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地球の下  作者: はんなりぼんやり
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十章

 深冬はその日、それ以上の話をせずに帰っていった。涙はなくても、表情にならない涙はある。声にならない声のように、涙がなくても泣くことはある。僕は深冬を傷つけてしまったことに、それなりの苦味を抱えていた。きっと罪悪感ではないのだろう。罪悪感と呼びたくても、僕は自分の罪を知らない。

 見計らったように出てきた北村さんを見やると、彼女は肩をすくめて笑っていた。過剰に気取った、映画のような魅力的な仕草だった。

「パスティーシュ・ブルーとは、これまたいい響きの言葉だね。」

「聞いていたんですか。」

「ここの壁は薄いんだ。」

 そう言って、北村さんは先ほど深冬が座っていた場所に座ると、窓を眺めた。

「フランスは芸術の国だ。芸術家には、大きく分けて二つの種類がある。君はなんだと思う?」

「天才か、秀才か、ですか。」

「だいたい正解。天才は完全な創造だ。あまりに突き詰めた芸術家は、観客すら期待していない。彼らは自分自身を表現するために芸術を利用している。」

「そして秀才は、彼らを模造する。」

「そう。秀才は天才のしようとした意図を汲み取る力がある。故に秀才と呼ばれる。彼らの才能は模倣に成り立つ、そしてフランス語には、模倣という言葉がざっくり言って三つある。」

「その一つが、パスティーシュですか。」

「そうだよ。パロディ、レプリカ、パスティーシュ。これらがその三つだ。」

「芸術に模倣はとても大きな意味があったから、たくさんの言葉があったんですね。」

「そうだね。日本の雨と一緒だ。これはあくまでも私の捉え方だけど、」

 北村さんは手元の本を開いた。長い髪が肩から滑り下りて、夕日の反射が少しだけ変化した。

「秀才が目指す模倣は、パスティーシュの中にしか存在しない。レプリカは全く同じものを目指す。パロディは不純物を混ぜる。パスティーシュだけが、下地から飛び立とうとする意思を含んでいる。それって、とても素敵なことだと思わないかい?」

「確かに僕もそう思います。」

 北村さんはにっこり笑うと、本を閉じて表紙を僕の方に差し出した。『グッバイ・ジュブナイル』というその本は、曇り空のような陰影のある、美しいグレーのハードカバーだ。

 僕はその本を受け取る。まるで小学校の夏休み前に渡された課題図書のようだ。

「さて、今日はもう閉館だよ。ティーンエイジャー君。」

「分かりました。今日はもう帰ります。」

「うむ、また来るといい。グッバイ、ジュブナイル。」


 高校を出ると、部活終わりの春田ユウと目があった。ちょうど帰り道らしく、他の部員達と校門の前でたむろっていた。青春の一部を切り抜いたような、美しいものも泥臭いものもごちゃ混ぜにしたような、清々しい表情だった。

「マサチカ、いま帰りか?」

「そうだよ。そっちは帰らないのか?」

「もう帰るところ。ちょっとこのあと時間くれ。」

 そう言ってユウは部員の塊から抜け出してきた。僕らは並んで歩き出す。彼は会話の始まりを探しているようだった。きっかけよりも言葉を探しているように、しばらく考え込んでいた。

「マサチカって、ここにきてどのくらいだ?」

「そうだな、中二の冬にこっちにきたから、もう三年くらいになる。」

「そうか。三年暮らして、エリアについてどう思った?」

 これまた随分とユウらしくない問いだった。僕はまずは話を聞くことにする。

「どう、というのは、具体的にはどういうことだ?」

「いや、単純にこれは俺が感じたことなんだ。まだここに来て二年だけど、あるいはだからこそ、ここは異常だと思わないか。」

「それは、エリアの存在そのものの話?」

「ああ。ここに来てしばらくは、俺は現実に適応するのに精一杯で、周囲の違和感について深く考えている余裕はなかった。そしてしばらくして部活を始めて、余計なことだと考えないようになっていた。でも、深冬の転入を見て思った。ここはやはりおかしい。」

 それはそうだ。僕らは何も知らない。ここは地球の誰にも知られていない。エリアの大人が日頃何をしているのかを知らない。経済がどのように回っているのかを知らない。

「ここはやっぱり、死後の世界なのだろうか。」

 ユウの結論はもっともらしく聞こえる。そもそも地球が天を一面に覆うほど近いなら、地球から見つかっていない方がおかしいのだ。つまり、

「エリアは現実と同じ質感を持っている。でも実際には現実らしさが希薄だ。だからこそ、不安になるし、不安を見て見ぬ振りをしても生きていける。」

「そう。それが言いたかった。」

 ユウはどこかすっきりとした表情を浮かべた。もやもやが言葉になると、人は少しだけスマートになる。そして時々、その削ぎ落とした方に本質があるから言葉は不完全だ。オレンジが、果実より皮の方に栄養が集中しているようなものかもしれない。

「でも不安であっても、僕らの生活はここにある。生きていく上での不都合は何もないよ。」

「マサチカは気にならないのか。このエリアの真実。」

「もちろん、気になる。でも気になっても、この場所を俺はそれなりに気に入ってる。」

 僕はユウと話すときに一人称が俺になる。

「俺も、直接的な影響がないなら、そのままでもいいと思ってた。でも深冬はそうじゃない。記憶がないなら、それを戻したいと考えるのは周囲の傲慢か?」

 僕はユウの話に強烈な違和感を覚えた。脈絡がちぐはぐだ。エリアの話はあまりに壮大すぎる。大きすぎるを話をして、話の本質をぼやかしているように感じた。

「一体、放課後に何があったんだ?」

 その質問は、どうやらこの話の本質にかなり近いところに着地したようだ。そして、なんとなく予想した通り、ユウは怒っていた。

「お前、深冬のこと泣かせただろ。」

 全くもって、なんとなく予想した通りの理由だった。


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