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薔薇は亡霊になってしまった

 ユリウス暦1542年2月13日月曜日、朝7時。キャサリン・ハワードはロンドン塔の一画にある刑場に引き出されました。タワーグリーンと呼ばれる広場です。この朝の日の出時刻は 07:17:45 AM だそうです。


 グレゴリオ暦では1542年2月23日月曜日にあたります。グレゴリオ暦の1542年2月13日は金曜日です。インターネット様々ですね。寝っ転がってお茶呑みながら、480年も前の曜日やら日の出時刻やらが数秒で分かってしまいます。



 凍える2月の未明の空は、黒いベルベットのドレスを着たキャサリンを静かに見下ろしております。一説には泣き叫んで首斬り役人から逃げ惑ったと言われております。


 前日の夕方、クランマー大主教と会った時にはすっかりおとなしくなっておりました。哀れを誘う静けさの中で、素直に首を斬られたこともあり得ますが、キャサリンちゃんですからね。やっぱり怖くなって取り乱してもおかしくはありません。


 当時の囚人は、華美ではないものの普通の服装だったようです。とくに囚人服でもなく、斬首の時でも貴人の姿を保っておりました。



「寒いねぇ」

「暗くてよく見えやしねぇ」

「たいした別嬪さんだって言うから見にきたのによ」



 温度計の発明はまだまだ先。正確な気温は分かりません。ですが 1500年代ですから、イングランドは「小氷期( little ice age)」と呼ばれる時代に突入しております。1700年代まで続く寒い時代です。一方で、この頃のイングランドは未曾有の猛暑に苦しんでおりました。


「テムズ川も枯れたなあ」

「こら、坊主、水を無駄にするんじゃない」

「渇き死ぬぞ!」

「王様を裏切った女が優雅に船旅だとよ」

「この水が無い時に」

「見た。ちーっちゃな艀に乗ってたぜ」

売女(ばいた)の艀、船底を擦ればよかったのに」



 前年の1541年は川が干上がるほどの干魃(かんばつ)に苦しみ、牛などの家畜も次々に死んだとのこと。また、赤痢でたくさんの人が亡くなったということです。ヨーロッパ全体の干魃と厳冬ですから、食べ物もどんどん減ってゆきます。


 そんな年に、キャサリンちゃんと巡幸に出かけた「北部大行幸( northern progress)」なんですね。兵隊1000人の大所帯。庶民が飢えと暑さ寒さに苦しんでいるのに、国の財政は宗教戦争と王宮の贅沢に注ぎ込まれておりました。


「なんだい、シケてんなあ、なみなみ注げよ」

「このお菓子、ずいぶんと小さいのねぇ」

「アン・ブーリンの時より減ってねぇか?」


 不満が溜まっているところへ贅沢三昧な王侯貴族の首が晒されるとなれば、凶暴な悦びに湧き立つのも道理です。当時の公開処刑はヨーロッパ全域で娯楽でしたから、普段なら見物人目当ての屋台も繁盛いたしました。


 この時はどうだったのでしょうね。かつてない猛暑を超えて、極寒の真冬ですから。いつもより屋台の飲食物も高かったかもしれません。



「さぞかしうまいもん食ったんだろうなあ」

「こっちは今日のパンさえ心配なのによ」

「みなよ、あのドレス」

「上等そうだよ」

「そうかい?黒くてよくわかんないよ」

「王様、おみえになんないのかい」

「顔も見たくないってさ」

「へー、おかわいそうにねぇ」


 恋愛脳による思いつきの宗教改革です。急進派と保守派の対立に利用されて、多くの血が流れております。思うようにことが運ばないヘンリーさん。ストレスは大変なものだったことでしょう。それでも人々は、ヘンリーさんがやってくると熱狂して迎えたということです。



 キャサリンはふと頬に生暖かい風を感じて眼を上げます。


「ふふ、黒いドレスがよく映えるわね」


 耳元で揶揄う声が響きました。


「え?アンお従姉さま?」

「ねえ、あたくしの陛下を奪って得意でした?」

「あら、お従姉様からなんか奪ってないわよ」


 アン・ブーリンが斬首されたのは、セント・ピーター礼拝堂前の「タワー・グリーン」と呼ばれる広場です。キャサリンちゃんと同じ場所、同じ時刻と言われております。


「ふふっ、馬鹿ねぇ。若いんだし、世継ぎの王子を産んだら良かったのに」


 にやにやと頬を寄せる幽霊に、キャサリンちゃんは歯を食いしばります。



 キャサリンちゃんの従姉妹、ヘンリーさんの2番目の王妃であるアン・ブーリン。彼女は、処刑の翌日から幽霊が目撃されております。ロンドン塔の係員によって、現在に至るまで記録されているというのですから相当なもの。


 1536年5月19日に斬首刑に処されたアン・ブーリン。歴史家は無実説を支持します。さぞ悔しかったことでしょう。ロンドン塔の監獄で彷徨う幽霊として以外にも、目撃証言はございます。


 首無し貴婦人としてロンドン塔へ向かう馬車に乗っていたり。礼拝堂に灯りがついて座っていたり。アンの侍女ジェーン・シーモアが産褥で亡くなったのも、アンの呪いと言われたり。



「陛下のこと、好きだったの」


 キャサリンはぽつんとこぼします。おじさま方の中で、いちばん性格が合うのは、やはりヘンリー8世でした。運命の2人です。何故それに気が付かなかったのでしょう。若すぎました。モテすぎました。歳の差が大きすぎたでしょうか?病気のせいで太ったり臭ったりしたことに惑わされたでしょうか?



「ほんとに?」

「お従姉さまは?違うの?」

「お前は馬鹿ねぇ」

「何よ!」

「なんで浮気なんかしたのよ?」

「してないわ!」

「嘘ね」

「嘘じゃないっ!」



 アン・ブーリンと違って純粋にチヤホヤされるのが嬉しかったキャサリンちゃん。本人的には、自分の武器である若さと美貌で脅迫してくるおじさま方を丸め込むつもりでした。でも、女の敵は女。


「陛下を頼ればよかったのに。ジェーンおばさまはダメだったわよ?」


 ジェーン・ブーリンは諸悪の根源。彼女の甘言には従ってはなりませんでした。



 ヘンリーさんは今までの女性遍歴とは全く違うと感じておりました。年齢は関係ありません。でも、キャサリンちゃんはあまりにも若く愚かでした。モテることに慣れすぎて、自分の心を知りませんでした。


 運命のひとと信じていた妻と、怪しげな噂を立てられるほど仲良しの弟分。裏切りのショックは酷かったでしょう。異常気象で肉が不足し、宗教的にも政治的にも対応すべき問題は山積み。冷静ではいられません。もう、キャサリンちゃんと話し合う余裕なんかありません。



 Thou art a traitor:

 Off with his head!

 裏切り者め!首を刎ねよ!


 リチャード3世 2032行目

 第三幕第四場 ロンドン塔 

 リチャード3世の台詞

 William Shakespeare

 History of Richard III

 Act III, Scene 4

 The Tower of London.


 血は争えません。お芝居の台詞ではありますが、ヘンリーさんも同じ気持ちでした。疑心暗鬼の宮廷で、唯一の癒しだった2人が、まさかの裏切り。許せない。ひどすぎる。



 ヘンリーさんの予想を上回るならず者だったカルペッパーだけ、首チョンパしたなら良かったのかもしれません。でも、キャサリンちゃんは若く、ヘンリーさんは30歳ほど離れています。自信が全くありません。


 若い頃、手に入らない女性はいないほど、一説には美少年であろうとも、とにかく好き放題手に入れていたヘンリーさん。反感を持つ人が出てきても、結局死ぬまで勝者でした。絶対王政とはそう言うものです。そして、それを貫ける力をヘンリーさんは持っていました。それだけに裏切り者は生かしておけません。



 当時のロンドンは、少年を連れているなら目を離すなという時代です。カトリックでは罪なんですが、現実には自由過ぎました。恋愛強者のヘンリーさんは、本当に好き放題。カルペッパーにも、振り回されるほど弱くありませんでした。


 そのあたり、キャサリンちゃんもカルペッパーも、読みが甘かったのでしょう。ヘンリーさんは、大好きな2人に裏切られて、怒りを抑えられるはずもありますまい。



 アンは首が細いと言って、普通は斧で斬られる首を剣で落とされたそうです。そんなに殊勝だったのに、ロンドンのあちこちで幽霊が目撃されております。無実の罪で殺されたとして、後の世の人々には同情されているのです。


「お従姉様。陛下を愛してらしたの?」

「ふふっ、そんなの。わたくしと違って、あなたはただ愛されていれば宜しかったのに」

「陛下に言うって言われたから!」

「陛下に言い付けたらよかったのよ」

「でも、恐ろしいわ」

「ジェーンおばさまなんかより、陛下とお話したらよかったの」

「アンお従姉様も首斬られたわ」

「貴女は陛下の永遠だったのに」


 馬鹿にした嗤いを浮かべた幽霊をキッと睨んで、2度とは会えない王様を心に浮かべました。


「陛下。最後にお会いしとうございました」

「ふふっ、死んだらあのならず者と添いたかったと噂されちゃうわよ?」

「そんな!あの方素敵でしたけど、脅迫するから。陛下の不利にならないように頑張ったのに!」

「もっとご婦人方と仲良くしとけばよろしかったのよ」

「何よ、今更」

「あたくしのいただけなかった愛を捧げていただいたくせに」

「お従姉様は戴冠なされたくせに」


 死に際までなじり合うふたり。多才でイケメンのヘンリーさんには、フランス帰りのアンはお似合いに見えました。でも、欲しい物は片端から手にする性格は、ヘンリーさんとキャサリンちゃんがピッタリでした。


「大人しく貴婦人の振る舞いを身につけたら良かったのに」

「しつこいわね」

「メアリー王女に嫌われたのでしょ?」

「嫌われたなんて。7つも年上なのに娘だって言われたら、誰だって戸惑うわ」

「メアリー王女ちゃん、恋に生きるタイプじゃないわ」


 恋バナも気軽な噂も、メアリー王女には通じません。後にブラッディ・メアリーと呼ばれるほど潔癖な彼女。奔放なキャサリンちゃんのことは毛嫌いしました。


 エリザベスちゃんとは穏やかな面会だったようです。エリザベスちゃん、ヘンリーさんと似てますね。有能で、見目よく、恋人は好き放題手に入れる。恩人であり父ヘンリーさんの末期を見とったキャサリン・パー王妃の夫を奪った挙句、何食わぬ顔で女王になりましたからね。



「酷いわよね。悔しいわよね。あなたも無念でしょ?」

「何よ、お従姉さま」

「呪ってやりましょ?次の女にお世継ぎなんか生ませないわよ」

「それより、ねえ、痛い?」

「そんなの、どってことないわ。すぐよ」


 アン・ブーリンの幽霊は、あちこちに現れて今でも怨みを訴えております。キャサリンは血族ですし、幽霊稼業に誘い込まれたのかもしれません。


「陛下が知らん顔で天国に行ったなんて、ほんと、ひどい」

「だんだんそんな気がしてきたわ」


 ヘンリー8世は、幽霊にならずに平気な顔で成仏してしまったようですよ。


お読みくださりありがとうございます

続きます

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