向こうがしつこかったのに
「厳格な女官を怖がったのも、宮廷の振る舞いを覚えないのも!みな朕の威信を失わせんがためか!」
ヘンリーさんの愚痴が爆発する。だが、キャサリンはそこまで考えておりません。ヘンリーはキャサリンの不機嫌を思い返してみました。
「なによ、気取っちゃって。ばかみたい」
「薔薇よ、棘なき薔薇や、ほれ、新しい宝石だぞ?」
「誤魔化されないんだから。ねえ、ランベスハウスのメアリーを呼んで?ずっと一緒に育ったのよ」
「そうか?」
「そうよ。王宮でだって、一緒でなくちゃ」
「最上の女官たちを侍女に準備したはずだが」
「意地悪ばっかりするのよ!」
キャサリンはぷんとふくれた不満顔をヘンリーに向けました。ヘンリーはヨシヨシと肩を抱き寄せます。キャサリンは身を捩って背中を向けました。
「薔薇よ、お前はほんとうに素直だなあ」
ヘンリーさんは、もともと戦場で奔放に暮らしていたい人なのです。あけすけなキャサリンは、何事もはっきり言わない宮廷暮らしで、唯一くつろげる相手でした。
「宮廷の女どもとは違う。お前のような娘は他におるまい」
ヘンリーさんはめげずにキャサリンの背中から腕を回します。
「駆け引きもなく、含みもなく、真っ直ぐに接してくれるのが心地よいぞ」
「そんなの、聞き飽きたわ」
「ほら、極上のワインだぞ?それとも甘いものがよいかな」
「まあ、それ、初めてみるわ」
「そうかそうか。ほら、食べさせてやろう」
宮廷は敵だらけだけど、贅沢な環境となんでも言うことを聞いてくれる王様がいる。男性としてはもう興味がないんだけど、ここの暮らしは悪くない。キャサリンは、王様よりも偉くなった気がしてきました。
キャサリンも最初は楽しかったのです。王宮に上がってすぐに王様の側近トマス・カルペッパーとの縁談も持ち上がりました。カルペッパーはそつなく立ち回るイケオジです。キャサリンはカルペッパーを繋ぎ止めるべく、おしゃれに余念がありません。なにしろカルペッパーも女性の熱い視線を浴びておりましたから、気が気ではなかったのです。
ですが王様からお声がかかってしまいました。性格がかっこいいし王様だし、一目惚れされちゃって運命って言われたし。今の王妃様はもうすぐ婚姻無効になるって聞いたもの。見た目なんて、きっと慣れると思ったのです。
でもダメでした。可愛がってはくれましたけど。
「陛下、太ってるし、なんだか匂うわ」
「妃殿下!いけません」
「ほんとのことじゃないの」
「お口をお慎みなされ」
「これで上等なドレスも豪華なお食事もなかったら、割に合わないわ」
「ワリニ?なんです?」
「なーによ。馬鹿にして」
「私ども、言葉をよく存じませんの」
「妃殿下は、面白い言葉をよくご存知でいらっしゃる」
小言に嫌味に、薄ら笑い。キャサリンは許せなかった。
「陛下ぁー!」
「まあ、はしたない」
「王妃の冠をお受けになる日が待ち遠しいですわね」
「おほほ、さぞお似合いになりましょう」
「陛下、陛下ぁー!」
「おやなんだい、呼んだか?」
とうとうヘンリーさんが折れて、チェスワースハウス時代から一緒に育ってきた親戚の娘メアリー・ラッセルズを、侍女として迎え入れました。ところがメアリーは、もうあの頃の無鉄砲な女の子ではありませんでした。
メアリー・ラッセルズ・ホール夫人です。すっかり落ち着いた奥様でした。いつまでも少女のままで恋人に取り巻かれているキャサリンを、苦々しく思っていたのです。
キャサリンは確かにまだ10代ですが、既に結婚した妃なのです。正式な王妃としての戴冠は伸び伸びになっておりますが。ノーフォーク公ハワード家の力がこれ以上拡大しないように、と警戒する人々に妨害されておりました。
それだけではありません。キャサリンの傍若無人で浪費的な振る舞いには、宮廷で働く人々も、社交会の婦人方も、目に余ると思っていたのです。
キャサリンは敵だらけ。耳触りの良い言葉を囁く遊び慣れたおじさまたちが、その隙に漬け込みます。キャサリンは巧みな誘いに踊らされ、気をひくことに必死でした。年上の頼もしい男性を手玉に取っているつもりが、実際には利用されているだけとは気がつきません。
若さと美しさを蹂躙され、ノーフォーク公の血族であり王妃という身分に寄生され、側から見れば愚かな小娘。キャサリンは力ある貴族の家の生まれです。しかも女らしい姿であれば、のし上がりたい男性達が次々に寄って参ります。
残念ながらキャサリンちゃんは、王宮を泳ぐ知恵を身につけることは、ついにありませんでした。頼りすぎた親戚のジェーンは、最初から狡猾でした。そして、信じて王宮に引き入れたメアリーにまで、とうとう裏切られてしまいました。
そうして密告された不義の恋人、フランシス・デラハムも呼び出されて参りました。
「名前」
「フランシス・デラハム」
「妃キャサリン・チューダーとの不義密通赦し難し」
ヘンリーさん、気短に剣をすらりと抜く。自ら処刑したくて仕方がない。トマス・クランマー大主教は慌てて前に出る。
「キャサリン妃殿下と親しすぎるようだが」
「子供の頃から知ってますんで」
「ランベスハウスではキャサリン妃殿下の寝室に出入りしていたそうだな?」
「あれだけ可愛い子に呼ばれたら断れないでしょ」
「今も?」
クランマー大主教が厳しく迫る。デラハムは昔のことは証人も多いので観念しました。だが今姦通罪に問われれば命がない。全力で否定します。
「そんなーっ!昔のことですっ」
「手引きをした者が証言したぞ?」
「嘘ですよ!だいち、むこうがしつこく寄ってきて」
「ランベスにいた間、妃キャサリンと貴様は夫婦同士と呼び合っていたそうじゃないか?」
「ひいっ今関係ないですっ!」
夫が王なので、王を謀った角で叛逆罪にも問われます。だが、過去の呼び名を証拠に婚約していたとすれば、重婚罪が適用出来るのでした。そうなれば婚姻無効が適用できるでしょう。ヘンリーはそれを狙ってキャサリンを生かす道を残したと考えられております。
「そうだ、ジェーン・ブーリン夫人に聞いてください!」
「キャサリン妃殿下付きの侍女だな?」
「はい!ブーリン夫人がこそこそ2人の手紙を届けるのを見ました!」
「手紙を?誰に?」
頼む。ただ婚約していると言ってくれればいい。それで終わりだ。祈るような気持ちでデラハムの出方を見守るヘンリー8世。
「今の相手、カルペッパーにですぅ!」
「貴様!いい加減なことを申すでないぞ?」
ヘンリーさんギロリ。否定しろとの圧力は、しかし全く伝わらない。殺気に縮み上がったデラハムは、却って断固としてキャサリンとトマス・カルペッパーの不義の証言に固執します。自分が助かりたい一心なのでした。
このように、芋づる式に呼び出されてはロンドン塔に収監される、キャサリン・ハワードの関係者たち。1541年11月2日に密告の手紙が届けられてから僅か3日後、1541年11月5日に、ヘンリー8世はハンプトンコートを後にします。
「陛下、妃殿下のお部屋からこれが」
「手紙か」
「はい陛下」
「これは……カルペッパー宛て。新手の男は誠であったか!」
「残念ながらそのようですな」
「この手で首を落としてやる!」
「陛下、どうぞ、お鎮まりを」
「くそっ!顔も見たくない」
かの有名な、キャサリン・ハワードからトマス・カルペッパー宛てのラブレターであります。近年の研究では、捏造証拠と言われております。途中で筆跡が変わっているのだそうです。そして、読みようによっては全くラブレターですらないとの主張もございます。
この手紙は現在イングランドの公文書として保管されております。ネット上で確認できる画像の左側には、公文書アーカイブの公印が押してありますね。
このトマス・カルペッパーという人は、「枢密院の紳士たち」と呼ばれる国王の側近6名の1人でした。ところがなんとこの男、紳士とはお世辞にも言えないならず者。森番の女房を部下3人に押さえつけさせて乱暴を働いた、なんて記録もあるそうな。
ヘンリーも放蕩者ですから、よほど気があったとみえます。お気に入りの臣下で、頻繁に連れ歩いていたそうです。仕事のついでに一体何をしていたのか。怪しいものです。
1540年の夏には、ヘンリーとキャサリンは巡幸と呼ばれる国王夫妻の避暑旅行に出かけます。表向きは避暑ですが、実際にはいろいろなお仕事をしていたようす。ヘンリーさん、仕事はできる男です。
主な目的は、ヘンリー8世の甥にあたるスコットランド王との会見でした。フランス、スコットランド、イングランドは、絶えず婚姻外交したり口を出し合ったり戦争したり、ゴタゴタしていたのです。この交渉は決裂して、1542年には戦争になってしまいました。
その時、件の性悪、ジェーン・ブーリンも同行しておりました。この人が最初に王妃の侍女となったのは、最初の妃キャサリン・オブ・アラゴンの時。夫の姉アン・ブーリンが妃になると、そのまま王妃の侍女として残ります。
お世話をするふりをしながら、処刑に至る決定的な証言を致しました。夫とその姉アン・ブーリン王妃の近親相姦を偽証する、などというとんでもないことをしでかしております。3番目の妻ジェーン・シーモアにも仕え、その死後には4番目の妻アン・オブ・クレーブスにも仕え。色々と暗躍したようです。
5番目のキャサリン・ハワードには、唯一の味方という顔をしておりました。実際にはキャサリンを焚きつけて、デラハムやカルペッパーに高価なプレゼントを贈るように仕向けたなんてことも、あったとか。
この悪名高い王宮女官も、ついに悪運が尽きる時が参りました。今回は、手引きをしているところを目撃した証人もおりました。
「手紙を届けただけです!中身は存じません」
「巡幸の際に、カルペッパーを妃の部屋に通ずる裏階段へと案内したのを見られておるぞ」
「嘘ですわ!」
「幾度も案内したそうだなあ」
「お赦しを!」
たった数日のうちに、みんな捕まってしまいました。
ハンプトン・コートの自室にクランマー大主教の訪問を受けたキャサリン。何が起こっているのか分かりません。
「誤解です!マノックスはランベスハウスでデラハムの敵だったんです」
キャサリンは涙を浮かべて訴えます。
「お二人ともあたくしにプロポーズしてて。その頃の恨みで、嘘仰るのよ。ね、マノックスが言ったんでしょう?」
豪華なレースのついた上等なハンカチで、悔し涙を押さえるキャサリン。
「デラハム様に伺ってよ。そしたら解るから」
「デラハムならロンドン塔にいる」
ロンドン塔には、叛逆罪などの重罪を犯した罪人が閉じ込められております。
「大主教さま?冗談仰っちゃいやあよ?」
「素直に認めるのだ。デラハムもカルペッパーも全て話した」
「あんなお手紙、書いてないわ!」
「諦めなさい」
「陛下は?ねえ、お呼びしてよ?陛下は解ってくださるわ!」
「陛下はここを離れられた」
「え……?」
キャサリンはハンカチを取り落とすと叫び出しました。
「いやぁぁぁ!陛下っ陛下どこぉー!」
飛び出した廊下には、ヘンリーが描かせた立派な絵画が並んでおります。つい3日前までは、与えても与えきれないほどの贈り物を続けてきたヘンリー。もう二度と会うことはありません。
11月5日、キャサリン・ハワードは、ハンプトン・コートを追い出されます。ロンドン西部サイオンにあった聖ビルギッタ修道会に送られました。正確には、修道院跡地です。この会はスウェーデンの聖女ビルギッタ( ブリジット)により1344年に創立されました。サイオンには15世紀にやってきたようです。
珍しいことに、創設当時は男女別れず同じ敷地内で生活していた会だとか。広大な敷地ですので、同じ町に男子会と女子会があるような感覚なのかもしれませんね。現代では修道院はなく、サイオンハウスと呼ばれる個人邸宅が建っております。
お読みくださりありがとうございます
続きます