十二章
僕らは握手をして別れた。仲直りと、約束の継続を約束する握手だ。とてもシンプルで確実な、完結した握手だった。
帰宅した僕はまず部屋着に着替えた。部屋の隅でぼんやりと赤い光が明滅している。留守電のようだ。基本的に受話器にしか使えないこの電話は、中央部から渡されたものだ。そもそもエリアには表向き電話はなく、郵便配達員が忙しなく働いている。さほど広い土地ではないので、電話も手紙も優先順位が低かったが、手紙を求める声は大きく、中央部は郵便局を早い段階から設置していたようだ。
ただの高校生の僕が、存在しないはずの電話を持っている理由は単に、以前中央部と揉めた際に目をつけられたからだ。押し付けられるように渡されたと言っていい。
僕はそのチラチラと光る留守電のランプをぼんやりと眺めた。ここにいいニュースが舞い込むことはそうそうない。できれば無視してしまいたかった。しかしその赤い光は執拗に僕に関わりを迫った。猶予も選択もない、完全な赤だった。僕は留守電を再生した。聴きたかった訳ではないが、この赤をこれ以上浴びたくなかった。
留守電の相手は中央部の山菱だった。たいへんよく喋る男で、僕は彼にデシベルというあだ名をつけていた。
「こんにちは。中央部の山菱です。久しぶりだね、石上くん。君は恐らく健全な学生なら、ここで居留守を使わずに学校にいる時間帯だろう。君は基本的には真面目で誠実な男だからね。黙々と働くショベルカーのようだ。君のような人間を見ていると私も仕事に精が出る。だから君が電話に出なくてほっとしたよ。留守電というのは時として人を安心させる。不思議なものだと思わないかい? 留守電になったら本来困るのが急ぎの電話というものだ。でも私は割とそうは思わない。君が電話に出なくてほっとしているんだ。これはある種の確定した安心だ。よく学ぶその姿勢、大変結構。君はきっと大物にでもなれるだろう。
さて、前置きが長くなってしまったけど、君に伝言だ。伝言と言っても、差出人の名前は言えない。あくまで君が受け取るのは文字であり、誰かの意図じゃない。だからこれは伝言というより、ある種の連絡事項みたいなものだ。賛成反対じゃない。ただ、それが伝わり、それに従う。それだけのことだよ。
伝言の内容は二つだ。まずひとつ、市原深冬に情報を与えるな。
君は彼女を知っているね? 何しろ君はあちら側で彼女と親しくしていたんだ。知らないとは言えないだろう。
そしてもうひとつ、市原深冬をエリアから出すな。
いつもの通り、理由を答えるつもりはないよ。これは中央部の決定なんだ。君がどう思おうが、君はこの決定に従う以外の選択肢はない。何しろ選択肢がない。これは連絡だ。信頼の証にひとつ余計なことを言うと、君と彼女を同じ学校にした私の温情に感謝してもらったって構わない。簡単な謝礼なら受け取ろう。
とにかく、君が今の生活を守りたいと思っているのなら、余計なことは考えないことだ。昔も今も、君は変わっていない。その事実を忘れるな。」
デシベルの電話はそこで切れた。僕はしばらく受話器を握ったまま突っ立っていた。エリアに深冬が関わっている。それは見過ごせない案件だった。
冷蔵庫の中に幾らかの野菜が残っていたので、僕はそれを適当に盛り合わせ、焼いたパンと一緒に食べた。実際に食べ物が立てる音と、骨振動で伝わってくる音は微妙に異なる。僕にはそれが不思議なことに思える。さて、と僕は意識を切り替える。なぜ中央部が深冬に固執しているのか、それを考えなくてはならない。デシベルの話からするに、おそらく深冬は何かしらのイレギュラー的要素を抱えているのだろう。
イレギュラー的と聞いて真っ先に思いつくこと、それは彼女が、僕の知る市原深冬とまるで別人のような性格を持っているということだ。そもそもエリアで旧知の人間に遭遇することが、すでにイレギュラー的な何かだろう。こんな狭い世界では、普通知り合いに出会うということはまずない。あれだけ顔の広い茅野もユウも、知り合いに出会ったことはないと言っていたし、そのような話を聞いたこともない。つまり僕と深冬の存在のどちらか、あるいはその両方がここにいるということそのものが、やはりイレギュラーなのかもしれない。
僕はだんだん嫌になってきた。というのも、予感があった。仮説という予感だ。イレギュラー。あまり綺麗な響きではない。どちらかといえば敵対的な響きの単語に思える。駅に滑り込む電車が立てる、ブレーキの音のようなノイズが含まれている。しかしそれらのイレギュラーは、僕に一つの仮説を与えた。
恐らく、と思う。恐ろしいことに、という意味での恐らく。
恐らく今の深冬は、偽物だ。