情けないけれど腰が抜けてしまった話
詳しくは覚えていないが、子供の頃に観た心霊特集のテレビ番組だったと思う。
その中で、心霊研究家だったか霊能者だったかが口にした言葉だ。
「血みどろグチャグチャの幽霊というのは、実はそれほど怖くないのです。なぜなら、その幽霊は自分が死んでいる事を自覚しているわけですからね。本当に怖いのはキレイなままの霊、自分が死んでいる事に気が付いていない霊なのです。」
遠い昔の記憶だから正確に再現することは出来ないけれど、要約すると大体そんなセリフだった。
子供のころの私は「確かに!」と大いに納得したものだ。
けれどもリクツとして納得していたとしても、実際にそのシチュエーションに遭遇した時に『血みどろグチャグチャは怖くない』と対応できるかどうかは、また別の話だ。
私は悲鳴すら上げることが出来ずに腰を抜かした。
帰宅ラッシュの電車を降り、最寄り駅前の立ち飲みスタイルの居酒屋で、青海苔と中農ソースをかけたポテトフライをアテに発泡酒を飲んだ後、ちゃんと御不浄を済ませておいたのが功を奏して、失禁だけはせずにすんだ。
無用な説明かとは思うのだが、腰が抜けた経験が無い人のためにちょっとだけその常態を描写すると、脳の命令に身体が連動せず、あっちこっちの関節(と、それを動かしている筋肉と)が、自由気ままに我が世の春を謳歌している感じ。
いや、ダッシュで逃げようぜ! という脳内無意識系裏メニューからの緊急指令が、身体の中で交通渋滞を引き起こし、にっちもさっちも行かなくなった『逆疾風怒濤の夕凪態勢』とでも言った方が分かり易いだろうか。
失敬。――どっちにしても、分かり難いか……。
いや、そんな事はどうでもよい。
私が見たのは、光沢のある淡いグレーの七分丈のパンツスーツからすらりと伸びた、形の良い脹脛と脛である。
脚は有った。
でもちょっとだけ、そう5㎝ほどだけ宙に浮いている。
左足には靴底だけが真紅の黒のパンプスを履いているけど、右足の方は脱げてしまって足袋裸足だ。
ちゃんとベージュのストッキングも穿いている。
あえて好みを言わせてもらえば、ベージュよりもブラウン系の方がコントラストがクッキリして、彼女の引き締まったフクラハギの質感が映えるだろうに。
二本の脚は爪先を揃えるようにダラリと下がり、血塗れのストッキングを穿いた右足の足裏の先からは、赤黒い血が滴っているようにも見える。
脚の上には、引き締まった感じの小ぶりながら立体感のある尻が、パンツスーツの臀部を(こんな状況でなければ)魅力的に形作っている。
馬鹿ですね。男という生き物は。
幽霊見ても、脚やお尻のカタチが気になっちゃうんだから。
ゾンビ映画を見ても「おっ! このゾンビねーちゃん、なかなかの美形。」とか考えちゃうようなもんか。
そのお尻を半分隠すように、同系色の上着が背中を覆っている。
私は服の良し悪しというのが分からないタイプの野暮な人間だが、スリム(スキニーと言うのが正しいのか?)な仕立ての上着は、スレンダーな彼女に非常にフィットしているように思えるから、量販店の吊るしではなく採寸して職人が仕上げた、それなりの値段のする一点物なのだろう。
そんな20代後半か、せいぜい30代前半の幽霊がちょっと困ったような表情で、腰を抜かした私を見下ろしている。
え? 背中やお尻が見えているのに、なんで顔が分かるのかって?
だから言ったじゃないですか。血みどろグチャグチャな幽霊だって。
首がね、180度後ろを向いちゃっているんです。――You see?
しかも頸椎が折れるか外れるかしているみたいで、ちょうど彼女の顔は地面でジタバタしている私の方を見下ろすかたちに、カクンと垂れ下がっているのだ。
『眼下の敵』VS『頭上の敵機』か!
でも彼女は私よりも背が低いようだから、私が地べたに転がらずに直立不動で固まっていたのなら、今みたいに二人で目を見合わせることも無く、私は彼女の血に染まったショートボブの頭頂部を見下ろしていただろう。
どっちの状況がより怖ろしいかは、今の私には判断がつかないわけだが。
幽霊の『目』といえば、創作モノのショックシーンだと、完全白目とか逆に白いところの全く無い黒眼みたいな、相手の感情が読めない不気味演出が為される事が多いけれど、目の前の彼女は切れ長の涼しい瞳で目に表情がある。
だから私は敢えて「困ったような表情」と形容したのだ。
目の部分以外の彼女の顔は、一面の擦り傷のせいで多分整った顔立ちなのだろうという事しか判らないし、彼女の口から聞いたわけでもないから正確なところは想像でしかないのだが、「いっけねぇ! やっちまいましたよ……。」的な、狼狽+てへぺろ感がアリアリと漂っている。
この瞬間、彼女が自分の姿を見せたいターゲットが、私以外の誰かであることを確信したのだ。
文章に起こすと、既に2,000字近くを費やしているのだが、実際には私が腰を抜かしてから数秒間――10秒はかかっていない事は断言できる――の間の、刹那とでも言うべき時間経過の中の出来事である。
だから二人の間に突然の闖入者が無ければ
――ああ、「闖入者」というのは、突然割って入って来る人物の事だから、これは「腹痛が痛い」みたいな間違った構文になってるか。それはともかく――
私と彼女とは微苦笑を交わして、とりあえず全てを『無かった事』にして、その場を平和裏に立ち去る事が出来たのかも知れない。
だけど闖入者なんてネガティブ・イメージな単語を充ててしまったけれども、割って入って来た人物に罪は無い。
むしろ気の良い優しい青年だ、とするのが正しいのだろう。
ボタンダウンのシャツに黒のジーンズのその青年は、私の横にしゃがむと、肩掛けカバンを背中側に回しやりながら「どうかなさいましたか?」と礼儀正しく語り掛けてきた。
私が腰を下ろしている道路は(いや事実としては腰を抜かしてへたり込んでいるのだが、その隠された原因を知らなければ、ただ酔っ払いが座っているとか突然のギックリ腰で動けなくなった人がいるとかにしか見えない可能性もあるのだ)住宅街の中に伸びた一車線しかない生活道路なのだけど、人通りはそこそこある。
人通りがある理由は――本当は理由なんか説明している場合ではないのだけれど――駅前のバス停だとどうしても乗降客が多いから、やって来るバスを待っていても、ほぼ確実に座れないという理由による。
けれど私が引っくり返っている道を通れば、駅に向かう路線バスに先回り出来る。
一つ前の停留所でバスに乗れば、駅前停留所で空いた席に座れる(ことが多い)のは自明の理。
それで、長時間バスに乗らないといけない自宅が駅から遠い組は、ここを歩くわけだ。
今までこの界隈では、事件や事故で女性が非業の最期を遂げたというニュースは観た事も無いし、ましてや幽霊が出るなんて噂は聞いた事も無い。チーマーとかクスリの売人も出現しない至極穏やかな土地柄なのである。
だからこそ臆病者の私でも、多少アルコールが入っていようと夜が遅くなっていようと、平気でフラフラ歩く事に何の危険も感じていなかったのだ。
ボタンダウンの青年も、おそらく私と同じで無警戒だったのだろう。
わたわたしている私の横にしゃがむと、私の視線の先を追って、私と同様に引っくり返った。
「木乃伊取りが木乃伊になる」という慣用句がある。
けれどもボタンダウンの青年が私とは違っていたのは、ちゃんと悲鳴を上げる事が出来たという部分だ。
多分、彼も私と同じモノを見たのだとは思うのだけれど、反応は彼の方がよりアグレッシブだった。
彼は悲鳴を上げると腹這いになり、畳の上の水練か、あるいは熟練兵の匍匐前進かと見まがうばかりの運動量で、道路の端まで移動する事に成功した。
彼の反応が過激だったせいか、幽霊女史は私よりも青年のことが心配になったようだ。彼が過呼吸にでも陥ったら気の毒だ、とでも思ったに違いない。
彼女はスイマセンネとでもいうように、私に向けてウインクすると、私の上を滑って青年の方へと近づいて行った。
私は一瞬、彼女に踏んづけられるのかと危惧したが、彼女は私の上を越える際にヒョイと膝を曲げたから、実際には血塗れの爪先が私の鼻先をかすめただけに止まった。
私の顔には、至近距離で通過した爪先からの血液は滴り掛かってこなかったし、風圧のようなものも感じなかった。血液の臭いを形容する時によく使われる『鉄錆臭』も私には感知出来なかった。
一瞬だけ芳香族炭化水素系のフローラルな香りを嗅いだような気がしたが、これは私の気のせいなだけかも知れない。
一般的に男性というイキモノは、好意を抱いた女性の発する臭気は『よひ匂い』と解釈する幸せ回路が組み込まれている。
だからこの時、既に私は幽霊女史を怖れながらも、ほのかな好意とある種の諧謔味とを持って、事態の推移を観察する余裕が出来ていた、と解釈することも出来る。
あくまでも解釈、それも自己弁護的な解釈に過ぎないわけだが。
けれども余裕が生じた事によって、私は『私と彼女と青年と』以外の周囲の出来事を、急速に認知するのが可能になった。
周囲の出来事と言うのは、生活道路上での極小規模なパニックである。
例えば、脱兎の勢いで駅方向に走り去って行く、私と同年代の日頃は健康に気を遣ってなさそうな中年男性。
いきなりあんなに駆けだしたら、脚の筋を痛めてもおかしくないだろうに……。
素直に腰を抜かした私の方が、後遺症は小さいに違いない。
他にも金切り声を上げる若い女性と、何が起こっているのか分からずに、女性をなだめようとしている若い男性。
彼らはデート帰りか、もしかしたら「お持ち帰り」の途中なのかも知れない。
二人にとって、この出来事が吉と出るか凶と出るかは知らないが、忘れられない夜になった事だけは間違い無いと断言できる。
あるいはカバンを落っことして、中身を道路にぶちまけてしまった、学習塾帰りらしい制服女子高生。
彼女の受験に、悪影響が出なければ良いが。
私は自由を取り戻した手足を使って上体を起こすと、特になんということも無く立ち上がる事ができた。
呪縛が解けたというのは、こういう状態のことを指すのだろう。
青年の方を振り返ったが、街灯に照らされた彼が倒れているばかりで、幽霊女史は既に姿を消していた。
私は、二の腕で顔を覆っている青年の肩を叩くと「もう大丈夫なようですよ。」と声を掛けた。
彼はハッとしたように周囲を見回すと「ほんとだ。いない。」と安堵の声を漏らした。
次に私は女子高生に「大丈夫ですか?」と声をかけた。
なんだか馬鹿の一つ覚えな発言ではあるが、他に何とも言いようが思い付かなかったからだ。
彼女は慌ててスカートの裾を直すと「ああ。ありがとうごさいます。」と地面に散らばったルーズリーフを拾い集め始めた。
カップルの男女は、男性の方は何も見なかったみたいだし、女性の方も今は悲鳴を止めて辺りを見回しているくらいだから、特に干渉する必要は無さそうだ。
私は拾ったルーズリーフを女子高生に渡すと
「何をご覧になりました?」と訊ねてみた。
彼女は頭を下げて紙片を受け取ると「いえ、何も。皆さんが大声を出しておられたので、ただビックリして。」と怯えた顔で答えてきた。
――ほう。彼女は『何も』目撃してはいなかったのか。
私同様立ち上がる事に成功したボタンダウンの青年が
「本当ですか? 見なかったの?」
と甲高い声で彼女に詰め寄る。彼はまだショックから立ち直れていないのだろう。無理も無いといえば、その通り。
「ねぇ、アナタはアレを見たんですよね!」
青年は今度は私に詰問してくる。
――さあ、なんと答えたものか……。
私が見た幽霊女史のことを、ここで具体的に説明すると、何も見ずに済んだ女子高生に怖い思いをさせて、彼女の今後に良くない影響が出るかも知れない。
それに彼女――血みどろ幽霊の方のことだ――は、大騒ぎになるのを望んでいなかったようでもある。
この時、先ほど悲鳴を上げていたカップルの女性の方が
「あれ、絶対に幽霊でしょ!」
と私たちの会話に参加してきた。
「白い湯気のような物がフワフワ飛んで、スッと消えたのは。」
私はそれに乗っかる事に決めた。
「驚きましたよね。何なんだか、よく分からないモノだったけれど。地面に水たまりでもあれば、間違い無く空気レンズのイタズラかと考えられるのですが。」
「空気レンズ?」
事の成り行きに戸惑っている女子高生が、不思議そうな声を出す。
「水たまりが有りますとね、水が昼の間に温められているので上昇気流が発生します。上昇気流の中の空気と周りの空気との間に屈折率の差が出るので、遠くの明かりが歪んで見えるんですよ。有名なトコロだと八代湾の不知火みたいな現象ですね。狐火と呼ばれる現象も、これが原因なのではないかと推察されているみたいですよ。水たまりが無くても、夏の暑い日なんかにはアスファルトが焼けて『逃げ水』現象が起きたりしますけどね。この道には街灯が立っているから、そのどれかの明かりが歪んでみえたんじゃないでしょうか。」
私がジェントルに場を収拾しようとしているというのに、青年はいきり立って「正常化バイアスだ!」と、聞く耳を持たない。「僕は間違い無く目撃しましたよ! あれは女だった。蜃気楼なんかじゃない!」
――「女だった。」か。彼も私と同じモノを見たのは、間違い無さそうだ。
けれど私が口にしたのは「私のせい、かも知れません。」というセリフだった。
「あなたのせい?」案の定、青年が呆けたような声を出す。
「ええ。マスヒステリア。集団ヒステリーとかヒステリー感染なんて呼ばれる現象です。」
正常化バイアスなどという単語を使う理屈っぽそうな青年だから、当然マスヒステリアの事も知識として持っているだろう。
「まず私が、空気レンズを通した光を見て、驚いて腰を抜かした。あなたはそんな私を見て、助けに来てくれたわけだけど――助けに来てくれたことは本当に感謝していますよ――私が倒れた理由に何らかの恐怖感を感じていた。……私の視線の先に、何か恐ろしいモノが居るのではないか、と疑問に思いながら。」
青年は「いえ僕はビックリしただけで……。」と言ったが、ほんの少しのインタバルを挿んで
「ええ……。でも瞬間的に、何を見たんだろう、何があるんだろう、と考えなかったわけではありません……。」
と自信無さげに続けた。「あの時すでに、自己催眠に? ……でも……。」
「そう結論付けるのは早計かもしれませんけど、私もそちらの女性も、見たのは白い靄のような『現象』だけに過ぎませんし。……それに、こちらの学生さんと男性の方は、そもそも何も見ていないとおっしゃってますから。」
このままの状態が続けば青年はマスヒステリア説に納得しなかったのかも知れないが、道路脇の住民がドアから顔を出して「何か起きたんですか?」と質してきたから、検討会は中断を余儀なくされた。
質問してきた初老の御夫婦には、カップルの男性の方が
「すいません、お騒がせして。今、変わった蜃気楼現象が起きたんで、通りかかった者がビックリしただけです。この辺り、よく起きるんですかぁ?」
と逆に質問を返した。
初老の男性は「いや、聞いた事ないねぇ。」とホッとした様子で奥さん共々家の中に引っ込み、その場の空気は蜃気楼説で大方落ち着いた。
私たちは何となく一塊になって、言葉少なにバス停まで急ぎ、間髪入れずに停留所へやってきたバスに乗った。
バスは何時もの通り満員で、駅で乗降客が入れ替わった後は、皆バラバラに座っていた。
あの時騒ぎに巻き込まれた面々には、今でも時折通勤途中に顔を合わすことは有るけれど、黙礼をするくらいで口をきいたことは無い。
幽霊目撃談としては、オチの無い尻切れトンボの話だが、私が体験したのはこれでお終いだ。
交番で調書を取られ、訳知り顔の年配巡査から「また出ましたか。」などと耳打ちされる事も無かったし、あの生活道路でその後に殺人事件が起きて若いOLが犠牲になったなどという事も無かった。
ホラーとしての完成度を上げるのならば、カップルの女性かカバンを落とした女子高生が、後で考えると幽霊女史に似ていたような気がする、というような感想を付けるとか、私の家に幽霊女史が現れるようになったとか考えられもするけれど、どれも創作臭くて生の体験の興を削ぐような気しかしない。
私は幽霊を見て腰を抜かしたけれど、別にその後、特別な事は何も無かった。
ただそれだけの話だ。
だから『血みどろグチャグチャ幽霊は怖くない』説は、今も支持している。