二章
放課後になると、茅野と春田は我先にと部活に直行した。重力の影響で陸上や球技の多くは通常ルールの運用ができなくなっている。サッカー部の春田はどうやって試合をしているのだろう。試合を見たことがない僕には、不思議なことの一つだ。深冬は部活の見学に行くのか、茅野と話しながら教室を出て行った。
僕は特に予定もないので、なんとなく図書室に行くことにした。放課後に利用している学生は少ないが、司書の中年女性は北村さんといい、非常に博識で、聞けば大体の本を取り寄せてくれる。僕はいつも座っている奥の席に荷物を置くと、司書席近くの本棚へ向かった。
「こんにちは、石上くん。この前聞かれた本はそこの棚の二弾目にあるよ。」
北村さんは本から顔を上げずにそう言った。僕らが授業の間、彼女をはじめとした大人たちは何をしているのか謎である。
「ありがとうございます。」
僕は目当ての本を見つけると、座席に戻って早速開いた。このエリアでは文化的なものはストップしている。つまり、連載されているはずの漫画であったり、テレビ番組だったり、そういうものはここでは新しく入手することはできない。ただ、本人が最後に地球にいた時にすでに存在していたものに関しては、中央部に申請することで購入することができる。つまり、エリアに新たな住人が増えることで、より最新の書籍や映像などが手に入る可能性が出てくる。そして、図書館は個々人の申請がなくとも、住人の中で最も後の時代から来た人の文化を取り揃える事になっている。ここは誰もいないが、外の公共図書館は今頃大混雑だろう。書籍の続きを楽しみにしていた人々が、『転入生』の到着を機に一斉に向かうのだから。
どのくらい時間が経ったのか、図書室の扉が開く音で本から顔を上げた。外はすっかり日が暮れはじめている。そもそもエリアにはどうして日の出と夕暮れがあるのだろうか。僕は肩を回すと、扉の方へと視線を向けた。こちらを見ている深冬とばっちり目があった。なんと言えばいいのか、夕日に照らされた深冬は少し、昔僕がよく知っていた頃の彼女に似ているように見えた。大人しくて、とても脆い。
しかし、目の前の深冬は気まずそうに歯を見せて笑うと、ためらいなく僕の正面に座った。やはり別人のようだな、と僕は思った。
「この図書室すごいね。私が知らない本ばかり。なんだか私が知ってるずっと先の刊もあるし、やっぱりここって未来なんだなー、って実感するよ。あ、でも、未来というか、私が記憶なくしてるだけなんだよね。不思議な気分。」
「記憶がないって、不安じゃないの?」
「うーん、確かに最初はとても不安だったよ。ここがどこなのかもわからないし、知っている人もいなかったから。でもユウくんや夏希は優しいし、マサチカくんが私のことを知っていると聞いて、すごく安心した。」
「君はとても明るい。僕が知っている君は、少なくとも僕が知る限り、もっと大人しくて消極的だったように思う。今の君は、そういう市原深冬とは違うんだね。」
「人は心が愉快であれば、終日歩いても嫌になることはない。人は常に明るく愉快な心を持って、人生の行路を往かねばならぬ。」
「シェイクスピアは僕も好きだよ。つまり、常にポジティブでありたいってことかな。」
「そうそう。最悪だと言えるうちは最悪じゃないのだよ、マサチカくん。」
「リア王だ。君は中学生の頃からシェイクスピアを読んでいたの?」
僕は高校生になってようやく読みはじめた。
「実はね。中学生のとき少し嫌なことがあって、なんとなく調べ物をしていた時に見つけた一言に救われた。」
「その言葉は?」
深冬は視線を外へ投げる。昔その言葉に出会った瞬間に手を伸ばすかのように、遠くを見やる。
「今日一晩は我慢しなさい。そうすれば、明日の夜を越えるのは楽になる。そしてその次はもっと楽になる。」
夜を越える難しさは時代を超えて共通のようだ。僕はその言葉の意味を考える。
「僕は、小さい頃は何も考えずに眠って、夜をやり過ごしてきた。でもいつからか、一人で夜を越えることが怖くなって、難しいと思うようになった。」
「どうして?」
「それはきっと、夜が大人には毒だからだと思う。夜は太陽が見てくれていないから、誰もが孤独を自覚する。」
深冬は僕の言葉の意味を考えているようだった。夜は毒、毒の夜、という独り言が聞こえてくる。
「それはそうと、わざわざ図書室までどうしたの?」
「私の話、聞きたいと思って。教えてくれるかな、今の私にとっての未来の私が、一体どんな人間だったのか。」
僕は頷く。そして彼女を見据える。あの頃とは違う瞳。他人を恐れない真っ直ぐな視線があった。