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道楽草  作者: 十三岡繁
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日本の首都

 日本の首都は変遷しても常に太平洋側である。京都だけがどちらともいえないが、明日香も奈良も鎌倉も江戸も全て太平洋側だ。これは偶然の一致というよりは、常に日本海側……つまりは大陸側からの脅威を感じていたからではないかと思うのだが、ではどうして太平洋側には外敵がいないと分かったのだろう?


 衛星も航空機もない時代は、何かあるのを発見するには行ってみるしかないが、何も無いことも行ってみなければ分からない。縄文時代には既に九州と東北が繋がるような交易網が存在していたことが分かってきているが、一説には太平洋も渡ってミクロネシアや、一部の縄文人は南アメリカまで到達したのではないかという学説もある。


 ただ、もっとシンプルに日本海側からは結構人や物が流れ着いてくるけども、太平洋側からはそういったことがほぼないと、体験的に理解していたのかもしれない。そうしてそんな事を考えると、日本列島がこんな形だという事を、日本の人々は一体いつぐらいから意識していたのかなという疑問がわいてくる。


 最古の日本地図は奈良時代に作られたという説があるが、原本が残っていないので真偽のほどは分からない。大和朝廷に限らず、縄文時代に全国をつなぐ交易網があったというならば、当然地図のようなものがあってもおかしくないと思う。ただもちろん残ってはいないので証明のしようがない。そうしてそれは文字も同じだなと思った。地図は絵で、文字は字なので別物だろうという事はない。両者はともに情報を示す記号だ。


 やはり紙のない時代に記録をどうやって残したのかが重要になると思う。全国で体系だった字や地図が残っていなかったとしても、少なくとも落書き位はしていたはずだ。もちろん洞窟などには絵などは残っているが、文字や地図の痕跡は出てきていない。一時期北海道のフゴッペ遺跡の洞窟壁面に古代文字のようなものがあると話題になったようだが、どうにも本当に文字だったのかははっきりしていない。


 情報は残してこそなんだなと今は思う。こうしたネットの海にあふれ出している情報は、この文章も含めて一体いつまでその痕跡を残せるのだろうか? シリコンの耐久年数はよくわからないが、もしかしたら石に刻んでおくのが一番長持ちさせる方法かもしれない。

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