第1章 竹田城について 1-1 竹田城跡の現状
姫路城の北50km程にある朝来市和田山町に、竹田城跡はある。標高約350mの古城山の山頂には、石垣のみが残され、往時の建物は既に無い。その姿はインカ帝国の遺跡である「マチュピチュ」を連想させることから、「日本のマチュピチュ」と呼ばれている。また、霧が発生したときには、雲海に浮かんでいるように見えるため、「天空の城」とも称される。
今では、「日本のマチュピチュ」、「天空の城」とのキャッチフレーズで有名な竹田城だが、以前は国の史跡(昭和18年指定)でありながら、無名の山城でしかなかった。
転機は平成18年に「日本100名城」に選定されたことだった。来場者が若干増えただけだったが、翌年に発行された「100名城の公式ガイドブック」に、雲海に浮かぶ竹田城跡の写真が掲載されたことで、広く知られたのが大きかった。
マスコミが度々取り上げるようになり、映画のロケ地にもなったことで、知名度は上がった。その影響で、平成18年に2万人だった来訪者は、平成26年に60万人近くにまで急増した。実に市の人口(3万人)の20倍の観光客が訪れたのである。
来訪者の急増で、城跡の整備が進められた一方、規制が強化された。自由に歩き回ることは難しくなったが、訪れ易くなったのは確かである。竹田城跡を南南東から望む立雲峡も整備され、運が良ければ、雲海に浮かぶ竹田城跡を見ることもできる。
残念ながら、来訪者は平成26年をピークに減少したが、未だに多くの人が訪れている人気の城であることに変わりない。
竹田城は「天空の城」との異名を持つが、「虎臥城」との別名もある。城のある古城山が、虎の伏せている形に似ているのが由来らしい。
城の縄張りは、天守台のある本丸を中心にしたYの字型である。本丸の北側には二の丸、三の丸、北千畳、南側には南二の丸、南千畳、西側には花屋敷が配置されている。東西に約100m、南北に約400mの規模で、石垣がほぼ完存している山城としては、日本でも指折りの遺構である。
竹田城の石垣は大規模なものであるが、使われている石は山頂や斜面付近で採取されたものを使用していたようである。この採取された石を「野面積み」で積んだのは、近江の穴太衆(石工集団)だと言われている。
穴太衆は安土城の石垣を築いたことで、織豊政権に重用され、多くの城の石垣構築に携わった。安土城の他に、彦根城、篠山城、角牟礼城などの石垣も穴太衆によって積まれている。
穴太衆の技術は現在まで受け継がれ、阿波屋喜兵衛を祖とする粟田家が石垣修復を行っている。竹田城は昭和46年から55年にかけて石垣の一部を修繕しているが、手掛けたのは古式穴太流伝承者の粟田万喜三であった。




