五章
深冬の言葉に僕がなんて返事をしたのか、僕は覚えていなかった。あるいは返事の前に眠ってしまったのかもしれない。とにかく、僕が気づいた時にはすでに深冬は眠っていた。外はまだ暗く、夜が明ける気配はない。ベッド脇の時計は三時半を指していた。エアコンの駆動音と、深冬の寝息以外に音はない。まるでここが世界の底のようだ。この狭いワンルームの外からは何の音も聞こえてこない。箱の中の猫のように、もしかしたらこの部屋の外には何もないのかもしれない。もしそうだったら、と思う。もしそうならどれほど素敵なことだろうか。
僕は小さくため息をついた。僕自身も不安がないわけではない。今頃深冬の両親は大騒ぎだろうし、もしかしたら僕の両親にも何らかの形で連絡が入っているかもしれない。互いの両親は僕ら子どもが毎週のように会っていることを知らないはずだが、大人は不思議と、色々なことを知っている。そう考えると、大人という存在がすでにどれほど僕らに迫ってきているのか、漠然とした不安があった。
「大丈夫?」
深冬の声だ。僕は驚いて振り返った。首だけ深冬の方に向けると、彼女も同じように背中を合わせたまま、顔だけをこちらに向けていた。とても近い。彼女のまつげ一本一本がはっきりと数えられそうな距離で僕らは向き合っていた。暗闇の中で、深冬の瞳はいくつもの光を内包しているように瞬いている。
僕は全く視線を逸らせないままに言う。
「大丈夫だよ。起こしてしまったかな。ごめん。」
「ううん。実はずっと起きてた。うとうとしてる時間はあったと思うんだけど、はっきり眠れなかった。」
「そっか。」
ホテルのチェックインの時にも彼女はビクビクしていた。正直僕も少し緊張していたが、ロビーの受付が外国人だったせいか、年齢は一切気にしていないようだった。
僕は不思議に思う。感情は感染する。誰かが泣けば涙が移ることがある。誰かがイライラしていればその空気が伝染することがある。しかし感情移入というものは、万人に通ずるものではない。僕は不思議だった。例えば卒業式。周囲の同級生が泣けば泣くほど、僕は涙が引いていくのを感じた。修学旅行の出し物を決める話し合いで揉めれば揉めるほど、僕は熱を入れた話し合いに関わりにくくなった。今回もそうだ。僕は緊張していた。深冬はもっと緊張していた。そして、緊張している彼女を見て、僕の緊張が霧消するのを自覚した。
僕は、感情移入という言葉を知っていて、その意味を知らない。
だからこそ、僕は共感ではない言葉を使う。
「そんなに不安に思うことはないよ。君一人じゃない。僕も共犯だから。」
返事はなかった。ただ目を合わせたまま、深冬はほんの少しだけ泣いた。
僕は一度ここで話を切った。司書の北村さんが僕らのところに来て閉館を告げた。外はすっかり暗くなっている。僕は深冬と廊下を並んで歩きながら尋ねた。
「今日はこのくらいでいいかな。それともどこかの喫茶店で続きを話す?」
「ううん。大丈夫。こんな時間まで本当にありがと!」
「どういたしまして。」
僕らは玄関で別れた。家に向かう道でふと立ち止まる。空を見上げると、街の灯りが煌々と輝いている。まるで星のように。しかし、それらの灯りひとつひとつに物語があることを僕らは知っている。僕は、日本の形がくっきりと浮かんでいる箇所を見つめながら、ここにいない深冬のことを思った。
「ねえー!」
堤防の道をふらふらと歩いていると、後ろから走ってくる茅野夏希に会った。陸上部の自主練の途中らしい。薄手の鮮やかな赤いパーカーがよく似合っていた。恐らく運動強度を上げるために両足にそれぞれウエイトのようなものが結びつけてある。確かにこれなら、重力のことをあまり考えなくて済みそうだ。
「こんばんは。寒くないの?」
「ぜんっぜん平気。むしろ暑いくらいだよ!」
どうやら野暮な質問だったらしく、茅野は僕の横に並んで歩きながら服をパタパタさせている。何となく僕は目をそらした。
「珍しくずいぶん遅いようだけど、マサチカは今帰りなの?」
「そうだよ。図書室に新しい本が届いたのと、市原さんに昔のことを話してた。」
「え、いいなぁ!」
「茅野も市原さんを陸上部の見学に連れていたと思うけど。」
茅野はちょっと困ったようにあっはっはと笑う。
「いやー、実は連れていったんだけどね。なんだか違うみたいだった。運動得意そうだったから、一緒に部活したかったんだけど。残念だなあ。」
「それは確かに残念だね。」
エリアは重力が地球の半分だ。つまり長く暮らしている人間ほど筋肉量が落ちている傾向がある。もちろん茅野のように積極的に運動している人間もいる。しかし、今回のような転入生は地球の時のままの筋肉量を保持している。一時的とはいえ、来たばかりの方が運動ができるという人も少なくなかった。茅野は記録を伸ばし続けていると聞くが、一体どれほどの努力をしているのだろう。
「まあどれだけ運動しても、記録がどんどん悪くなってやめちゃう人もいるからさ。あまり無理強いはできないよね。」
「それは、そうかもしれない。」
「うんうん。私さ、深冬ともっと仲良くなりたから、今度色々聞かせてね!」
僕が返事する前に彼女は駆け出した。文字通り、重さを感じさせない軽やかな走りだ。
僕は堤防から見える小川を眺めた。地球から届く灯りが少しだけ反射している。茅野は大人だなと思う。多少強引にでも深冬を陸上部に連れていったのは彼女なりの気遣いなのだろう。記憶もなく、知らない土地で、ずっと年上の同級生に囲まれて、深冬は不安に違いなかった。僕は何もできなかったし、しようという意思すら欠落していた。茅野がどうしてエリアに来たのか、僕にはわからない。しかし、無意識のように人を気遣える茅野に、僕は少し憧れているのかもしれない。
僕は帰宅すると、机の引き出しに仕舞っていた白紙の便箋を取り出した。夕食を摂る気にはならなかった。それにいざとなれば作り置きが残っている。
便箋の書き出しにたっぷり十五分迷ってから、僕は深冬への手紙を書き始めた。