三章
僕が知っている深冬は、中一の終わりからおよそ一年間ほどの彼女だ。当時の僕らは週末、近くのファミレスで会っては勉強をして、自分自身の話をした。
中学二年生の夏休み、僕らは初めて街を出た。端的には家出だった。深冬はとてもおとなしい少女だったが、それは両親が厳しかった影響もあるようだ。家出の原因は、両親との大喧嘩だった。
当時、深冬はほとんどの夏休みを習い事に費やしていて、僕よりもはるかに精神的に休まる時間がなかった。彼女と同じように、平日はピアノや水泳をやっていた僕だったが、深冬の習い事は大会を目指すなどかなり本格的なものだった。少なくとも週に三日はヴァイオリン、残りの二日は茶道や華道、書道に取り組む、いわばお嬢様だった。
深冬はヴァイオリンの大会が近く、夏休みで平日も一日練習があった。しかし、さらに週末も一日練習に費やすようにと指導者に言われたそうだ。深冬はこれに、ほとんど初めてと言ってもいいノーを返し、おととい、両親とかなり激しい言い合いをした。結果的に大会に出場することと、土日の練習は両親に強制的に決定され、深冬は黙らされた。
電車に乗ってからも、深冬は沈んだ表情を変えなかった。
「ごめん。石上くんを巻き込みたくはなかった。でも、やっぱり付いてきてくれて、どうしようもなく安心してる。巻き込みたくはなかったけど、付いてきてほしかったのも本当。だから、ありがとう。」
「気にしなくていいよ。水泳は休んでも親にはバレないし、ピアノも講師に勝手に連絡しちゃったから。親も仕事バカだからしばらく帰ってこないって、昨日言われた。」
深冬から家出のことを聞いた時、僕は付いていくことをまるで当たり前のように決定していた。家出の決行を一日空けたのは準備時間だった。僕の両親を騙すための一日でもあった。僕はピアノ教室と水泳のコーチに連絡を入れ、深冬は旅行用のカバンや小物を買い揃えた。子供にしてはあまりにも背伸びし過ぎた行動に、僕らは心が躍っていた。
買い物を終えた僕らはいつものファミレスに集まり、どこに向かうか話し合った。東京ですら大冒険の僕らにとって、それよりも遠い場所は未知以外の何物でもなかった。僕らは事前に、子供だけでは利用できない施設、乗り物について調べておいた。大抵の宿は保護者の同意書類が必要になる。夜行バスや航空機もその対象だ。新幹線や在来線で行ける範囲で、最悪の場合野宿できる気候であることも考慮した。ある程度人がいて、昼間うろついていても人混みに紛れこめるような地方都市である必要もある。そういった要素を考えるのは新鮮でとても楽しかったし、深冬と二人でどこかに行けるということが嬉しかった。
最終的に、僕らは仙台に向かうことにした。
当日、深冬はヴァイオリンケースを背負ったまま駅に来た。両親にはレッスンに行くと嘘をついたらしい。深冬は駅のコインロッカーを開けて旅の荷物を取り出すと、代わりにヴァイオリンケースを突っ込んだ。鍵を駅のゴミ箱に投げ捨てると、深冬は滅多に見せないような満面の笑顔を浮かべた。ちゃんと缶のゴミ箱に入れた辺りが彼女らしい。
東京駅に着くと、僕らは駅弁を買って新幹線に乗った。僕らには一つ一つが非日常の連続だ。改札を通る時、チケットを二枚入れることも、席の場所を考えずに並んでいたせいで、自由席の車両まで走ったことも、とても新鮮で楽しかった。
仙台までは一時間半ほどの移動で、距離はおよそ三百五十キロもある。一人一万円以上する交通費は正直財布に堪えたが、それでも僕らは初めて見る景色を満喫した。
大宮駅を過ぎた頃、深冬が少し心配そうに聞いてきた。
「決して安いとは言えないけど、お金って、平気?」
「僕は大丈夫だよ。少しずつ貯金していた分もあるし、実は親のへそくり貯金箱からこっそり拝借してきた。深冬は?」
「そんなことしたの! それは申し訳ないことしちゃったかな。私は元々お小遣いが多かったし、洋服を買うはずだったお金を事前にもらっていたから、けっこうゆとりがあるよ。」
そういって深冬は薄紅色の長財布を見せてきた。一万円札が結構な枚数入っているようだ。二人分を合わせると、三十万以上になるかもしれない。深冬は大人しい分、自分のことに関してはとてもしっかりとやっている。
熊谷駅を通過すると、周囲には山が見えてくる。夏の山はすごく眩しく見える。太陽をその巨体で一心に浴びている。青々とした木々の葉も、夏の陽炎に揺れる地面との境界線も、夏は生物が最も燃えるように生きている時期だと思う。
列車は景色を恐ろしいほどの早さで流していく。そして僕らは涼しい土地へ運ばれていく。駅弁を食べ終えた僕らは、宿泊先の近くにある施設を調べた。予定しているビジネスホテルの近くには、小さな古書店と、そこに併設されているカフェ。それから食事で立ち寄りそうなファストフードやコンビニが点在している。ホテルには食事が付いていないので、こういった店を利用することになりそうだ。
仙台駅に到着すると、僕らは荷物を預けにホテルへ向かった。東北とはいっても暑さはそこそこにある。新幹線を降りると夏の香りがした。山が近いからか、僕らの街とは全然違う香りだった。駅の近くのアーケードをくぐり、国道沿いのビジネスホテルに入る。『スカラフィズ』と名付けられたホテルは、比較的新しい、ごく一般的な建物だった。僕らはひとまず三日分の金額を払い、部屋に荷物を置いた。最小限の価格で済ませるため、シングルのワンルームに二人だ。正直狭いし、荷物の置き場にも困るが、こればかりはどうにもならなかった。
夕食までにはまだ時間があったので、僕らは周辺の散策に繰り出した。外は暑く、しかし関東のそれよりもずっとマシな気がした。不思議と僕らの足取りは軽くなる。駅とは反対方向にどんどん進むと、やがて住宅街が現れた。住宅街を走る道はあちこちに一方通行の看板が立っていて、車で目的地に向かうのは大変そうに見えた。そしてそんな家ばかりの一角に、僕らが下調べしていた古書店はあった。
「ここだね。とてもきれい。」
深冬は静かにそう言った。古民家を残しつつ、大幅にリフォームしたような雰囲気の建物だ。併設されたカフェの方は漆喰が強く残る古民家調だが、古書店の方はヒノキ色の木材をシンプルにあしらった現代的な建物だった。
僕らは古書店の扉を開けた。中から少し古びた本の香りと、真新しい木の香りが一気に押し寄せる。
「こんにちは。」
所狭しと並べられた本棚の奥、おそらくレジの机の奥から挨拶された。女性の声だ。年齢がつかめない声をしていた。声のした方に向かうと、積み上げられた本の中に埋まるように座り込んでいる女性と目があった。三十に届かないくらいの、国語教師のような真面目な雰囲気の人だ。猫のように少しつり上がった目と対照的な丸いメガネが印象的だった。綺麗に揃えられた指は、古いハードカバーの表紙に載せられている。右の中指に緑がかったメタリックのリングがはめられていた。どうやらスズランをかたどったデザインリングらしい。
「こんにちは。ミステリを探しているのですが、オススメはありますか。」
僕は話題に困ってとっさにそう言った。
「こんな晴れた日に古本屋に来て、よりによってミステリだなんて、とても変わった中学生だ。」
女性は困ったというよりは、純粋に呆れたような表情で僕を見た。一人本に囲まれているこの女性も人のことは言えまい。
「ここは紀伊国屋じゃないし、古い本ばかりが並んでる。どうしてこんなものがってのに限って意味わからない高額な値段がつくこともある。安くてそこそこ綺麗なものをこんな店で探すのは、少々難儀だと思うよ。よいしょ。」
そう言って女性は自分の周りにある高層ビルのような本のタワーを漁り始めた。一応探してくれているらしい。深冬はふらふらと本を眺めてどこかの本棚の陰に隠れてしまったらしく、今の僕の位置からでは見えない。
「君、この辺の子供じゃないでしょ。」
振り向くと、女性は一冊の本を僕の方に差し出していた。表紙には『夏の願いはもう鳴らない』と書かれている。保存状態がいいのか、新品と言われても分からない気がした。
「分かるんだよ、何となく。君の態度には不自由というものが不足している。別に自由と言ってるわけじゃない。便利は時に不自由を奪うだけだ。そして俗にそれは垢抜けてるとか都会っ子とか呼ばれてる。君はそんな感じだ。仙台は地方都市だけど、君を隠すには不自由すぎるよ。」
「たしかに、僕は仙台の出身じゃありませんよ。」
そして僕にとっては、必要最低限しか喋らないことが重要だった。
「でも親戚のところに帰省してます、って感じじゃないね。家出してきたって言われた方がしっくりくる。なんというか、君たちは不自然に非日常という雰囲気を垂れ流している。目立つよ。」
困ったな、と思った。ここで家出と大人にバレるのは厄介だった。大人は社会という生き物の窓口だ。子供にとって社会なんていうのは敵のことの方がずっと多い。
表情が硬くなっているのがわかったのか、女性はため息をついた。
「まあ、私は君たちが決断したことそのものを評価したいと思う。その本は君にあげよう。もし困ったことがあったら、またここに来なさい。放置はしないからさ。」
そう言って、女性は店の名前が書かれた名刺をくれた。右下には電話番号と一緒に『五条瞳』と書かれている。おそらくこの女性の名前だろう。
「ありがとうございます。隣のカフェを利用しても構いませんか。」
「あそこは私が建物を貸しているだけだ。別に許可はいらないよ。」