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棘なき薔薇と呼んでいたのに

 1539年の末から1540年の初め頃、王妃の侍女としてやってきたキャサリン・ハワード。ヘンリー8世の4番目の妻アン・オブ・クレーブスは、政略結婚で外国から嫁いで来た王妃です。ヘンリーさんは早々に興味を失い、結果は婚姻無効、そして、妹という立場と屋敷を与えました。円満離婚ですね。


 さて、興味の持てない4番目ちゃんのところへ、まだ10代の美少女がやってきた。斬首された2番目の王妃アン・ブーリンの従姉妹です。中年ヘンリー、一目見るなり釘付けですよ。山盛りの宝石をあげたり、広い土地を買って贈ったり。猛アタックですね。


「無邪気で、美しく、良い匂いがする。キャサリンは私の棘なき薔薇なのだ」


 棘なき薔薇と聞いたとき、カトリック信徒が思い浮かべるのは何か。単なる優しい女性じゃないんです。そう、それは、聖母マリアの数ある愛称のひとつ。永遠の乙女とも呼ばれる、純潔の象徴。


 ヘンリー8世と同時代の教会作曲家が「めでたし棘なき薔薇( Ave, Rosa Sine Spinis)」なんて曲も作っております。別にキャサリンのことじゃないですよ。これはカトリックの教会音楽です。



 そして、聖母マリアは全ての人の母。世の人の罪を全て肩代わりして人々を地獄送りから救う例の青年までが子供。むしろその人が本当の息子である、ハイパーおかあさん。それが聖母マリア。


 息子が磔にされたり脇腹を槍で突かれたり、なんやかやと酷い目にあわされても、崩れることなく立っていた婦人。恨むこともなくひたすら悲しみに耐えて(スタバト)雄々しく立っていた(マーテル)母なる人(ドロロサ)


 1533年、妃を取り替える為に新宗派を創設しちゃったヘンリーさん。彼は教義や慣習に反発しているわけではありません。感覚的にはどっぷりとカトリックです。彼が「棘なき薔薇」と呼ぶ気持ちは、依存にも似た愛慕だったのでしょう。溺愛どころの騒ぎではありません。



 もっとも、そのキャサリン・ハワードの従姉妹である故アン・ブーリンとなんとも冒涜的なことをしています。大英図書館所蔵のヘンリー8世私物とされる祈祷書に、はっきり証拠が残っております。


 ヘンリーさんは、キリストの受難を描いた挿絵に求愛をフランス語で書いております。答えるアンは、受胎告知の場面に誠実に愛してくれたらね?みたいなことを英語で。アンはフランス帰りなんですけど。読めても書くのは苦手だったんでしょうか?


 とにかく、お祈りの途中でコソコソお祈り本に口説き文句を落書きする王様。落書きで、結婚してくれたら男の子を産めますよ、と仄めかしを行う王妃の侍女アン。とんでもないカップルですね。


 大英図書館の解説では、恋人たちが祈祷書を使って恋文を交わした習慣を裏付ける証拠、だなんて書いてあります。今や文化史的に貴重な資料です。アンも身持ちが硬いというのとは違います。駆け引き上手で王妃の座を手にした、強かな女性でした。



 そんな人ですから、美辞麗句はファンタジックな陶酔をもたらしただけかもしれません。幼少時よりどっぷり浸かって染み込んだ、美しい聖母マリアのイメージに自ら囚われたヘンリーさん。なかなかに滑稽な人物ではあります。しかし、


 僕のマリアさま!


 と聖女の如く崇拝していたキャサリン・ハワードが、姦淫の嫌疑で密告された。ヘンリー8世にとってこれはとんでもない打撃ですよ。




 カンタベリー大主教トマス・クランマーから訴状を受け取ったヘンリーさん。ことの次第が明らかにされるまで、キャサリン・ハワードを軟禁することにしました。居城として与えられたハンプトンコートの一室に閉じ込めたのです。


 内密な調査が行われ、それから数日間次々と尋問に立ち会いました。質問するのはクランマー大主教。


「ジョン・ラッセルズ」

「はっ、ははっ、はいぃ」


 無言で見守るだけなので、いつにも増して威圧的なヘンリーさん。目の前に平伏する男の名はジョン・ラッセルズ。その妹メアリー・ラッセルズ・ホールは、ランベスハウスでキャサリン・ハワードと共に育った女性であります。やっぱり隣でぺちゃんこにひれ伏しています。


「詳しく申せ」

「はっ、はいっ!ここなる妹メアリーめが、気がつきましてございます」

「何をだ?」

「恐れながら妃殿下の目つきが、その」

「はっきり申せ」


 クランマー大主教は淡々と詰問します。


「はっ!妃殿下が秘書官殿をうっとりと眺めてらしたと」

「ふむ。メアリーなるもの」

「はははひっ」


 メアリーは急に振られてますます平らになります。


「相違ないか」

「はい!」

「何故そう思った?」

「はいっ!ランベスハウスで妃殿下が恋人を見ていた目と同じでございました!」

「左様か」

「はいっ!」


 ヘンリーは眉を顰めます。クランマーは続けました。


「ランベスハウスで?」

「はい!」

「詳しく」

「音楽教師のマノックス先生とぴったりくっついてるところを、大奥様に見つかりなさって」


 ヘンリーは呆れてしまう。自分は放蕩三昧ですが、王妃という存在に幻想を抱いていたようです。当時のキリスト教で理想とされたような高い倫理観を求めておりました。いわゆる貞淑な妻、つつましく高貴なる夫人というやつです。身勝手なこと甚だしい。



「なんだと!」

「はっはいぃ。」


 クランマーはヘンリーを片手で宥めて質問を重ねます。


「それで、どうした」

「はい、妃殿下はご自分のお部屋に閉じ込められてしまいまして」

「ふむ」

「あたくしに鍵を開けるよう、お言い付けになりましたのでございます」

「うむ、それから?」

「はい、それからデラハム様のお部屋をお訪ねになって」

「ほう?」

「2人して鍵をおかけになってしまいまして、あたくしは追い出されたのでございます」


 ヘンリーはガチャリと剣を鳴らして身震いする。ラッセルズ兄弟は縮み上がってしまいます。クランマーは変わらず冷静に尋ねました。


「その後は?」

「はい、今度はデラハム様が妃殿下のお部屋においでになって」

「うん」

「ワインとか、お菓子とか、夜中に2人で召し上がって」

「そして」

「おいでになる時、デラハム様はいつもダブレットとホースというお姿で」



 ダブレットは腰丈のピタリとした上衣です。殆どが首まで覆う襟高なもの。直訳するなら重ね着用上衣でしょうか。14世紀から17世紀あたりの男性が着用しておりました。


 今日の上着とは違って、どちらかというとシャツの部分。これはじかに着ているわけじゃないから、脱いでも肌は露出しません。だらしなくはあるけども。


 フランシス・デラハムは元々、力あるノーフォーク公ハワード家の秘書官でした。通常はこのダブレットの上にマントを着て活動していた身分のはず。現代で言えば、ビジネススーツの上着を脱いじゃってる状況ですね。



 ホースはどうなのか。直訳するならホースは筒状下衣。男女共に身につけていたそうですね。靴下という意味もありますが、15世紀のホースは今でいうレギンスのような役割のもの。ただし股の部分は通常繋がっておらず、男性はほぼ腿丈(サイハイ)でした。


 それをガーターと呼ばれるベルトで止めておりました。今日のガーターベルトと同じように、左右それぞれを止めるタイプと、ずり落ちないように腰ベルトから紐で吊るすタイプがあったようです。


 ヘンリー8世は若い頃、このガーターをきつーく締めすぎていたようです。足の筋肉を盛り上げて、かっこよく見えるようにしたかったのですって。その結果、壊死しちゃったんですから呆れます。晩年は色も形も臭いも不気味になっていたとか。


 そんなになる前にやめたらいいのに。見た目のためには窮屈とか寒いとか我慢するのがかっこいいというのは、こんな時代からあったんですね。オシャレのためには我慢するとか、1990年代までの女の子たちは平気で言ってましたけどね。体に悪いよ。



 ヘンリー8世時代より前ですと、貴族でもブレーと呼ばれるややゆったりしたズボンを腰紐で縛って着ていました。当時の絵には、ふくらはぎや足首までの丈で描かれております。庶民はヘンリー8世時代でもそうみたいですが。


 ブレーを履かない場合には、男女問わずプリーツスカートのようなものをホースの上に履いていたそうですよ。名称はそのまんまスカート。スコットランドの民族衣装のスカートの仲間ですね。

 そのほか、ふくらはぎくらいまでのチュニックや、シュミーズなんて呼ばれるゆったりしたワンピース状の上衣を着る人もありました。


 ヘンリー8世時代には、脚長を強調するためなのか、上衣であるダブレットが短くなりました。せいぜい腰骨あたりの長さ。臀部は覆いません。ヘンリーさん、スカートも履かずなんて書かれている解説まであり、ちょっと尖ったファッションで持て囃されたみたい。


 そうすると、ホースと上衣の間が丸見えになってしまう。男性はコッドピースという前隠しをつけました。ヘンリーさんは、これもまたかっこよくみせようと、キュッと締めていたらしい。江戸時代の男衆がキュッと褌を締めたのと似たような感性なのでしょうか。現代人には気持ち悪いと言われそう。


 女性の場合はスカートやチュニックがおおむね足首までありまして、さまざまな理由からホースはふくらはぎ丈や膝下丈だったとのこと。女性のガーターには、この頃既にフリルやリボンやレースが使われていたんですって。お洒落ですね。



 くつろいだ格好で、大人の体つきになり始めた少女の寝室に入る倍も年上の色男。由々しき事態です。


「マントもつけず?」

「ええ、そのまんまベッドにお上がりになって」

「何?」

「そこに夜食を広げるんです」

「なんと自堕落な」

「ええ、いつもあたくし追い出されてしまったのですけど」

「けど?けどなんだ」


 クランマーは猫撫で声を出しました。メアリーは少し落ち着いて、詳しく語ります。



「その時妃殿下がしてたのとおんなじ目付きで、ハンプトンコートのお部屋を通るデラハム様を、今やっぱり見てらして」

「後は?何かあるか?」

「ええ。3ヶ月くらいそんなことがございまして、ある時マノックス先生が大奥様にこっそりご忠告なさって」

「そうか」

「ええ。妃殿下とデラハム様が怒られて、それから」

「それから?」

「デラハム様は外国に行かされてしまいました」

「で、奴は帰国したと」


 デラハムは、海外に送られる前にプロポーズをしていたとか。でも帰国した時には、既にキャサリン・ハワードは王妃になっていたのです。


「はい。それから妃殿下宛に、宮殿で働きたいと何度もお手紙が参りましたようなのです」

「ううむ、そんな裏があったとは」


 ヘンリーはぎりぎりと歯噛みする。トマス・クランマーは手首を振りました。


「もうよい、下がれ」


 兄妹は王様の顔色をうかがいます。色を失いながらもヘンリーは頷きました。兄妹は逃げるように帰っていきました。扉が閉まり、ヘンリーはまたひとしきり暴れます。


「えい、腹立たしい」

「陛下、おいたわしや」

「純真な田舎娘が親戚を頼って行儀見習い?聞いて呆れるわ」

「まことに」


 アン・オブ・クレーブスの侍女の中には、キャサリンの親戚がいたのです。ジェーン・ブーリンという人で、アン・ブーリンの弟の妻。この人も暗躍ばかりしていました。キャサリンは親戚ということで、すっかり頼りきりだった様子でした。


お読みくださりありがとうございます

続きます

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