お屋敷の精霊様
とある古いお屋敷がありました。
お屋敷は何十年、何百年と長い年月をかけて建ち続けていました。
そのお屋敷には一つの伝説があります。このお屋敷には精霊様が住んでいると言われていたのです。
「ふざけるな!」
お屋敷内で一人の男が怒りを吐き出します。男はこのお屋敷の主であり、長年代々、お屋敷を受け継いできた者でした。
「あの、貴族共。この屋敷を軍事施設にするから売ってくれ、だと。冗談も大概にしろ!」
男の怒りは止まることを知りません。その原因はある貴族から交渉を持ち掛けられたことでした。
屋敷を譲ってくれるのであれば、大金を用意し、今の地位から脱却できるよう力を貸してくれるという内容でした。
男の歴代の先祖は格式のある有名な貴族で、隣町だけでなく国全体にその凄さが伝わっていたこともありました。
けれどそれも今となっては過去の栄光であり、男の評判は貴族の中でも下の下でした。昔こそ多くの侍女がお屋敷に務めていましたが、現在は片手の指に数えるほどしかいません。
「しかも何だあの態度は! 全くもって話にならん。極めつけは地位をあげてやるだと? 元々、地位なんぞは只の飾りに過ぎない。私はただ、ご先祖様が築きあげてきた誇りのため、この国にいる民のため、魂を捧げてやってきたのにこの有様とは」
男は歯を噛みしめ、まだ苛立ちが隠せません。
男の傍にいる侍女は男の姿に戸惑うばかりでした。ただ黙々と家事を行い、関わらないように距離をおいていきます。
「あの成り上がりの金の亡者共め。話し合いをすればやれお金だ、資金だと、言いたい放題言いおって! しかも軍事施設で女や子供を働かせるなんて馬鹿げているにも程がある。子供は色んな体験をさせてのびのびと育てていくものだ。女は誰かを愛して子を産み、夫と子を支えていくものだろう。何が戦争だ。ふざけているのか。私の屋敷は民を傷つけるために建てられたわけではない!」
現在、国の内部各地で戦争が多発していました。その為、貴族達の多くは武器を量産して利益を上げた者でした。男の所有するお屋敷は敷居が広く、部屋も数多く存在しました。そのまま軍事施設として利用することができるので彼らの目に留まったのです。
男の家系は服飾に力を注いでいましたが、この時代において服装は二の次で衰退の域を辿っていきました。
最近、舞い込む仕事は戦闘服が全てを占めています。男は仕事を全て断り、現在の地位に至るのでした。
「自らの伝統を忘れ、誇りを忘れ、あまつさえ人であることですら忘れようというのか。どんなことがあっても私は絶対に屋敷を売らんぞ!」
男は高らかに宣言をしました。
けれども、男がお屋敷を売らなくても季節はめぐります。
桜の花が散り、蝉が夏を伝えます。蝉の鳴く音も聞こえなくなると、鮮やかな紅葉が秋を知らせます。紅葉が見えなくなるころには雪が冬の始まりを教えてくれます。
そして、全ての季節がめぐる頃に男はお屋敷から離れようとしていました。
「私が、ここを出ていかなければならんとはな」
男はスーツケースを片手にお屋敷の外へと出ていきます。
男は足を止めてお屋敷全体を見渡しました。男はこのお屋敷で生まれ、このお屋敷で育ちました。ここには計りきれない程の愛情がありました。
「この屋敷と同様に親族も民も伝統も誇りも愛したはずだったんだがな……」
男は自虐的に笑いました。
結局、男は全てを失いひとりぼっちとなってしまいました。時間の経過とともに彼の元から一人去り、二人去り、親族さえも縁を切られていきました。このお屋敷も引き渡すことが決まりました。予定通り軍事施設になると男は聞いています。
「滑稽で愚かだったのは私の方だったのかもしれないな」
男は鼻で笑い、お屋敷に背を向けます。彼はもう振り返ろうなどとは思いませんでした。
振り返ってから男は気がつきました。お屋敷の庭園に少女の姿がありました。男には全く少女に身に覚えがありません。しかし、どこか懐かしさを感じる雰囲気を漂わせています。男の視線は少女へと移っていました。
少女は5,6歳程度の見た目で白いワンピース着ていました。彼女の被る麦わら帽子からは綺麗な金髪が見え隠れしています。
「おい、ガキ。こんなところで何をしている。ここは私有地だぞ。とっとと去れ」
「かえるところがないの……」
「帰るところがない? 家出か? それとも迷子か?」
少女は何も答えずに俯いていました。
男が頭を掻いて少女の横に通り過ぎました。もう男はこの街から排除された身であるが故、黙って去ることにしました。
少女はなぜか男の後ろについていきます。男が止まると同時に少女は止まりました。男が歩き始めると少女も歩き始めました。
男は耐えられなくなり、少女の方へ振り向きました。
「ガキ。ついてくるな」
「だって……」
少女を振り切ろうとして男は走り始めます。少女も男に追いつこうと走り出しますが―――
勢いよく転び、地面に顔を打ちつけてしまいました。
「う、うえええ」
少女は痛みを我慢しようしますが、ついには泣き出してしまいました。
男の足は止まり、自然と少女の方へと近づきました。反射的に身体が動いてしまったので、男は心の中で溜息を吐きました。自分の良心が忌々しいと思いました。
「じっとしてろ。怪我を見せてみろ」
少女は男の指示に従って膝を見せました。見たところ大した怪我はなく、軽く膝にすり傷があるだけでした。
男はスーツケースの中から救急箱を取り出し、簡易的な処置を施しました。
「それで? お前は誰だ?」
「……わかんない」
「わかんないってなんだ。自分が住んでるところぐらいはわかるだろう?」
「私が住んでたのはこのお屋敷だから。でも、もうこのお屋敷には住めないの」
少女の指し示す方向は間違いなく男が元所有していたお屋敷でした。
男は驚愕し、目を丸くしました。そして、自分の父親がある伝説を語っていたことを思い出しました。
お屋敷には精霊が住んでいる、男はその当時夢物語かと思っていました。
『いいか。このお屋敷には精霊様がいてな、先祖代々からの守り神だ。きっと何があってもお前を守ってくれる。俺は精霊様に会ったことがあってな。昔……そう、あれは暑い夏の時だったかな。あまりにも暑そうにしてたから麦わら帽子をプレゼントしたんだ』
男は父親の言葉を思い出しました。
ちょうど麦わら帽子を深く被っている少女が目に映りました。
思い出したからこそ、少女に問いました。
「お前、精霊様なのか?」
男の問いに少女は首を傾げました。そして、お互いに見つめ合うと少女は笑います。
まるで失くしものを見つけた嬉しそうな笑顔でした。
「あれ、おじさん。まえに、あそんだ男の子に似てるね!」
「ふ、ふふふ。なるほどな」
全ては虚無でなかったと男は自然に笑みがこぼれました。
男はスーツケースを手に取ると、歩き始めます。歩き始めるとまた少女もついてきました。歩きながら男は口を開きました。
「帰る場所がないなら、俺の家に来るか? 何もない辺鄙な所だ。昔ほど金はないが、子供一人増えても問題ないぐらいの蓄えはあるつもりだ。それに侍女が一人もいなくて困っていたところなんだ」
「いく!」
少女は即答でした。男は愉快そうに笑いました。
ひとりぼっちの男はふたりぼっちとなって、お屋敷を後にします。
少女は男の手を繋ぎました。男も拒もうとはしませんでした。
男と少女は二度とお屋敷に振り返ることはありませんでした。それどころかお互いに戻ってこようとも考えていません。
幸せそうな二人はお屋敷から遠のいていき、やがてお屋敷からでは二人の姿は見えなくなりました。
お屋敷の精霊様はもういませんでした。