六章
翌日は雨だった。天蓋の地球は、今日は見えない。冬の雨は本当に冷たいと思う。
外の天気を見て、僕は散歩を諦めた。余った時間で簡単に朝食を済ませ、残りの時間は本を読む。外の雨の音が心地よかった。僕の部屋は平屋なので、雨の音がダイレクトに屋根から聞こえる。秋の落ち葉を踏みしめるような、幸せを声にしたような音だった。今日は結構降っているなと思った。時間が近くなり、僕は制服に着替えて外に出た。
僕の家から学校までは徒歩で十分と少し程度の距離だ。エリアはそのサイズにしては人口密度が大きいため、道ゆく人々もそこそこにいる。新卒社員のような黒いシャツに白いシャツの若い男性、仲よさそうに走っていく高学年くらいの小学生二人。小さなカフェの開店準備を進める若い女性に、エナメルのカバンを下げた中学生の少女。
みんなそれぞれの生活があり、それはエリアの中で完結している。ここは小さな世界の箱庭だ。学校があり、役所があり、警察があり、商店街がある。僕はこのエリアの在り方を、それなりに美しいと思っていた。地球は広くなりすぎていて、誰にも制御ができない。この世界は人が制御できる、一つの理想形だと思う。ここが死後の世界だとか、政府が作った極秘機関だという人もいる。しかしみな一様に、ある程度満足しているようだ。
教室に着くと、春田ユウと茅野夏希が机に突っ伏していた。こういう日にはよくあることだ。僕は仲良く並んで突っ伏している、二人の席の後ろに座った。
「おはよう。朝練は中止?」
「おー、おーおー、今日も早いなあマサチカ。」
「おはようマサチカ。朝練がない日の、この余ったエネルギーのやりどころが知りたいよ。」
相変わらず本当に仲がいいなと思う。もちろん二人とも非常に嫌がるので、決してて声には出さないが。
僕が曖昧に笑って席に座ると、二人はその『余ったエネルギー』とやらで延々と話し始めた。ユウに至ってはあまりにだるそうなので、今にも机の上に溶けてしまいそうだ。
「この世界の雨ってどうなってるん?」
「私もそう思う。エリアって、天気やらなんやら充実してるよね。あー、わけわかんない!」
「夏希って、雨の日には今にも爆発しそうなくらいエネルギッシュだよな」
「当たり前でしょ。一日何もすることないんだよ、こんなの死んじゃう。」
そこまで話して、茅野は表情をさっと変えた。貝を食べたら砂を噛んだ、あるいは綺麗な道に落ちている吸い殻を見つけたような、少しだけ苦い表情だ。会話を僕が引き継ぐ。
「エリアの天気は中央部が管理しているって、カフェのマスターに聞いたことがあるよ。」
「まじかよ。それなら毎日晴れにしてくれてもいいのになあ。」
僕は雨が特段嫌いではない。好きというほどの理由は見つけられないけど、毎日晴れと言われたら少し感傷的になると思う。中央部もできるだけエリアを地球に近い環境にしておきたいのだろう。あるいは大人の事情というものかもしれない。
教室が半分ほど埋まった頃に深冬がやってきた。茅野が素晴らしい反応速度で深冬のところへ飛んでいった。そして背骨が心配になるほどの万力ハグをした。どこまでもエネルギーが余っているらしい。昨日書いた手紙は、あらかじめ彼女の机の中に入れておいた。特に告白というわけではないが、状況からして少し緊張した。幸いにして彼女は手紙を見て首を傾げ、さっと読んでから納得したような顔になった。あまりにもはっきりと顔に「納得」と書いてあるので、僕は却って心配になった。どうやらこの世界の深冬は本当に裏表のない、明るさの塊のような人間のようだ。
その日も授業はあっさり終わった。夕方には雨はやんでいて、茅野とユウは教室からすぐに消えた。なんとなく深冬の方を見ると目があった。彼女がにっこり笑う。風に揺れる白いカーテンのような明るい笑顔だ。どうやら手紙が気に入ったらしい。僕も出来るだけ笑顔を作ったが、うまく笑えた自信がなかった。
「手紙ありがとう、今日も図書室にいる?」
「どういたしまして。そのつもりだよ。」
「わかった、じゃあまた後で!」
僕は教室を後にした。彼女の声が耳に残っていた。もう聞くこともないと思っていた声が、二度と聞けないはずの『また後で』が、ひたすらに僕の心をかき乱していた。僕は、今日も努めて平静でいられただろうか。昔の深冬の記憶が、今の深冬に変換されていく感覚が、僕には腹立たしかった。
でももっと腹立たしかったのは、たとえ別人のような深冬であっても、記憶が蝕まれても、彼女とずっといたいと思ってしまう自分の弱さだった。