆらゆらと揺らしていたのである。耳としっぽは茶色だった。彼女はふにゃ、とした笑顔を見せて、僕に告げる。
「はじめましてー。わたし、ふわりっていうの。この世界に新しく来た友達を案内するのがわたしのおしごとー。仲良くしてねぇ」
「へ?は……あ、うん」
彼女の手はよく見れば、人間よりも猫の手に近いものだった。ふわふわの肉球がくっついていて、でもまるで人間のように発達しているのかしっかりものを握ることが出来るようになっているらしい。とすると、力をこめれば鋭い爪を出すことも出来るようになったりするのだろうか。僕は近所でよく見かけていた野良猫のことを思い出していた。最近あまり見なくなったが、あの三毛猫は元気にしているだろうか。メスの割に壁は登るわ木は登るわ烏と格闘するわ、実にアクティブで元気のいい猫だったが。
猫は可愛いと思うが、正直遠目で見るだけで充分というのが本心だ。
奴らは見た目に反してなかなか凶暴なことが多い。ちょっと近づくとすぐ猫パンチをかましてくるのはどうにかならないものか。しかも結構爪も出してくるので地味に痛い。僕は彼女の手と自分の手をまじまじと見比べてしまう。そういえば、自分の手にも違和感がある。自分の元々の姿は、こんな人間っぽい姿ではなかった気がするけれど。
――あれ?元の僕って、なんだったんだっけ。
泣きながら、帰って来ないお母さんを恨んでいた気はするのに、なんだかそれ以前の記憶が曖昧だ。
頭がまだふわふわするのは、この世界にやってきたせいなのだろうか。
「えっと、ふわりって元々猫だったりするの?」
猫は苦手だ、と言ったら気分を悪くしてしまうかもしれない。とりあえず当たり障りのないことから尋ねてみることにする。
すると彼女は、ピンク色の髪からぴょこんと覗いた耳を動かして、うん、と愛らしく頷いた。
「猫だよー。野良だったけどねえ」
「何で中途半端に人間みたいな姿してるの?そりゃ、人間の身体になったら、便利なこともたくさんあるかもしれないけど」
「この世界では、好きな姿に変わることができるからねえ。わたしは猫としての自分が好きだけど、人間みたいになるのも面白いかなあって思って、猫人間みたいな姿になってみたの?どうかな、可愛いかな?」
「う、うん。可愛いよ」
「良かった!」
ちょっと人間離れした見た目が過ぎるんじゃないかな、と思ったけれど。よくよく考えれば、人間が大好きなアニメや漫画というやつは、本来なら“そんな髪の毛の色の人間なんかいないだろ”ってキャラクターも珍しくない。僕の姉さんはいわゆる“オタク”というやつだったらしく、それはそれはいろんなアニメや漫画のポスターを買って部屋にべったべったと貼っていたけれど。その中には、ふわりみたいなピンク色の髪の毛の男の子や女の子もちょいちょい存在していた気がする。でもって、彼女みたいになんというか――目が大きくてキラキラしていて、妙に幼い顔をしたキャラクターも多かったというか。
「可愛いけど、あんま現実の人間っぽくないよね」
僕が思わずストレートな感想を漏らすと、彼女は少しだけ表情を曇らせた。そして。
「窓の外から、こういう感じの女の子のポスターが見えたの。こういう姿なら、人間に好きになってもらえるかなって、そう思って」
さっきより少し小さな声で、そう言った。どうやら僕は、彼女の触れて欲しくない部分に無作法に踏み入ってしまったということらしい。思わず“ごめん”と謝った。何も、傷つけたかったわけではないのだから。
「すっごく可愛いし、いいと思うよ。こ、個人的には完全に猫よりもとっつきづらいし」
「なるほど、君は猫が苦手と見た」
「え!?あ、いやそれはその、そういうわけ、でもあるけど」
「気にしなくていいよお。そういう子も此処にはいるからねー」
彼女に手を引かれて、ふわふわの床を歩いていく。丸い風船の類は、身体に当たっても特に痛くはないようだった。ふわふわと飛んでいくそれに、思わず飛びつきたくなって止まる。なんだろう、ああいうものがころころ転がって逃げていくと、頭突きをしたり鼻先でつっついてみたくなるのだ。自分の元の姿の本能、とかそういうものであるのだろうか。ということは、やはり僕は元々は人間ではなかったということなのだろう。何故か今は、人間のような姿になってしまっているようだけれど。
ああ、鏡が欲しい。自分が今どんな姿であるのか、鏡も何もないから確認することも叶わないのである。目線の高さからして、ふわりとさほど身長の変わらない子供の姿であるのは確かであるのだろうし、性別的に考えても多分少年の姿であるのだろうけど。
「此処に来ると、みんな自分の好きな姿に変身できるの。リオも人間の姿になったってことは、人間みたいになりたかったってことなんじゃないかな!」
ふわふわの床は気持ちがいいけれど、歩くのには少しコツがいる。ゆっくりしか進めない僕に、彼女はちゃんと歩調を合わせて歩いてくれた。
「此処にはいろんな子が来るの。吸い寄せられるように、不思議な重力が働いてるんだね。わたしみたいに、元々野良猫だった子もいるし、人間もいるし、他の動物もたくさんいる。この入口の空間に吸い寄せられて来た子を案内するのが、此処の神様にお願いされたわたしのお役目!」
「神様、がいるんだ。吸い寄せられる子には、共通点があるの?」
「あるよ」
ふわ、と彼女の長いしっぽが僕の鼻先を横切った。
「寂しい子が、此処に来る。……ねえ、リオ。君も心当たりがあるんじゃないのかな?」
「!」
心当たり。
『お母さん、どこ。どうして、帰ってこないの』
『嫌だ。嫌だよ。そんなの嫌だよ。あったかいベッドがあっても、ごはんがあっても、他の誰かがいてくれても……お母さんが傍にいてくれないなんて、嫌だ』
此処に来る前に自分が思っていたことを、思い出した。
自分を置いていなくなってしまったお母さんを、どこかで恨んでいて。でもそれ以上に本当は、寂しくて寂しくてたまらなかったのだ。
また、捨てられるのではないかと思ったのである。だって自分は前にも捨てられたことがあったから。はっきりとは覚えていないけれど、寒い寒い雪の中置き去りにされて、ずっと泣き叫んでいた時間があったような気がしてならないから。
そんな孤独をもう一度味わうのではないかと、そう思ったら胸が締め付けられるように苦しくなって。ベッドの中で丸くなって眠ったのは確かなことであったから。
「……君も、寂しかったの?ふわり」
もやもやとしてはっきりしない己の気持ちを、口にするのはなんとなく憚られて。思わず質問に、質問で返してしまった。彼女はこちらを見ることなく、ただ一言“そうだね”とだけ言った。
それ以上は今はまだ何も訊くな、と。なんとなくそんな壁を感じる声色だった。
「此処だよ」
いつの間にか、自分達は一枚の緑色のドアの前にたどり着いている。空間にぽつんと佇むそのドアが、どうやら次の場所への入口となっているらしい。
「この向こうに、わたしたちの国があるの。此処に吸い寄せられてきた子は、みんなわたしたちの仲間。歓迎するよ、リオ。一緒に、たくさんたくさん遊ぼうね」
そして彼女はそのドアのノブを、躊躇うことなく回して見せたのだった。




