ちゃんと頭を乗せなくっちゃね
キャサリン・ハワードは奔放な少女でありました。本来ならば王妃になれるような存在ではないのです。なにしろ素行不良ですから。ただ、家柄は申し分なく見目もよい。しかも宮廷で力を持っていたノーフォーク公トマス・ハワードの親戚です。
「アンお従姉さまをご覧になって?」
「ええ。素敵だったわねぇ」
「大きな修道院でお城の御作法を教わるのですって」
「重い王冠をまっすぐかぶる練習もするみたいよ」
「すてき!冠かぶるの?」
「練習用ですって」
「でも、本物の宝石でしょう?」
「あたくし、大きな宝石の首飾りみたわよ」
「王妃様になると何もかも重たいのですって」
「ドレスにもたっぷり宝石がついていたわ!」
はい、ナーロッパ御用達、妃教育ですね。身分によって身につけるものが決まっていたヘンリー8世の時代。服装、所作、言葉遣い、書き文字に至るまで教育されたということです。
場所はウェストミンスター修道院。ヘンリー8世の時代には、この地区はお堀に囲まれた島のようになっておりました。それだけでも特別感がありますよね。
アン・ブーリンは、無事数ヶ月の教育を終えて付属の大聖堂で戴冠しました。正式な戴冠ですね。ウェストミンスターへ向かう途中で、ランベス・ハウスに挨拶に寄ったみたいですよ。親戚の少女たち、大興奮。
キャサリンちゃんの時は戴冠に反対されていたので、戴冠式に向けての正式な王妃に仕上げる教育を受けておりません。反対されるから教育を受けられず、受けていないから反対される。まあ、キャサリンちゃんの性格だと、教育が無駄になった気もしますけどね。
一説には、年上イケオジにプロポーズさせる手腕と美貌に目をつけたノーフォーク公が、王妃の侍女に押し込んだといいます。お手つき狙いですね。当時の制度には、愛人の子でも認知されない私生児、認知され爵位や領地を賜る庶子、嫡流承認を受けた嫡子、の3種類がありました。
「我が家は多産だ。我が家も跡取りに恵まれた。私自身の兄弟も多い。妹たちも子供を沢山産んでいるじゃないか。アン・ブーリンの母親も多産だったしな。キャサリンの母親もだ。男の子もちゃんといる」
「ええ、陛下のお目に留まるに違いありませんわね」
先代ノーフォーク公未亡人も王様が相手なら文句はありません。つい数年前に孫の1人が処刑されてますけど、今度こそ、と考えました。現代日本人には理解不能な感覚です。家を強くするのが大切でした。けっこうどこのお家もブツブツ血筋が絶えていたり、土地や肩書を失ったりしてるのですが。
ヘンリー8世は男性世継ぎを渇望していました。病気もあって焦っていたのです。お手つきになって男児を産めば、王妃の子でなくても嫡流承認が貰える可能性は高い。カトリック時代なら、教皇の認可が必要です。うまくやらないと却下されてしまいます。
キャサリン・ハワードの時には、すでに「王は教会の上」が決定しております。承認などヘンリー8世の心一つでどうにでもなりました。
アン・ブーリンを王妃に迎えた頃には、既に庶子と認めた男児が1人おりました。愛人は沢山いて、子供もかなりいたようです。ですがモテ男のヘンリーさんのお気に召すようなイケ女は、やっぱりやり手のモテ女たちです。自分の子だと言う確信がありません。
後にも先にも庶子として認めたのはこの男児、リッチモンド公ヘンリー・フィッツロイだけでした。子供ができた時には母親の方への関心が失せていたと言うのですから酷いですね。男児を渇望していたのでその点は喜んだようです。
フィッツロイのフィッツはフィッツジェラルドなどと同じで「息子」の意味です。ロイは王。ヘンリーさんは「王の息子」という苗字を与えたのですね。
認知は6歳の時です。でも1536年に17歳で死んでしまいました。結核だったと伝えられております。嫡子にしておいても世継ぎにはなれなかったでしょうね。
1536年は、ジャン・カルヴァンが『キリスト教綱要』の初版を世に出した年。プロテスタント勢力がいよいよ力を得て参りました。しかし、そんなこととは関係なく、ヘンリーさんはアン・ブーリンを処刑しております。
事実はともかく、叛逆、姦淫、近親相姦、魔術というとんでもない罪で処刑されたアン・ブーリン。その従姉妹を平気で王妃にしたヘンリーさん。結局は、従姉妹同様に姦淫罪でキャサリンちゃんも首を斬られることに。
キャサリンちゃんが首を斬られた1542年には、2人の公爵がおりました。キャサリンの伯父であるノーフォーク公トマス・ハワードは、同じ名前の先代から継いだ公爵さん。ノーフォーク公の各世代は、処刑されたり新設扱いになったりしていますが、伯父さんは別に王族ではありません。
1514年に公爵となったサフォーク公チャールズ・ブランドンは、キャサリンちゃんとその臣下を任されていて、ロンドン塔までお供しました。捕まる前から任されていたのですが、すごく嫌だったらしいですよ。性格合わなそうですものね。
この人は先述のとおりヘンリーさんのお友達です。ヘンリーさんの妹と恋愛結婚しましたけど、ご本人は王族とかじゃありません。結婚は1515年ですから、公爵にして貰ったのが先です。ヘンリーさんは2人の結婚に反対していたので、王女と結婚させるためでもありません。実力でした。
この頃の爵位は目まぐるしく変わっていました。数年前には公爵も3人だったり4人だったりしたようです。子爵から上り詰めた公爵もいます。
ヘンリーさんはとにかく自由気まま。ノーフォーク公のハワード家なんて、数世代前には豪農だったと言うのですから。ナーロッパ文化警察的常識の「公爵は王の兄弟」なんか通用しません。あげたい人にあげました。
こんないい加減な王様なんですから、キャサリンちゃんも王様のご機嫌だけ取っておけばよかったのに。今更真っ黒なドレスで憐憫の情を誘おうとしても、遅いのでした。
そこまで王様を怒らせて、処刑を決定づけたお相手カルペッパーは、キャサリンちゃんの遠い親戚でした。そんなこともあって、最初はカルペッパーとの縁談があったんですね。このならず者は噂になるほどヘンリーさんに気に入られておりました。
キャサリンちゃんは、幼い頃に実の父母と死に別れたとされております。キャサリンちゃんの生みの母ジョイス・カルペッパーの親類だった、トマス・カルペッパーも似た境遇でした。
ですが、少年の頃に暮らすことになったのは、なんと王宮です。目端のきく美少年で、ヘンリーさんの目に留まりました。少年の頃からヘンリーさんの巨大な王様寝台で一緒に寝ているほどだったとか。
かたや、怪しい噂が立つほど信頼していた弟分。かたや、一目惚れして聖母の雅号「棘なき薔薇」と呼び溺愛する妻。この2人に裏切られたのです。
とはいえ、小悪魔的な美少女が、飾り気のない黒いベルベットのドレスを着てしおらしくしている姿は多少の効果があったようです。肝心のヘンリーさんには見てもらえず、命は助かりませんでしたが。
1542年2月12日、キャサリンはクランマー大主教の訪問を受けます。
「キャサリン・ハワード」
「はい」
「身も心も清め、この世に別れを告げて旅立つ準備をしなさい」
「ご沙汰が下ったのですか」
「最後の告解と終油の秘蹟を授けよう」
「ああ、明日なのですね」
「そうだ。明日、首を落とされることとなった」
当時のキリスト教徒にとって旅立つ準備とは、この世で最後の告解をして、終油の秘蹟を受けること。つまり、明日には死刑が執行されるということです。
告解は、赦しの秘蹟、懺悔、告白などの言葉でも知られています。神の代理者として司祭が罪の告白を聞いて赦しを与える儀式です。赦しは神が与えるという解釈で、あくまで司祭は代理人。これはカトリックでも英国国教会でも同じです。
赦され損なった罪が残っていると、煉獄の時間が長くなりますし、最悪まっすぐ地獄行き。煉獄は、罪を浄化する除染室のような場所です。罪が少ないほど早く天国に行かれるのですね。
中世どころか20世紀初頭までは、滅多に告解を受ける機会がなかったそうです。司祭は当時、とっても偉い人ですからね。気軽にお願い出来ません。稀にすごくお人好しな神父さんがホイホイ聞いてあげると、全国から殺到して衰弱したりなんてことに。
それに、聞いてもらう側も全員が積極的ではありません。理論的には代理人でも、現実には人間に話すのです。やらかしたことなんか、恥ずかしいから言いたくないですよね。キャサリンなんか、きっと面倒がって逃げようとしたに違いありませんね。
告白の秘密は他言無用ですが、ヘンリーさんは教会組織のトップでもあります。ぜんぶ筒抜けです。死刑囚最後の告白も聞き放題。キャサリン・ハワードを巡るスキャンダルの全貌は、しっかりと掴んだことでしょう。また暴れたかもしれませんね。今日証拠となる記録は当然ありません。
終油は、重病人や臨終の床にある人の額に聖油を塗る儀式です。聖別という儀式によって聖なる物となった香油を使います。洗礼のときにも塗られますが、こうして人を聖別するのです。穢れを落としてあの世に旅立つ儀式です。
『戦争と平和』で終油が間に合うかどうかハラハラする場面がありますね。あれはロシアですから正教会ですが、受けられないと地獄行きだという発言がありましたよ。現代の各宗派では、だいぶ解釈がゆるくなっているそうですが。
何れにせよ、いよいよ斬首が決まったことが告げられました。キャサリンにしてみれば急な話です。何も聞かされずに移送された翌々日、明日がその日と知らされました。
すっかり観念したキャサリンちゃん。流石にもう泣き叫んだりは致しませんでした。キャサリンは静かに目を閉じて、息を吐くと「お願いします」と言いました。大人しく秘蹟を受けました。
儀式が終わると、クランマーは憐れみの眼を向けて尋ねます。
「キャサリン、最後に何か望みはあるか?」
「はい、大主教さま」
「何だ、申してみよ」
「もしも叶うことならば、明日あたくしが頭を乗せる台を確認しておきたいのです」
クランマーは面食らいました。そんなことを頼んだ死刑囚は見たことがないですよ。お爺ちゃんにはやっぱり若い子の考えることは分かりません。
「え、いや、まあ、それくらいなら」
「だって、大主教さま。あたくし初めてですし、何にもわからないのですもの」
「いや、首を斬られるなど皆初めてだ」
「でも、大主教さま」
「ううむ」
「みっともないとか、田舎者とか、馬鹿にされるのが怖いんです」
「そうか、可哀想になあ」
「無教養だからこんなことになったって、川沿いの見物人までが叫んでいたのよ」
「聞き間違いじゃないのかい」
「後生ですから。どうぞ、お願い」
仕方がないので、クランマーは監守に断って明日の刑場へと向かいます。しずしずとついてゆくキャサリンちゃん。その儚さには、色気すら漂っておりました。
「ここだ。好きなだけ確かめるが良い」
キャサリンは首斬り台の前にひざまづき、そっと大きさを確かめます。指先で周囲をなぞり、掌で台をさする。ゆっくりと頭を傾けて、静かに首を預ける。
「横向きかしら、仰向けかしら、絵図では項垂れていたわ」
その場所が従姉妹アン・ブーリンの斬首を行った刑場と知ってか知らずか、しばしひんやりとした首斬り台に頭を休めます。キャサリンは、ランベスハウスから意気揚々と出発した従姉妹の姿を思い出しました。
首を上げているのも難しそうな、大きく重たい宝石飾りをたくさんつけて、豪華なドレスを着ていましたっけ。
「あたくし、あの高みには昇れなかったのね」
キャサリンは、戴冠した王妃だけの正式な衣裳も着たことがありません。彼女は名ばかり王妃などと悪口を言われました。もう悔しさより、虚しさしかありません。
「この世の罪を償ったなら、天の国では綺麗なドレスを着られるかしら。美味しいお菓子もあるかしら」
夢見る少女は恋に生き、本当は手に入れていた幸せも富貴も、指の間からこぼしてしまったのでした。
この時の様子は、クランマーからヘンリー8世へ手紙で知らされました。
「独房のキャサリン・ハワードは、実に慎ましやかで美しく、憐れで、どんな男も同情せずにはおられない様子でありました」
おじさまがたは、本当にどうしようもありませんね。
お読みくださりありがとうございます
続きます