第1章 竹田城について 1-3 言い伝え
竹田城は土塁の城から総石垣造りの城に造り替えられたときに、多数の人足が動員された。但馬だけではなく、播磨などからも人が駆り出されたという。当然、城下の農民も築城に協力させられ、農作業が長年に渡ってできなかったために、竹田の田んぼは荒廃し、松が生えたと伝わっている。
また、竹田城跡のある古城山の中腹に「千石岩」と呼ばれる大きな岩があるが、一説によると、この大岩は麓の河原から山頂に運び上げる途中で動かなくなり、放置されたものと言われている。ここまで引き上げるのに、人足が千石の米を食べたということから、「千石岩」と呼ばれているそうだ。
これらの言い伝えの真偽のほどは定かではないが、領民が酷使されたことがうかがわれる。
その一方で、領民に苦役を強いてとされる赤松広秀は、領民に「仁政の主君」と慕われていたという。矛盾した印象だが、真相はどのようなことだったのだろうか。
竹田には、不思議な唄も伝わっている。「黄金千両、銀千両、城の周りを七周り、また七周り七戻り、三つ葉うつぎのその下の六三が宿の下にある」という唄である。
一読すると、宝の隠し場所を暗示した唄に聞こえる。しかし、この唄は竹田城の水源と水路を暗号化したものと一般的に解釈されている。
竹田城の水源は、西方の大路山にあり、そこから導管を2km程敷設して城に水を引くことにした。だが、水源や水路が敵に見つかると、籠城したときに水の手を切られ、数日しか籠城できなくなる。それを防ぐために、水源には千願寺(千眼寺)を建ててカモフラージュし、導管を隠した。「この唄は、金銀にも代えられない大切な水源と水路を後世に伝えるための唄である」と理解されているのだ。
過去には、黄金伝説と捉え、山中を探し回った者もいたそうだが、見つからなかったらしい。