イケメン王は婚姻無効がお好き
史実を参考にしたフィクションです。史実と異なる部分は虚構ですのでご容赦を。たまにビックリするような誤記があるのでそちらもご笑赦を。とんでもない箇所を見つけたのでなおした。すみません。
1541年11月2日、死者の日。イギリス国王ヘンリー8世は、全ての死者のために祈りを捧げるミサに与りました。自らが断頭台へと送った者たちの魂は、無意識に除外されていたのでしょうか。それとも少しは憐れんで、救済を祈ったのでしょうか。そうした者たちの亡霊は、未だに目撃されることもあると言います。
そんなヘンリーさんに、すすっと寄ってくる者がありました。英国国教会の初代トップ、カンタベリー大主教トマス・クランマーです。
大主教というのは英国国教会の肩書きであり、ローマカトリックならば教皇にあたる地位であります。英国国教会は、当時はまだ、出来立てほやほやのキリスト教系新興宗教でした。作ったの国王ですが。
自身も生臭坊主であるクランマーは、豪華なマントの下から指先を出します。ヘンリー8世にぴたりと寄り添い、一通の訴状を見せました。素早く受け取ったヘンリーは、紙を開いて目を通します。
すかさずクランマー大主教は、ヘンリー8世に囁きかけました。
「陛下、キャサリン様彼氏がいますよ」
「何を言うか。そんな筈は」
王様びっくり。信じてたのに。後の世の歴史家は、本当に気づいてなかったと言っております。若い頃からモテモテで、中年の今だって娘ほど離れたキャサリン・ハワードちゃんに言い寄ったら結婚できた。自信満々、まさか浮気されちゃうなんて思いもしない。
若い頃から戦が強く、フランス艦隊を打ち破り、イギリス海軍の礎を築いたヘンリーさん。政敵や宗教的敵対者はサクサク処刑して、あちこちから頼もしいと大人気。男らしく色気があって、仕事も出来て人望もある。そりゃもうモテモテのイケメンでした。
このヘンリーさん、死後66年の1613年が初版というスピードで、シェイクスピアが戯曲を書いてくれちゃうというエモーショナルな人生を送ったのでありました。戯曲は今や合作説がほぼ確定ですが。それはさておき。
その昔、結婚したいコがいるから最初の妃を追い出したヘンリーさん。
「愛人なんていやぁよ。結婚してくれるんでなきゃ」
「ウンウン可愛いね」
「アテクシなら男の子、いくらでも生んで差し上げます」
「それは素晴らしいね。妃なんてすぐ追い払っちゃうから!」
「にやり」
だって妃ちゃんとの子供どんどん死んじゃうからね。世継ぎの男の子欲しいのに。いっぱいいる愛人に産ませた子を1人は認知したけど。嫡子に変える手続きめんどくさい。ダメ言われたらやだし。
いちばん気になってるコはなかなか一歩進ませてくれない。大好きなアンは妃ちゃんの侍女。しかもヘンリーさんが囲ってる愛人のひとりの妹でした。その上、国のいろんな仕事を任せているノーフォーク公の姪っ子なのです。だから、すぐに仲良くなれたふたり。
それなのに、愛人なんてと焦らしてくる。結婚してからならいいそうだ。男児多産家系だって言ってるし、お姉ちゃんには男の子産ませた実績がある。ヘンリーさんの子供って確信はなくて、庶子にすら認知してないけど。ノーフォーク公、戦争も強いし、強い男の子産まれそうじゃね?
絶対この子が奥さんになるほうがいいよね。お妃ちゃん追い出しちゃえ。だいたいお妃ちゃん早世した兄上の未亡人だし。教会法だと近親婚にあたるんでダメだったでしょ?国の都合で教皇庁から許可取ったけどさ。やっぱりそんなの無効でしょ。
そんときヘンリーさん子供だっだし。国が決めた嫁なんかいらないよね。
結婚時にはグイグイ行ってたという説と、ずっと嫌がっていたという説があるみたいです。何れにせよ、ヘンリーさんは恋に生きることにした。
このアンちゃんが、かのエリザベス1世のお母さんです。エリザベス1世さんも一回庶子になったりまた王族籍復活したり、恋したり結婚しなかったり、忙しい人生でしたね。
さてさて。
ヘンリー8世の頃は、婚姻に教皇の許可が必要でした。国内裁判で最初の妃を勝手に婚姻無効にしたヘンリー。そのせいで、カトリックから破門されたのです。離反の理由は色恋ですよ。教義とかどうでもいい。むしろ改革過激派を処刑して教皇に褒められた事だってある。
今だって別に変だとも思わない。だから、反カトリックを始末して教皇レオ10世からいただいた称号、「信仰の擁護者( Fidei Defensor )」は返したくない。
かっこいいから使いたい。破門で自動的に取り消されたが、わざわざクランマー大主教に頼んで英国国教会からの称号として付与してもらうという始末。
称号をいただいてから教皇は代替わりしていて、クレメンス7世の時代になりました。悪名高いメディチ家の血族。この人も庶子を支援してフィレンツェを統治させたりとか、神聖ローマ帝国のカール5世に幽閉されたとか、波瀾万丈な物語がございます。
晩年、ミケランジェロに依頼した「最後の審判」は、次のパウルス3世の時代に無事に完成出来ました。それが奇しくも1541年なのだということです。キャサリン・ハワードが密告された年ですね。
高名なパウルス3世は、反宗教改革を開始した事でも有名ですよ。彼の開いた「トリエント公会議」( 1545-63 )では、今日のローマカトリック教会の基本的な教義が議論されたということです。そして彼こそが、ヘンリー8世を破門した張本人なのでありました。
ローマカトリック教会が荒れに荒れた時代、実に3代にわたる教皇に迷惑をかけた男。それがヘンリー8世という王様でした。
3人の教皇にしてみれば、今そんなの構ってる場合じゃないから!痴情のもつれいらないから!大人しく愛人囲って我慢しててよ!必要に応じて嫡子認可してあげるし!教皇が白と言えば黒いものも白だよ?上手くやりなよー。
せっかく新教ガンガン討伐してくれてたのに、奥さん取り替えたくて宗派新設するとかどうかしてる。カトリック勢力のスコットランドと戦争始めちゃうし。
その隙に北部で旧教が抵抗したのを臣下が徹底的に潰したの?やめてよぉ。しかもその、暴力で捻じ伏せた臣下、カトリック陣営だったのに!その姪っ子と結婚したいからカトリック辞めてやる?2度目の屁理屈婚姻からの処刑エンドも同じノーフォーク公の別の姪だと?
勘弁して。
という心情だったかもしれません。
やりたい放題のヘンリー8世は、親しみを込めて「率直王」なんて呼ばれているらしい。フランスの方々とはまた別のベクトルで自由奔放な、アングロサクソン界隈の人々なのでありました。
そこまでして結婚した2番目の妻アンだけど、すぐにアンに仕えている侍女のほうが良くなった。
よし、死んでもらうか。アンの罪状は叛逆、姦淫、近親相姦、そして魔術。これだけ盛れば大丈夫でしょ。ついでに政敵も全部関係者って事でいいかな。ヘンリーさん大勝利。
ところが今度の妻は産褥で死んじゃって、次の妻は絵姿詐欺でガッカリ。運良く彼女には、昔破談になった婚約があると聞く。重婚でいいよね!いいことにしよう。という口実で、またもや婚姻無効。
しかも、これが成立する頃には、妃の侍女であるキャサリン・ハワードに夢中だったとか。またヘンリーさんは、王妃の侍女に手をつけましたよ。
若い頃の放蕩が原因でなかなか健康な男児が生まれなかったと言われる、稀代のワガママ恋愛脳君主ヘンリー8世。当時既に女王や女系の前例はあったものの、やっぱり嫡流男子が優勢。時代的にも男性君主の方が支持されそうだとこだわっていたという。
そこでどうしても男子の正統な世継ぎが欲しいヘンリーさんは、なんだかんだで子供を産めそうな女性と結婚はする。とりあえず3番目ちゃんとの男児はいるけど、病弱だしスペアがもう何人か欲しいところ。
キャサリンの後でもう1人、介護要員の妃をゲットしております。せっかく新嫁を捕まえたものの、健康な男児は生まれず。キャサリン・ハワード密告から6年後にヘンリー8世は病死してしまった。盛者必衰。しかたないね。
しかしこんな滅茶苦茶な人生を紐解いていると、なんだか認知が歪んできます。
なんだ、処刑された王妃はたったの2人じゃないか。何人も殺しては取り替えた印象だけど、妃は6人だし。死刑以外は、婚姻無効、産褥で死亡、婚姻無効、末期を看取って貰う。青髭じゃないね。
2番目の王妃アン・ブーリンが姉から略奪愛しても、結局姉とも別れてなかったなんて噂もあるし。すぐ飽きてポイ捨てしてないよ。たくさん囲って王様心が広いよね。
待て、違うだろ。
妄執とすら言えるほど後世に繋ぎたかったチューダー朝の嫡流は、どのみちエリザベス1世女王で絶えちゃうんですけどね。お気の毒さま。
そんな末路はまだ知らず、訴状を渡されたヘンリー8世。まずは茫然自失。やがてふつふつと湧き上がる怒りに呑み込まれてしまいます。
「この手で素っ首掻き落とす!」
すらりと剣を抜き放ち、鬼の形相のヘンリーさんでありました。信じきって裏切られた可哀想な夫とは思えない憤怒の化身。よほど腹が立ったのでしょう。
「よくも騙しやがったな?」
ヘンリーさんは怒りがおさまりません。クランマーとこそこそ話をしていた応接室の調度品を、叩く、蹴る、切り裂く。あまりの暴れっぷりにクランマー大主教も真っ青です。
「とにかく落ち着いて!」
「初心な田舎令嬢のふりしやがって!」
「私もびっくりですよ」
クランマー大主教も破戒坊主である。最初の妻はデキ婚だ。死別により神学部に復帰。結婚しなければ神学部を追い出されなかったので、ある意味誠実な人間ではある。この時代、聖職者だろうがなんだろうが、愛人持ちなどごまんといる。
「手練れの女が見破れぬとは!えい、口惜しい」
「ヘンリー陛下ほどの色男がしてやられるなんて」
「なうての遊び人にプロポーズまでさせていたと言うじゃあないか」
「とんだ毒婦でございますな」
「しかも年端も行かぬうちから」
ヘンリー8世は暖炉の飾り棚にある貴重な皿も、お構いなしに叩き割る。
「訴状の男は伯父の優秀な部下だと言うから!」
「故郷では夫と呼んでいたそうですぞ?」
「純真な娘が力を得たのを妬む故の嘘に見えていた」
「図々しくも私設秘書などにして側に置くとは」
「宮廷の女狐どもの汚い噂かと思ったのに」
「食わせ物はキャサリン・ハワードのほうでしたな」
「ああ、朕の棘なき薔薇が本当は毒イバラであったるか」
怒りに任せて、華やかな透かし彫りの椅子を投げる。投げられた椅子は豪華なタピスリーを巻き込んで壁を叩く。大きな音に驚いて扉の外にいた護衛達が声をかけてくる。
「陛下っ!」
「ご無事でしょうか?」
ヘンリー8世は腹いせに、重厚な織りのタピスリーをズタズタに切り裂く。それから、煮えくりかえる腹の中をぶちまけんばかりの大声で吠えた。扉から護衛の一団が駆け込んでくる。
「陛下っ」
「陛下っ」
「陛下あっ」
「えい、やかましい」
どの口が言うか、と出かかる言葉を呑み込むトマス・クランマーです。ヘンリーさんは舌打ちをして、護衛を再び部屋の外へと追い払う。
「徹底的に調べろ。今!すぐ!」
とにかく慌てて事実確認を要求するヘンリー8世でした。
「ご賢明ですな」
「今となっては、戴冠させずに良かった」
「まことですな」
キャサリン・ハワードは、結婚だけして戴冠は反対派の妨害に遭い続けていたのだ。ヘンリーはなんとかして戴冠させてやろうと頑張っていたのに。その陰で堂々と間男を侍らせていたとは!
密告者と関係者を厳しく尋問するように言い置いて、ヘンリー8世は荒々しく教会を後にした。
お読みくださりありがとうございます
続きます