甘味
荷物の整理をしていると終業のベルが鳴る。欠伸をして最後の段ボールをパレットに積んだ。垂れたままにしていた額の汗をようやく拭っているところで社長に呼ばれた。
「今日から新しい人が来るんだよ。言ってなかった?」
立派な髭をたくわえた割には貧相な顔立ちで、社長は先月の赤字を忘れてしまったかのように清々しい様子だった。
「遅れてすみません。ってか顔合わせだったんだね」
人だかりに紛れて同期の鈴木くんに訊ねる。彼は黙って首を縦に振った。
夜通し働いた鈴木くんの背中は塗料や溶剤で汚れていて、代わりの作業着を見繕うようにと、現場監督に打診されていたっけ。
物思いに耽っていると、前方の大扉の向こうから、社長がやって来る。さっき別れてから五分と経っていないのに、なんだか時間が長く感じた。
本来であれば、もう帰宅の準備をしているころだし、早く新人への挨拶を済ませてしまいたいのが正直な気持ちだった。
「さあ、こちらへどうぞ」
白髪の混じった毛を無造作にしており、初めは性別が分からなかったが、どうやら老齢らしい彼女は軽くお辞儀をして。
「藤田です」
とだけ呟いた。やたら低い声に、少し驚いた他は別段おかしな印象は受けなかった。横で鈴木くんが無表情で眺めている。
「飯山くんも思うでしょう。どうせまた」
帰りのロッカールームで鈴木くんが放った言葉は、この工場で勤務しているものなら誰でも合点がいく不文律である。
「何人来ても同じなのにね」
夜勤明けには眩しい朝陽を掻い潜り、駐車場に着くと急に眠気がやってくる。エントランスのロータリーは桃色の絨毯が拡がっていた。
緑の新芽がそこここに散らばる桜の木が外周を縁取っている。
アクセルを踏みしめて農道を加速する。帰ったら取り敢えず寝よう。飯山は窓を全開にして、睡魔を追い払う。
※※※※※※※※※※
フォークリフトを運転していると、物陰から何かが飛び出してきた。素早く構内を横切ったそれは、恐らく猫である。
ブレーキを緩めて猫の姿を追う。敷地内で動物がいたら当然外へ連れ出してあげるのがいい。
昼の時間帯は納品が少ない。だから従業員は休憩を取る。建物の北側に面する喫煙所は、どんよりとしていて普段から利用者は多くない。
たまに社長の息子が壁に寄りかかっているくらいで、人がいるのは珍しい。
「どうも」
膝の上に抱えられた猫は、黒い眼差しを送っていた。視線の先では口を開けた藤田さんが遠くを見つめている。
どうも飯山に気づいていないようだった。ヘルメットを置いて、地面に降りる。足元は湿気でぬかるんでいる。昨日の雨の名残に違いない。
「藤田さん、でしたっけ」
するとようやくこちらを向いた藤田さんは、ああ、と言って立ち上がろうとした。それを手のひらで制して、飯山は隣に腰かけた。猫は喉をごろごろさせている。
涼しい風が吹いていた。
「お昼は召し上がりましたか?」
「いいんですよ。私なんか」
放っておいて欲しいと言わんばかりの、けれどやんわりとした拒絶は深海に漂う発光体を連想させる。
揺らめく不確かな明かりは、漆黒に隔絶された世界において、ひどく興味を惹かれるものになる。それが例えチョウチンアンコウの灯火だとしても、一瞬間だけは眠れる財宝だと思わずにはおれないのが道理である。
「近くに食堂があります。安くて美味いのです、それに、お金の心配は要りません」
呆気にとられる藤田さんを手招きする。飯山は振り向かずに正門を出る。耳をすませると、ペタペタと、微かにだが足音がついてくる。
絵に描いた町中華は、油染みのあるダクトと、手書きのお品書き、本日のおすすめは棒々鶏。
迷っている藤田さんをよそに、飯山はおすすめと、ニラ玉とスープを素早く注文する。大して待たずに運ばれてきた料理を前にして、藤田さんは怪訝な素振りで落ち着かない。
「どうして」
「どうもこうも、昼休みには腹ごしらえをするのが普通でしょう」
「普通って何ですか」
鋭い棘のある言いざまに、飯山は顔をしかめるもすぐに元の表情に戻した。
「さ、冷めないうちにスープでも」
箸でかき混ぜるとかき玉がくるくると回転する。そのまま啜ると舌が痺れた。
「ニラ玉とスープ、卵で被っちゃいましたね」
飯山の台詞に反応することなく、藤田さんは手を揃えて微動だにしない。結局飯山が支払いを済ませる直前に藤田さんは棒々鶏を一口頬張ったくらいで、午後の仕事に支障がないか心配になった。
※※※※※※※※※※
ドラム缶の中身を掃除していると鈴木くんが応援に来てくれた。
「あの藤田さんって」
まさか鈴木くんからその話になるとは飯山は手を止めた。
「凄く一生懸命なんだよな」
「へえ」
班が異なるので知らなかった。勤務初日から藤田さんはかなりの残業をしたようで、それも自発的なものだった。
何でもすぐに覚え、飲み込みが早く、今やリーダーから絶大な指示を得ている。
「それにさ。この職場はそれなりに重労働じゃないか、金属の部材やコンクリートの塊を動かさなくてはならないし。夜勤だって女性には向かないだろうに」
「それもそうだな。何で、ウチに就職したんだろうな。まあ給料はいいはずだから、それでなのかもね」
後日飯山は休日に出勤した。人手が足りないと、社長に懇願されたためだ。時給割り増しも嬉しいが、カレンダーは藤田さんの班の勤務日だと教えてくれた。
会社に着くと異様な気配がした。忙しなく行き交うフォークリフトの影や、トラックの積み込みがない。
「どうしたんです」
社員が集まっていた。そのうちの一人に声をかける。
「これ、酷いよ」
指し示されたのは、夕方の赤に照らされて、黒々と光るのは毛だった。不自然な角度で捻れた尾だと判別できたのは、周りで猫という単語が聞こえてきたからで、そうでなければハエのたかった何かでしかなかった。
「猫だったのか。フォークリフトに踏まれたんですかね」
「さあ、そこまでは分からないけど、確かに車みたいな重いものに挟まれないとこうはならないよね」
青白い顔をした社員たちも、始業の合図までに持ち場へと消えた。勤務中に気になってもう一度その場所に行ったが、猫は綺麗に片付けられたようで、血痕すら残されていなかった。
仕事をしていてそういえば、藤田さんが病欠と知った。
※※※※※※※※※※
工場の周辺は雑木林になっていて、桜の目立つエントランスとは異なり、数多の針葉樹で埋め尽くされている。
散歩していると、存外に猫がいる。なかには首輪をつけたものもいるから、野良になったのか、それともどこかで飼われているやつが、たまに自然を浴びにくるのか。
町中華も散歩コースに含まれていて、ちょうど誰かが出てきた。藤田さんだ。あれから彼女はたまに店を利用している。
なぜか花束を胸に抱えている。といってもそれほど大きくはない。
ある地点で立ち止まった藤田さんは、膝を追って両手を合わせた。そこはあの猫が亡くなったところだった。
「天国で笑ってますよきっと」
驚いた様子で飯山を見上げた藤田さんの目尻には涙が滲んでいた。
「そうでしょうか」
「ええ。猫は人の恩を忘れたりしませんよ」
何度かまばたきをして、藤田さんは頷いた。
「そうですね。飯山さんの言う通りです。それと、この前は助かりました」
「この前?」
「とぼけないでください。私が風邪で休んだときに、代わりに工程をこなしてくれたでしょう。あと棒々鶏も」
気にしないでください、と飯山が微笑むと、藤田さんも目を細めて笑った。仕事中は後ろにひっつめる髪型からか、初めて会ったときと印象が違った。
「あんなの、普通ですよ」
「いいえ。あなたにとっては普通でも、私にとっては感謝しかありません。そうだ、これ良かったら」
手提げから取り出したのは桜餅だった。
「お気に召すかしら」
包みから出して頬張り飯山は咀嚼する。塩気のある葉っぱから、特徴的な香りが醸される。刹那に胃が収縮する。藤田さんのいないところで吐いた。
それから藤田さんと勤務がたまに合えば、食堂を一緒にしたり、周辺の案内がてら散歩したりした。
「実は私ね、以前の会社を辞めさせられたのよ」
ある日唐突に藤田さんが呟いた。声は小さいが、はっきりと聞き取れる憤りを秘めていた。
神妙な面持ちで語りだした藤田さんを、飯山は固唾を飲んで見守ることしかできないでいた。
※※※※※※※※※※
二週間も過ぎれば班替えがあり、飯山と藤田さんは同じ勤務表をもらった。さらに新人を迎えることとなり、軽い歓迎会を企画された。
「みんなどんどん飲んでくれよ」
だらしなく伸ばした髭をさすり社長が煽る。
「どうもー。昨日入社しました田中でーす。宜しく」
坊主頭の青年がお酌をしてくれる。田中という彼は耳に大きなピアスをあけていた。
「あの子、藤田さんの後輩ですね、初めての」
「まるでお婆ちゃんと孫ね」
目を伏せる藤田さんはペースを早めているのか、グラスが空きつつあった。
女性社員がやってきて、趣味の占いを披露してくれる。
「えーっとお。藤田さんは悩みが多い感じぃ?」
適当な結果に藤田さんは愛想笑いをする。
「それと飯山さんはねぇ。ちょーヤバイです。サイコパスだってえウケるわ。血も涙もないってさ」
「その占い、当てにならないですね」
さらりと藤田さんは言ってのけた。女性社員は次のテーブルに移動して、似たような発言を繰り返している。
ふいに頭が氷漬けになったような錯覚に見舞われた。
「あー、ごめんごめん」
醤油を拭いた布巾で、飯山は顔を擦られた。
「ちょっと、田中さん」
慌てて制止する藤田さんは店員に代わりの布巾を持ってこさせる。醤油臭くなった視界の向こうで鈴木くんと目が合う。相変わらず無表情の鈴木くんに向けて飯山ははにかむ。
「手が滑っちゃって、まじでごめんな」
すまなそうにする田中の頬は軽く上気して、やや酔っているようだった。
※※※※※※※※※※
雑木林を散歩している。気温はますます上がるけれども、木々に阻まれた腐葉土は触るとひんやりとしている。
こんもりと積もった土の養分を吸って、草花が生い茂っている。最近猫がいない。
「道路でさ。もう三匹目だよ」
工場までの道のりに転がっていた肉のかたまりは、原型を留めていない。だから猫とは分からない。社員たちはタヌキだろうと見当をつけているようだが、飯山は猫だと思っている。
でないと雑木林の過疎を説明できかねる。そんな猫だったものは、カラスにつつかれて、引きずられて、そのうちに消える。
夜勤への引き継ぎのときに、帰宅したはずの社長がいた。その場にいる全員を集めて、話をするとのこと。
「素直に告白すれば、まだやり直せる。誰か、心当たりのあるものは社長室まで来なさい」
売上金が、事務員の管理する倉庫から持ち出された形跡がある。被害は大きくないものの、このままでは警察に連絡せざるを得ない。
ざわつく社員たちのなかから声が上がる。
「ふ、藤田さんかも知れない」
昨日の夜勤は藤田さんと、田中さん、それに他二名。休憩以外は同じ部屋で基本的にずっと相対するので、全員にアリバイがある。
しかし夜食の時間に、弁当の藤田さん以外の三人は共におり、煙草を吸うために一足早く喫煙所へと田中さんだけが抜けた。
その直後、倉庫の付近で行ったり来たりする藤田さんを田中さんが目撃した。
藤田さんはもちろん否定したが、ある噂が嫌疑に拍車をかける。
「前科があるらしいよ」
瞬く間に広まったのは、かつて藤田さんが麻薬の常習犯であったこと。あるいは息子が凶悪犯で服役中であること。または死別した夫の保険金を詐取したなど、多岐に渡った。
体調が優れないという理由から、藤田さんは休みがちになった。金額を鑑みて、社長は未だに警察を呼んでいない。
あるときロッカーから異臭がすると騒ぎがあった。鈴木くんの隣のロッカーの使用者は田中さんだ。
「何もないっすよ」
呆れた様子でロッカーを開けると、中からごろごろと黒いポリ袋が落ちてきた。
「な、何だこれ」
狼狽える田中さんを取り囲む社員たちと、袋を暴く社員に分かれた。
「うわ」
固く結ばれた封を解くと、潰れた毛むくじゃらの頭部がぎっしりと犇めいていた。
「酷い、猫が、こんな」
叫ぶ飯山に視線が集まる。
「え。猫?」
飯山以外の連中は猫と気づくなり嗚咽を漏らした。もちろん飯山も涙を流してその場にうずくまった。胃が痙攣して二度と立ち上がれそうになかった。
放心した田中さんは警察に羽交い締めにされて連行された。
※※※※※※※※※※
教えられた住所には、古びた木造のアパートがあった。二階にあがり、指定された扉をノックする。
「はい、どうぞ」
柔らかな声に誘われるようにして、飯山はドアノブを回す。
「お久し振りですね」
「ええ、ご無沙汰」
以前よりも深くなったシワが、藤田さんを余計に痩せさせている。
会社に置きっぱなしだった荷物を渡すと、ようやく少し微笑んだ彼女の淹れたコーヒーを飲み下す。
「やっと普通の生活ができると思ったのだけれどね」
ため息を吐く藤田さんは続ける。
「田中さん、逮捕されたんですってね」
「ええ。横領とかなんとか」
猫のことは伏せていることにした。
「そうでしたか、なぜ彼だと?」
「塗料ですよ」
「塗料?」
「ウチの工場では、液体の製品にある物質を混ぜるんです。それは例えば石油にも区別のために添加されます」
スマホを取り出して、関連ページを見せる。真剣な眼差しで藤田さんは飯山の手元をためつすがめつ眺めている。
蛍光を示す物質、クマリンの誘導体が、田中さんの作業着や車に付着していたこと、さらに倉庫の鍵にもブラックライトにかざすと反応があったことを説明する。
「へえ、そのクマリン。っていうものが、光るのはいいけど、どうして田中さんが犯人だと。社員なら誰でも簡単に手に入れられるでしょう?」
「その塗料を混ぜる工程を、あの日やっていたのは彼だけですからね」
断言する飯山に、藤田さんは二の句が継げないでいる。コーヒーを互いに啜る音だけが、部屋に響いた。
「もうこの話は終わりね。荷物、有り難う」
ようやく口を開いた藤田さんは窓際に立ち飯山に背を向ける。
「ほとんど散っちゃったわね。桜が」
「そうですね」
「ひとつだけいいかしら。あの噂のことだけれど」
逆光で藤田さんの輪郭が黒く塗りこめられている。口や目のない幽霊が正面を向いているように思えた。
「私ね、あなたにしか」
と言いかけたところでインターホンが鳴った。引っ越しの業者のトラックが、すぐ下につけていた。
おいとまする飯山に、藤田さんは小包を持たせてくれた。
「心配しないで、毒なんて入ってないから」
笑顔の藤田さんに手を振って、アパートを去った。
※※※※※※※※※※
休憩時間に、昨日の包みを開封する。
ほのかに甘い匂いが漂う。
「桜餅じゃないですか」
給湯室の女性社員が顔を出す。ひとつ、またひとつと渡していく。
「田中さんと藤田さん、辞めちゃったんですよねえ。現場大変じゃないですかあ?」
「うん。まあね」
今朝ゴキブリを潰したマグカップで優雅に紅茶を飲む女性社員が桜餅を噛んでいる。飯山も桃色の粒に被われた桜餅を頬張る。
胃がキリキリと締め付けられる。燕下を躊躇うほどの香気に口腔が満ちている。
社長もやってきて三人で桜餅を食べる。
「この甘い匂いって何だろうね」
「あたしも気になってえ、調べたんですよお。桜の葉っぱの、クマリンって成分みたいです」
「きみ、詳しいねえ」
会話が盛り上がっているので、飯山が財布からお札を取り出す。
「おお」
二人が声を合わせて驚いた。
ブラックライトに照らされたお札がキラキラと輝いている。
「こんな風に、光るんですよ」
と告げる飯山からライトを奪って社長は嬉々としてお札を弄ぶ。
そこに鈴木くんがコーヒーを淹れに来た。途端に顔を曇らせる。
「あれ、桜餅、食べられないだろお前」
鈴木くんの台詞は給湯室で反響する。
女性社員が飯山の様子を伺い、社長は手を止める。
「そうなのか、あんなに美味そうにしてたぞ彼は」
さっきからむしゃむしゃ食べてましたよね、と女性社員も口を揃える。
それに対して、あはは、と飯山は笑う。
「ホント、何言ってるのかな鈴木くんは」
蜜の味がするんだよ、途方もなく甘美な。
(了)