九章
深冬はしばらく何も言わなかった。北村さんは奥の部屋に引っ込んでしまっていて、ここにはいないようだ。僕の手元をじっと、睨むように見ている深冬の視線に耐えかねて、僕は文庫本を取り出した。僕が本を読み始めても、深冬はじっとしていた。きっと言葉を探しているのだろうと思った。二人の間に、新鮮な沈黙がやってきた。
五分ほど経って、深冬は口を開いた。
「パスティーシュ・ブルー」
「え?」
「ここのこと。空の青と海の青は、同じ青でも仕組みが違う。空はレイリー散乱。海はなんだったか覚えてないけど、とにかく、ここの空の青は地球の海にすり替えられた偽物になってる。」
「確かにそうかもしれない。同じ青でも、違う青だ。」
「そう。だからパスティーシュ・ブルー。模造品の青。パロディでもレプリカでもないパスティーシュ。」
僕は、初めて聞いたパスティーシュという言葉の語感に、不思議な馴染みを感じた。同時に彼女の話題の、あまりの脈絡のなさに混乱していた。
「私、ここに来た時から、ずっとおかしいと思っていた。」
僕は彼女のニュアンスをおおよそ取り違えなかった。
「その違和感というのは、このエリアについてじゃなくて、君個人的な違和感ということ?」
「そう。私は、自分のことをどこか本当だと思えなかった。私自身が、私を一つの模造品だと思っていた。どこかに本物がいて、私は不完全な自我を与えられただけなんじゃないかと感じてた。」
「人は本物と偽物の定義すらできない不完全な生き物だよ。」
「確かにマサチカ君のいう通りだよ。でも、私が言いたいのは、出来る出来ないの話じゃない。ただ、あなたから私の死を聞いて、どこか納得している自分がいるということ。オリジナルの私はすでに死んでいて、私はよくわからない論理だか理論で作られた適当な存在なんだって、妙に腑に落ちているの。」
「あまり楽しい想像じゃないな」
「そうかな。でも、少し悲しい。私はもう、あの星に生きていないんだ。」
僕は動揺していた。中学生の深冬の死を話して、なぜか僕が動揺し、彼女は納得していた。奇妙な構図だった。深冬が地球を「あの星」と呼んだことにも強烈な違和感があった。そこには詰め込めるだけの無気力と精神的な空白が、絶望的に込められているように感じた。
納得した、という悲痛な表情の彼女を、美しと思う僕もきっと、壊れたままの人間の一人だ。