改めて考える
生物というものの凄さを改めて感じる。普通モノというものは出来上がった時が完成形で、そこから劣化が始まる。最高性能は出来上がったまさにその瞬間だ。それはそうだ。劣化はしても自分自身では修復できない。中には自己修復機能を持つローマンコンクリートやガルバリウム鋼板みたいなものもあるが、それはある特定の機能に関して化学反応が起こるだけだ。
生物には自身での自己修復機能がある。それだけでもう、ただものではない。ただのものとは一線を画している。それはとんでもない性質だが、その根源は代謝である。永遠に同じ状態を保とうとするのではなく、常に破損し部分的には終わりを迎えて、その分が生まれてくる。常に新しくいられるから修復も可能なのだ。
しかしこれは自然のサイクルとしては特別ではない。先ほど個別のモノにはこの機能が無いと書いたが、もっと大局的にみるとそうでもない。例えば地球において水は常に姿を変えて循環しているし、宇宙の星々も誕生しては爆発してを繰り返している。そうして重い元素などを作り出しもする。生物の新陳代謝というのは、大きな世界や宇宙の縮図のようにも見える。
子供が実物より小さなプラモデルを好んで作るように、神は世界の理を小さな生物という器の中で再現しているのかもしれない。
そうして今日、最近見かけなかった腕時計が出てきた。安物ではあるがデザインが気に入って、以前はよく身につけていた。安物であるので自分で電池を交換することも出来る。自分で蓋をあけて電池を入れ替えると再び動き出した。しかしこんな小さなものの中に、正確に時を刻む機構を内蔵しているというのも驚異的な話だ。現在のデジタル技術が生まれる、もっとはるかに前からこの機構は存在していた。
現在、文明や科学というものは進歩して、昔ながらの時計というものは驚くような機械というものではなくなっている。しかしそのありふれた機構ですら、自分ひとりでゼロから作り上げるのは不可能に近い。人間の脳は機能としてはもう数万年も進化していない。小さく分業して社会というものを作り上げることで、複雑な機構をもつ機械を作れるようになったのだ。これもまた凄い事だ。
人間一人一人が生物として進化して、いくら知能が上がったとしても、技術と知識の積み上げが無ければ、大したものは作れないという事だ。だから人間は全体をもってひとつの存在だともいえる。
一方、人間の体は自分が思っているほどには自分自身のモノでもなくて、その意志に関係なく多くの微生物と共存共生している。細菌だけではない。ウィルスも生命体と考えるのであれば、人間一個体の中には。地球上の人間が目視確認可能な生物の個体数と、同じぐらいの存在がある。体はその集合体である。
但しそれらは生きてはいても、知識や技術を積み上げることは出来ない。おかげで人間の肉体は乗っ取られることなく、なんとか自分の意志で動いているような状態を保つ事ができている。
最近は少し反乱の風潮も見られてそこは気になるが、完全に共生をやめることは無いだろう。奇跡というのは実に身近な存在だなと改めて思う。




