認めてくれたら生きられたのに
芋づる式逮捕でキャサリンの不貞を確信したヘンリー8世。もしも本当におやつを食べていただけだとしても、王妃の寝室に入り込む姿を何回も見られていれば、お友達では済まされません。
「宮中に留めるわけにはいかぬ」
「左様でございますな」
「クランマー、郊外にちょうど良い空き屋があったな?」
「空き屋ですか」
「一度は王妃だったものだ。牢に繋げばうるさい連中もおるだろう?」
「どちらに移されますか?」
「サイオンはどうだ」
「ああ、よろしゅうございますね」
サイオン修道院は、既にご紹介した通り聖ブリギッタ修道会の修道院でした。ですが、1541年には既に修道院ではありませんでした。ここの修道司祭が国教会に改宗することを拒み、1535年に吊るし首になっておりました。そのあと惨たらしい姿で晒されたということです。
この時処刑されたのは、リチャード・レイノルズ修道司祭です。同じくカトリックからの改宗を拒んだ、高名なトマス・モアの盟友でした。2人ともカトリックの聖人に列せられております。
トマス・モアの処刑は、テレビ映画にもなっております。宗教と政治のお話ではありますが、人間ドラマとして感動的な作品でしたね。頑固すぎるけど、高潔で熱い人として描かれておりました。
「サイオンなら、妃殿下にお泊まりいただくのに申し分ないでしょうな」
「だろう?あの女狐にはお似合いだ」
「誠に」
「裏切り者の巣窟だった場所だからな!」
「恐ろしいことでございますな」
「本当になあ。どいつもこいつも」
1539年には、ヘンリー8世がこのサイオン修道院に解散命令を出しました。サイオン修道院の人々はオランダへと追放されます。元々サイオン修道院は、ヘンリー5世が開設しました。土地や建物はイングランド王室の所有です。
中世の修道院は、村ひとつ、谷ひとつという規模のものも多く、中には島ひとつなんてものもあり、とにかく広い。通常は会則で私有財産を禁じられており、王族や貴族に借りている形でした。
「王家に支援を受けながら、その土地と金で謀反を企むとは、恥を知らぬ奴らめ」
「全くもってその通りでございますなあ」
聖ブリギッタ会は最初の修道院から、男子会と女子会が同じ敷地に別々の建物を建てて活動していたようです。広大な敷地とはいえ、これは大変に珍しいことでした。
創設者は子育てが終わった後に、夫婦それぞれ別の修道院に入ったという熱烈なカトリック信徒。夫が亡くなった後に妻は活躍して、しまいには自分の修道院を創設してしまうほど。
そんなアグレッシブな会ですが、国教会への改宗は受け入れませんでした。夫婦別々に出家しちゃうような人の作った会ですからね。奥さん取り替えたいから宗派変えます、とか言う人の考え方に合わせるのは嫌だったのでしょうね。
「毒婦めを閉じ込めるには、打ってつけだとは思わぬか?」
「ひとり己が罪を省みるにはもってこいですな。今は人影もない寂しい館でございます故」
「あの女も朕の金で間男に贅沢をさせたのだ」
「ええ、陛下の財宝で陛下を裏切るとは、言語道断。修道院の奴らと同じですな」
ある意味、それはその通りなのであります。
「えい、余計に腹が立って来た」
「陛下、やつらは遠くネーデルラントの地に去りました」
「残らず朕が追放したからな」
「お見事でございました」
「女狐めも思い知るが良い」
「妃殿下は悔恨の情をお持ちです」
「聞きとうないわ」
借地人を追い出した後の修道院は、そのまま残っておりました。ロンドンの郊外ですし、沙汰を待つ間の高貴な罪人を勾留しておくにはもってこいだったのかもしれません。ヘンリーさんもキャサリンちゃんも、この会を創設したご夫婦とは、正反対の人となり。皮肉なものですね。
この頃の修道院は、罪人を受け入れません。仏教のお寺とは違うのです。もしこの建物が活動中の修道院だったならば、キャサリンはどこか別の空き屋に押し込められたことでしょう。
中世の修道院に殺人犯が入会したが後に発覚して、通報されたなんて逸話もございます。罪状が確定してしまった後では、ナーロッパお得意の修道院送りはダメなんですよ。現実のヨーロッパでは。明るみに出る前に、コソッと押し込めてほとぼりが冷めるのを待つことはあり得ますけども。
キャサリンちゃんは宗教的には姦淫の罪ですね。これは神を否定するほどの大きな罪。トマス・アクィナスが『神学大全』のなかで大罪の例として挙げております。ただ、これにも抜け道があって、罪だと意識して行ったかどうかが判断材料になります。
「あたくしからお誘いしたことなんて、ないのよ」
とか
「愚かで弱い若い娘が、何も知らずに悪い大人に騙されたのです」
は、反省すればセーフです。そんなこと言う人、どうせ反省してませんけどね。
キャサリンちゃんが主張する、「言葉巧みに丸め込まれた」のであれば、大罪ではないんですよ。罪ではありますが。贅沢や色恋に関わる欲望は「罪源」と呼ばれるもののひとつ。罪に導く心の揺れですね。宗教的には一発アウト地獄行きというわけではありません。
「陛下、妃殿下の魂はまだ救われる見込みがございましょう」
「証拠の手紙まで出たではないか」
「真摯な告白もございます。一度お会いになられては」
「この後に及んでまだランベスハウス時代の婚姻を認めぬ強情さ、ほとほと愛想も尽き果てたわ」
「ほんの小娘ではございませんか」
調査を始めた当初は厳しい対応をしていたクランマー。だが、取り乱し取り縋り、一心にヘンリーと会いたがるキャサリンの姿に触れるうち、憐憫の情が湧いてまいりました。クランマーは人間臭い人物ですから。
ただし若い美人に限る。デラハムとかカルペッパーとか、ぜんぜん相手にしませんでしたよ。ヘンリーさんの指示どおり、さっさとロンドン塔に送りました。
英国国教会の初期はほぼカトリックですから、罪に関する考え方は同じだったようです。大罪認定されると秘蹟と呼ばれる宗教儀式を一切受けられません。これを受けさせてもらえないということは、天国から締め出されたということです。
告白の手紙に書いてあった
「陛下の法の正義には反していますが、どうかお慈悲を」
は、いかにも聖職者クランマーに書かされたという感じです。キャサリンちゃん、おばかですからね。これ言外に、「人の法では有罪だが神の法では無罪」を主張して、助命嘆願を試みているようにも思えます。そんな方便、キャサリンちゃんが自分で思いつけるでしょうか?
修道院に貴族の子女が預けられるのは、持参金ビジネスでもあったんですよね。出家する人もしない人も、そこで生活するための金品はたくさん持参したのです。お金ないと入れてもらえないの。たとえ行儀見習いでも。
ナーロッパ悪役令嬢、残念でしたね。身分財産剥奪された人なんか、門前払いなの。ナーロッパでよかったね。ヨーロッパだったら、たとえ命が助かっても放逐されて終了。
13世紀のイタリア、15世紀のスペインでそれぞれ極端な清貧を実践する聖人が現れました。でもやっぱりそれは、殆どの人からは行き過ぎだと思われていたみたいです。
キャサリンちゃんのような立場の人が、活動中の修道院に預けられられるということは、あり得ないことです。サイオン修道院跡地に送られたのは、修道院で素行を監視するわけではないんです。そこが王族の住まうような宮殿でもなく、しかし王族所有の建物で、ロンドン郊外という近場の立地だったから。王妃という立場の人を一時的に勾留するには、ぴったりの場所だったのでしょう。
そんなわけで、サイオン修道院、正確にはその跡地に押し込められたキャサリンちゃん。そこから先、ヘンリーさんはすっかり興味を失いました。処刑を見届けることすらしなかったと言うことです。
「有罪、有罪、縛り首、斬首、晒し首、そやつも吊るせ」
サクサクと裁判を終わらせて、次々とロンドン塔送りにするヘンリーさん。
「全く、手ずから首を落としてやりたいものを」
「陛下、どうぞご賢慮を。ハワード家はカトリック陣営の重鎮。裁判をせずに切り捨てれば宮中が荒れますぞ」
その頃ヘンリーは、プロテスタント陣営の先鋭的な人々とも揉めておりました。国教会の戒律をルター派の考え方で改定しようとしている一派と、意見が合わなかったんです。ヘンリーさんがしたかったのは、教義的な改革ではありません。あくまでも宗派を独立して、国王が宗教より上に立ち、ワガママを通したかっただけなのです。
それが、カトリックから離反したものだから、プロテスタント陣営が勢い付くのは必至。行き過ぎた改革とそれを支持する派閥に牛耳られないよう、苦慮している最中でした。
キャサリンの伯父ノーフォーク公トマス・ハワードは、カトリックです。しかし、ヘンリーの修道院解散命令に抵抗した叛乱を残虐な手段で収めたのも、この人でした。
忠臣でもあるため、未改宗だからといってすぐに叛逆罪は適用されません。こういう複雑な立ち位置の人物は、プロテスタント陣営からなんとかして追い落とそうとされて当然です。
今キャサリンとそれに連なる人々を思いのままに斬り捨てては、急進派で宮中が埋め尽くされてしまいます。それはヘンリーの希望ではありません。好きに理由付けされないように、理屈をつけて処刑することに致します。
「形だけでも裁判をなさいませ」
「左様か」
「ええ」
「仕方ない。よきにはからえ」
不義の決定的証拠である、カルペッパーへのラブレターとされる手紙。そこに書かれているのは、恋人同士にしては他人行儀な呼びかけや言い回し。歴史に残る貴婦人たちの煽情的な不義の恋文とは、かなり違う文面です。貴婦人の恋文、かなり直接的で言い逃れ不可なものが残ってますよね。キャサリンちゃんのは、ちょっと違います。
古文書解読のプロが筆跡とインクの色が2種類あると言う結果を発表したそうです。これを根拠に捏造説が浮上しました。
英国国立公文書館の学芸員の対談で、この手紙が取り上げられております。これは恋文ではなく、おそらくカルペッパーに脅されていたのだろう、と。脅されたので懐柔しようとしたのだろう、と。この学芸員の見解では、手紙そのものは捏造証拠ではないとされております。
ヒステリックになったりメソメソしたり、キャサリンちゃんはサイオン修道院跡地で気を揉んでおりました。つい数日前までの自信に満ちたモテ子の面影は、もうありません。しおしおしている所へ、残酷な知らせが参ります。
「王妃としての肩書きを剥奪する」
「そんなっ」
1541年11月23日。キャサリン・ハワードは、ついにヘンリー8世の王妃として正式に戴冠することなく、妃の肩書きを失いました。この頃はまだユリウス暦です。ユリウス暦では水曜日でした。
グレゴリオ暦換算だと日曜日ですので、ちょっとギョッとしますが。中世のキリスト教徒、日曜日にお祈り以外のことしたら罰せられます。水曜日なので仕事しても断罪してもオケ。
でもこの日、降臨節に入っていたんでは?わりと断罪しない季節ですよ。ヘンリーさん、相変わらず自由ですね。普通は身を慎んでワガママしない期間だと思うのですが。
それとも目前でしょうか。降臨節は、「主のご聖誕を祈りのうちに待つ期間」。因みに、宗派によって訳語が違います。英国国教会は降臨節、カトリックでは待降節。最近の日本語ではアドベントとカタカナなので問題ないのですが。カトリック用語はだいたい知らなきゃ読めないですね。
はてさて、そんなことお構いなしのヘンリーさん。ザクザク首も切りますよ。
「陛下ご帰天の後には夫婦となると約束していたそうだな?」
「そんなこと、言ってません!」
デラハムがそう言ったと聞いた、という証言もあれば、カルペッパーがそう言ったという噂もあり。病気で余命いくばくもないヘンリー8世の死を待ちながら、不義密通をしていたと人々は証言致しました。
その件は当事者の誰も認めないまま、カルペッパーとデラハムはロンドン郊外の絞首台であるタイバーンへ送られることとなりました。吊るした後は、首もチョーン。ロンドン橋に晒しておきます。
今も残る記録には、ふたり揃って吊るされたのが1541年12月10日と書いてあります。クリスマスまであと15日なんですけど。ロンドン市民も見学に来ます。誰も批判しませんでした。
この後キャサリンちゃんがロンドン塔に移送された時に、ロンドン橋で首を見たらしいので、年末年始ずーっと晒してあったんですね。なんてことでしょう。
お読みくださりありがとうございます
続きます




