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道楽草  作者: 十三岡繁
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元寇から思う水城

 二度にわたってモンゴルが日本に攻めてきた元寇は、教科書にも載っているので誰もが知るところだと思う。不思議なのは当時の幕府が鎌倉にあったのに、どうして北部九州から攻め入ろうとしたかである。


 もう少し北上して中国地方や、極端に言えば若狭湾あたりから攻め入った方が鎌倉に近い。仮に九州に上陸できたとして鎌倉まではかなりの距離がある。見知らぬと土地で万人単位の兵がそのまま陸路で移動してどうにかなるとも思えない。


 元々内陸部の国であったモンゴル帝国は、海上移動に対してかなりの苦手意識があったのではないだろうか? 但し一旦上陸さえしてしまえばそこからの戦いには自信があったのだろう。


 確かに当時モンゴルの支配下にあった朝鮮半島からは北部九州が一番近い。モンゴル軍はまず対馬を占領して、壱岐も占領してそれから九州本土へ攻め入った。多分最初に九州全土を支配して、それから東へと支配地域を拡大していく事を目論んでいたのではないだろうか?


 つまり幸運にも元寇の脅威をはねのける事が出来たが、失敗していれば九州はモンゴルに支配され、現在も中国であった可能性すら捨てきれないと思う。この大陸からの脅威にはもっとかなり以前から警戒するのが自然というものだ。九州では昔からかなり大陸に対する警戒心があったのではなかろうか? 渡来人などを通して情報もそれなりに入って来ていた事だろう。


 昔有明海と博多湾は水で繋がっていたという説があるが、その関所となったのが水城だ。その横に大宰府がある。ここは九州全体の大陸からの脅威に対する関所だったんじゃないかと妄想してしまう。日本に文字の無かった頃の話なのでどうにも証明しようがないけども。


 水城は福岡での観光名所としてはもう一つ注目されていない。一般的には水城は飛鳥時代に白村江の戦いで敗れた事を受けて整備されたとなっている。しかし先述の通り個人的にはもっと遥か昔から存在していたように思えてしまう。

 福岡に来られる方は飲食だけでなく、太宰府まで行くのなら是非この水城跡を見て遥か昔に思いを馳せて欲しい。

 

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