四章
僕はペットボトルの水を飲み干す。一気に話したせいで喉がとても乾いていた。手元の本は新品のようだ。北村さんが取り寄せてくれた紺色の本。『夏の願いは雪解けの小川』。この本の冒頭には、こう書いてある。
絶望は積もる。降り積もる。溶けない雪のように、積もって積もって苦しめる。
僕はこの本が好きだった。高校生のひと組の恋人の話だ。春に出会い、秋に別れた二人の夏が精彩に描かれている。まるで作者の経験そのもののようだ。なにより、ミステリをオーダーしたのにまるで無視した五条さんが渡してきたもの、というのが付加価値だった。僕は表紙を少し撫でて、深冬を見据えた。僕の手元の本を見る表情は、どこかの過去を見ているようだ。
「その、その時の深冬という女性は勇気があるね。私だったら中学生でそんな家出なんてできないと思う。」
僕は少し笑った。できるだけ卑屈にならないように、注意深く笑顔を作った。
「でも実際に仙台にたどり着いた。僕らは夏が終わるまでそこにいた。」
「もう少し聞かせて。」
「もちろん。深冬さんに聞いてもらえるなら僕も喜んで話そう。」
古書店に併設されたカフェには大学生らしき男性が店員をしていた。僕ら以外に客はいなかったので、扉を開けると本を読んでいる彼が視界に入った。彼は慌てる様子もなく僕らをテーブルに案内すると、にっこりと微笑んでカウンターに戻っていった。ほんの僅かに柑橘系のような香水の香りがした。深冬は少し彼のことを目で追ってから言った。
「なんだか、あの男性ってさっきの五条さんと似ている気がする。」
「そうかな。ずいぶん若いようだけど。」
「年齢の話というより、なんだろう。折り目が同じような感じがする。」
「折り目? 雰囲気とか波長みたいなもの?」
「うん。そんな感じ。でも波長というには少し厳しいというか、ううん、うまく言葉にできない。」
その後も深冬は何とか説明しようと試みたが、納得いく言葉は見つからなかったようだ。深冬はきっと感受性が強いのだろう。僕にはそれが羨ましかった。同じ物語を読んでも、きっと僕らには感じ方に大きな溝がある。物語の一人として話にひどく感情移入できる深冬が、僕にはとてもまぶしく映っていた。
その日の夜は吉野家で済ませた。カウンターに腰掛け、全国どこでも変わらない味に少し安心する。店員が通るスペースがある独特な向き合わせのカウンターも、少し暖色よりの明かりも。そんな中、深冬は家を離れた罪悪感を覚え始めているようだった。今まで家をほとんど出たことがない彼女にとっては、こんな非日常は初めてに違いない。日中の高揚感が少し収まってしまえば、残るのは現実に対する不安だ。気持ちはわからなくはなかった。ただ僕には共感が欠けていた。深冬は難しい表情を浮かべて空っぽのお椀を見つめながら言った。
「帰りたくないのに不安なのはなんだろう。帰巣本能なのかな。それとも、子供にしかない感情なのかな。」
「帰りたくないならそうしていればいい。可能なだけ。僕は君が帰りたいと言い出すまで、可能な限りずっとそばにいる。」
それは、中学生にとって告白でしかない言葉だった。僕はそのつもりはなかった。彼女のことは好きだ。僕なりに愛していると思う。でも本の世界のような愛ではないだろう。僕は深冬に告白するつもりはなかった。そして、深冬も彼女なりにそれを理解していた。
「うん。じゃあ、帰ろう。」
その日、僕らは背中を合わせるようにして横になった。硬いシングルベッドは二人には狭かった。ベッドに潜り込むまで、僕はひどく緊張したが、深冬は落ち着いているようだった。周期的に上下する肩が少しだけ伝わってきた。やがてそっと深冬は息をはいた。冬のパリッとした朝に両手を温めるような、そんな優しい息だった。そしてはき出した空気を取り戻すように一つ、大きく息を吸い込んだ。何か言葉を紡ごうとしている人の呼吸だな、と僕は思った。そして、夢から引き上げるには十分に不十分な優しい音で彼女は訊いた。
「起きてる?」
「もちろん。全然眠いと思わないんだ。深冬は眠れないの?」
「うん。夜は一人の時間だから。石上くんがいてくれて、安心でいっぱいになって、なんだか寝るのがもったいない。」
「それはよかった。僕も何だか眠れないんだ。君と同じかもしれない。」
もちろんそれは嘘だった。でも今の僕には、彼女を不安にさせないことが最優先事項だった。本当は同い年の女の子が横にいることに激しく緊張していた。胸のあたりでよくわからない大きなものがぐるぐると回っているような感じだった。きっとそれは愛しさでも性欲でもあったし、中学生の僕には到底言語化できないものだった。僕は吹き荒れる風に耐える枝葉のように、正体不明のそれらをじっとやり過ごしていた。
深冬はそれから少し静かだった。僕から何か言い出すべきかとも考えたがやめた。こうして背中を合わせている時間が大事なこともある。言葉は、何も空気の振動だけではないのだ。沈黙は詩的なのに、雄弁はスナック菓子のようだ。万人に受け入れられて、代償に重みがない存在。
きっと二十分くらいが経った頃、何かを決めたように深冬が言った。
「ねえ、マサって呼んでいいかな。それともマサチカかな。」
僕ははじめ、言われたことの意味をよく理解できなかった。
僕は彼女を当たり前に『深冬』と呼んでいた。中学生にしてはちょっと背伸びして、名前で呼んでいた。
しかし。
僕は、自分自身が『石上くん』と呼ばれていたことに、全く気づいていなかった。