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道楽草  作者: 十三岡繁
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無宗教

 既存の宗教で何というか自分の中にストンと落ちてくるものが無かったので、人に聞かれれば無宗教と答えてきた。神というものの定義にもよるのだが、人智を超えた意識なり存在……いや、法則とかことわりとかいったほうがいいのかもしれないが、そんなものは何かしらあるような気がしている。


 そうして最近、自分の認識は森羅万象、万物が神だという神道に近いのかもしれないなと思い始めている。形式化した神事とか宗教的な行事などには全く関心は無いのだが、全ての存在も現象も神であるという考え方は、とても哲学的でしっくりとくる。仏教でも人はみな仏だが、神道では人だけではない、万物が神と等しいのだ。


 最近色々と縄文以前の歴史について調べたりしているが、きっとこの神道のベースは縄文時代の宗教観じゃないかと思っている。縄文人のDNAを色濃く受け継ぐアイヌの人々の宗教観もこれに近い。動物でも何でも神がこの世界に遊び来ている姿だと考えているらしい。なるほどなと思う。しかしそうなると神の世界というものが、この世界とは別にどこかにあるという事になる。


 数千年前の元来の神道とは違うのかもしれないが、日本神話でも高天原( たかまがはら)という神の国が出てくる。そこに関してはどうなのかなと思う。もし神の国があるとして、そこに存在する万物も神なんだろうか?そうして更に上位世界があるという事になるのだろうか?


 書いていると何かシミュレーション仮説と似ている様な気がしてくる。もしもっと高次元の存在と世界があったとして、そこで行っているシミュレーションがこの世界だとする。しかしそのシミュレーションをしている存在も、もっと上の存在のシミュレーションに過ぎないのだろう。そうしてそもそもシミュレーションだからどうだというのだろうか?このあたりになると仏教の思想に近づいていくのかもしれない。


 ちょっと書いていて思ったのは、森羅万象に神が宿っているのであれば、既存の各宗教にも神が宿っているという事になる。ならば宗教にはあってるとか間違っているとかは無いのかもしれない。そもそも間違いとは何だろう?こんなことを考えていると、今度は全ての宗教と神を受け入れるインドのヒンドゥー教も正解の様に思えてしまう。


 信教は自由だから、宗教で心の平穏が保てるというのであれば既存の宗教を信じる事ももちろん否定すべきことではない。しかしそれ故に争いが起きるというのはどうにも納得がいかない。しかし争いごとにもまた神が宿っているのであれば、それは仕方がない事象なのかもしれない。

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