第1章 竹田城について 1-2 築城から現代まで
竹田城は総石垣造りの城である。だが、最初から石造りの城として造られた訳ではない。元は土塁の城だった。
竹田城の築城に関しては明確ではないが、永享3年(1431年)に山名持豊が築城に着手し、嘉吉3年(1443年)に完成したとされる。このときの名称は「安井ノ城」であった。
初代城主には、山名氏の重臣である太田垣光景が就いたと伝承されている。しかし、近年は太田垣通泰という説が有力らしい。
2代城主は、太田垣景近が寛正6年(1465年)に就いた。景近は14年間城主を務めたが、その内の10年間は応仁の乱だった。城攻めをされた様子はないが、但馬に侵攻してきた細川氏を太田垣氏が迎え撃っている。
応仁の乱が終わった2年後の文明11年(1479年)、太田垣宗朝が3代城主になった。その後は、4代城主・太田垣俊朝(延徳4年就任、1492年)、5代城主・太田垣宗寿(大永元年就任、1521年)、6代城主・太田垣朝延(天文7年就任、1538年)と続く。この間、太田垣氏は領国内で勢力を拡大し、山名四天王と呼ばれるようになる。
朝延が城主のときの永禄12年(1569年)、毛利元就の要請を受けた織田信長が木下(豊臣)秀吉に但馬侵攻を命じ、秀吉は10日間で銀山のある生野城から但馬守護・山名祐豊の居城・此隅山城までの18城を陥落させた。竹田城はその間にあったが、攻略されたかどうかは不明である。永禄13年(1570年)に太田垣輝延が7代城主になっていることからすると、秀吉と太田垣氏の間に取引があったのかもしれない。
織田軍の但馬侵攻によって堺に落ち延びた山名祐豊は、織田信長に恭順し、元亀元年(1570年)に但馬に復帰する。しかし、天正元年(1573年)に毛利軍が但馬に侵攻してくると、山名祐豊は降伏し、太田垣輝延などの家臣も従った。
天正3年(1575年)、竹田城と山名祐豊の居城となった有子山城が丹波の黒井城主・荻野(赤井)直正に急襲され、占拠される事態が起きる。山名祐豊は織田信長に救援を要請し、明智光秀が丹波攻略を開始すると、直正は但馬から撤退した。山名祐豊と太田垣輝延は居城に帰還することができたのである。
毛利氏と織田氏の関係が悪化すると、織田信長が羽柴(豊臣)秀吉に中国攻めを命じる。秀吉は、天正5年(1577年)に播磨をほぼ平定した後、羽柴(豊臣)秀長を但馬に進軍させた。生野銀山の確保が目的だったらしく、銀山を支配下に置いていた竹田城が攻められる。太田垣輝延は籠城したものの、降伏して城を出た。羽柴秀長が城代となったが、秀長が播磨へ帰った後、太田垣輝延は天正6年(1578年)の三木合戦の隙を突いて竹田城を奪還したようだ。
天正8年(1580年)、羽柴秀長が再び但馬に侵攻した。竹田城は落城し、太田垣輝延は但馬から追われ、7代続いた太田垣氏の竹田城支配は終わったのである。
竹田城の城主には桑山重晴が就いたが、天正13年(1585年)に和歌山城主へと移封され、代わりにかつて播磨の龍野城主だった赤松広秀(斎村政広)が2万石で入城した。
この赤松広秀が、現在に残る石垣を築いたと考えられている。赤松広秀は、養蚕や漆器製造を奨励し、儒学の普及に尽力するなど、領民からは「仁政の主君」と慕われていたという。
赤松広秀は、豊臣家の大名として活躍したが、関ヶ原の戦いで西軍に加わり、丹後の田辺城を攻めたが、西軍が関ヶ原で敗北したのを知って撤退した。その後、東軍に加わって鳥取城攻めをしたものの、民家を焼き討ちしたことを徳川家康に咎められ、切腹させられる。竹田城は山名氏に接収され、廃城となった。
廃城となった後、竹田城は放置されたが、約350年後の昭和18年(1943年)に国史跡に指定され、平成21年(2009年)に追加指定を受けている。