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地球の下  作者: はんなりぼんやり
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七章

 図書室は、雨上がりの太陽を浴びて光が舞っていた。太陽すらも、余ったエネルギーを使い尽くそうとしているように見える。

「石上くんは今日も早いね。」

 北村さんが笑う。こうして司書の席にいると、普段は年齢不詳のOLのような彼女も司書っぽく見える。

「運動部のあの青春エネルギーを図書室に向けているだけですよ。」

「本に囲まれた青春の日々というのも悪くないものだよ。少なくとも私はそう思う。青春のエネルギーはスコールと同じだからね。雨の中走るのを心地よいと思うのは青春だし、ただの迷惑なゲリラ豪雨だと思うのは大人の事情だ。」

 僕は本を読む前にこうして北村さんと話をする。彼女は物事をよく知っていた。少なくとも、僕が彼女を心の中で大人の代表に据えるくらいには、北村さんに憧れを持っていた。

「北村さんの言う、大人の事情ってなんですか。」

「そんなの、恋や愛が何だと解説するようなものだよ。みんなそれぞれの考えがあると思う。私にとっての大人の事情を言葉にするなら」

そこで北村さんは一度話を区切る。読みかけの本を閉じて、細い指で表紙をなぞった。

「石上くんは、地下道のチラつく蛍光灯をどう思う?」

「あまりいい印象は持ちません。見ていると、あの灯りは不安になる。」

「そっか。私にとっての大人の事情は、あの蛍光灯みたいなものだよ。人はね、みんなそれぞれ、自分が進む道を照らす灯りを持っているんだ。最初はとても大きなランタンかもしれない。大きな灯台の人もいるかもしれない。みんな、初めはそれぞれの可能性があって、想像の及ぶ限り、その灯りを伸ばしていくことができた。でもそのうち、その灯りも、あるはずの道も、人は見失っていく。そして最後には、あの地下の白ぼけた蛍光灯のような、一方通行で救いのない場所に立っていることに気づく。私にとって大人の事情というのはそういうものだ。それは結局、大人になるために様々なものを捨てて残った絞りカスだよ。」

「そういうものですかね。」

「君はまだ無理に大人の事情なんて考えなくていい。大人の事情、って言葉そのものが世界の間違いの象徴みたいなものだ。世界には正しさだけを集めたような景色があるように、世界の掃き溜めを担わされたような、哀れな言葉も存在する。大人はきっと、そういうのが見えるようになってしまった人たちかもしれない。」

 僕には、正しさだけを集めた景色というものがよく分からなかった。でもきっとそこには、悲しい感情も正しい形で存在しているのだろう。

 北村さんはそれっきり読書を再開してしまった。今日の話はここまでということだろう。僕にとって、大人はマイペースだ。しかも大抵、それらは計算されたマイペースだった。例えば、北村さんはここで話を区切ることが意味を持つことを知っているのだろう。きっと、僕に考えさせるための十分なヒントを与えたから、彼女は話を終えたのだと思う。

 僕は昨日の読みかけの本を手に取り、夕陽の程よい席を選んで座った。紙をめくる音だけが鳴り響く。僕は、自分が時折、図書室の入り具に目を向けていることに気づいた。僕は一度本を閉じ、なんとなく顔をしかめた。

 一時間ほど、つまり地球が十五度ほど回転した頃に、彼女はやってきた。右手にブックカバーのかかった文庫本を持っていた。若草色の素敵なブックカバーだ。

「こんにちは。そのカバー、とても素敵だね。」

「ありがとう。いい色でしょ?」

「うん、とても。夏祭りの金魚すくいの袋のようだ。」

「取った金魚をぶら下げる袋?」

「そう。つまり、ブックカバーにその色はぴったりだということだよ。」

 深冬はなるほどと言って僕の正面に座った。僕も本を閉じて深冬の手元を見る。抑えたトーンで深冬が言った。

「手紙、ありがとう。誠実、ってタイトルが似合う内容だったよ。」

「どういたしまして。嬉しい評価をありがとう。」



 僕はまず、深冬の死別の話からすることにした。仙台の話はあくまでも、この前話したことにおおよその本質がある。物語の本質は局在的だ。大抵の場合、それは結末にある。しかし仙台の話は、その始まりに本質があった。


「これは大変伝えにくいことだ。」

 深冬が頷く。

「分かってるよ。伝えやすいことを手紙で牽制することはない。それぞれの悲劇に特化した心の準備は出来てないけど、強く受け止める気持ちはある。」

 僕は意識的に息を吸って、ゆっくり吐き出した。これは今の僕の本質の一端だ。

「君は、僕と出会って一年後に死んだ。仙台から帰った翌年だ。」


 最後に彼女に会った日、絶対に忘れられないその日は、北風が激しく主張する真冬だった。空は少しばかりの墨を含んだようにくすみ、窓をカタカタと揺らしては、落ち葉を繰り返し巻き上げた。昼過ぎなのに夕方のように暗く、すぐにでも雪が降り出しそうな気配すら伴っていて、冬のアイデンティティをこれ以上主張しなくても、気候はとっくに彼らのものだった。

 そんな中、僕は深冬に電話で呼ばれた。普段、家の電話に掛けてくるなんて滅多にない。彼女の卒業した小学校に十四時。僕は自転車を飛ばした。なんだか嫌な予感がしていた。『もし』がひとつでもあれば、僕もそこに通っていたかもしれない小学校は、公立独特の古めかしさを冬に溶け込ませていた。到着すると、タイヤ飛びのひとつに腰掛けている深冬が視界に入った。冬に対抗するような、真っ赤に塗られたタイヤだ。

 僕が近づくと、深冬はタイヤから立ち上がり、軽くスカートをはたいた。

「こんな寒い中来てくれてありがとう。」

「ううん、今日はずっと本を読んでいたから、ちょうど外に出たいと思っていたんだ。」

「それは良かった。」

 僕は注意深く、しかしできるだけ不自然にならないように彼女を観察した。両目の下が少し腫れているように見える。電話越しでは分からなかったが、もしかしたら泣いていたのかもしれない。

 何があったのか、聞くことは難しくないように思えた。でも僕から聞くのも、どこか間違いのような気もしていた。僕は深冬がそうしていたようにタイヤに腰掛け、言葉の続きを待った。

「私ね」

 深冬は風に耐える若い綿帽子のような、引き裂かれそうな悲痛さを浮かべていた。

「ねえ、マサチカ。私の名前、書いてみて。」

 そう言って彼女は、足元に落ちていた枝を僕に渡した。細い桜の木の枝だった。僕は何も言わず、深冬と僕の間あたりに『深冬』と書いた。顔を上げると、僕の筆跡をじっと見ている深冬がいた。

 彼女は何かを確かめるように、僕の書いた一画一画を観察していた。そしてやがて顔を上げ、今までで一番明るい笑顔を見せた。目の腫れすら気にならないような、今にも日差しが降り注ぎそうな、そんな理想的な笑顔だった。僕はその笑顔に、どうしようもなく心を奪われた。

 そして結局、その笑顔を言い訳に、どうして僕を呼んだのか、その理由を聞かないままに僕らは別れた。当時の僕には、それが本当の意味での別れになるなんて、想像がつくはずもなかった。

 そして翌日、市原深冬は死んだ。

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