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道楽草  作者: 十三岡繁
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やまと

 邪馬台国の読みは「やまたい」ではなく元々は「やまと」だったらしい。やまとと言えば一番認知度の高い漢字表記だと「大和」大きい和である。中国で昔書かれていた表記や、古来日本で使われていたものだと「倭」というパターンもあるが、この漢字の意味は「委ねる」に人を意味するにんべんが付いたものである。


 自分の生まれ育った国だから特別なものに思えてしまう…確かにそれもあるのだろう。しかし薄れたとは言っても、やはり日本の文化や精神性は世界でも独特なものだと思える。この東洋のちっぽけな島国は、良くも悪くも世界の中でかなりの存在感を示してきたような気がする。その源流は縄文人という存在じゃないかと最近は思っている。


 縄文人は文字を持たず、狩猟が主な食料調達手段なので移動生活をしていた。定住していないので大きな社会と言うようなものは構成できなかったと、そんな風に学校で習ってきたような気がする。しかし研究が進んで来ると、実はそうでもないという事が色々と分かってきている様だ。


 定住していた証拠となる、かなり大きな集落も発見されているし、今でもちょっと信じられないような巨大な建造物の跡も出てきた。物資の流通網もかなりの広範囲に渡って存在していたようだ。そうして彼らの自然崇拝思想はアイヌの人々に色濃く受け継がれている。これは身近な所では神道に近いものにも思える。


 アフリカで誕生した人類がユーラシア大陸に広がって、それが日本列島まで移動してきて縄文人になったようなイメージでいたが、DNAを使った研究の結果を聞くとちょっとそれも違うようだ。アフリカで誕生した人類はアジアに進出するにあたって、まずはオーストラリアの原住民族アボリジニと枝分かれして、その次に縄文人と枝分かれしたらしい。そこが日本人の根底にあって、その後大陸由来の人々と交わって現在の日本人となったようだ。


 今後も研究が進めば、また色々な事が分かってくるのだろう。この縄文人の文化や思想をもっと知りたいと思ってしまう。縄目を陶器に文様として型押しする人々が、それなりに大きな集落や社会を構成していて、文字という発想に辿り着かないという事があるのだろうか?縄文の縄目にはもしかすると文字と同じ意味もあったのではないだろうか?


 中国から文字が伝わる前に日本で使われていた文字は神代文字と呼ばれ、カタカムナ文字やヲシテ文字等が知られているが、それらは縄文の時代からあったのではないだろうか(実際そう言う説もある)?で、あるとするならば当時縄文人によって書かれた文献?を是非とも読んでみたいものである。その時果たして「やまと」の語源は分かるのだろうか。当て字だとは思うが「大いなる和」というのは本当にいい言葉だと思う。

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