第百六十二話 惚気話は苦い珈琲と共に
「ん……」
朧気な意識の中、遠くから鳥の囀りが聞こえた。
「ん……もう朝か……」
朝の冷たい風に頬を撫でられる感触に、薄らと目を開ける。開いた窓から吹き込むそよ風が、白いレースのカーテンを揺らしていた。
「……今日、何か予定あったっけ?いや、確か大晦日は休みにしてたはず……」
日はまだ高くなさそうだ。昨日は遅くまで起きていたせいか、非常に眠い。仕方ない、千夏が起こしに来るまでもう一眠り……ん?
「待て、ここどこだ?」
自宅でないことの違和感に慌てて飛び起きた。見回すとそこは豪華な屋敷の一室だった。周囲の状況を検めると、眠っていたベッドも豪華だし、そもそも寝室自体が広すぎる。そして隣で寝ていたはずの千夏と美衣がいない。
「千夏、美衣……どこだ?」
「水輝君、落ち着け。よく記憶を思い返せ」
混乱してベッドから飛び起きた俺に、聞き慣れない男性の声がかかった。反射的にその声の方に首を向けると、先程までは誰もいなかった部屋に男性が立っていた。
「誰だ」
「寝起きとはいえ、混乱しすぎだろう……もう一度言うぞ。昨日を思い返せ、水輝君」
相手の様子を伺いながら、その言葉通り、昨日のことを振り返る。
「確か、米国の軍事機密を抜いて、国外脱出を決めたんだよな」
「ああ、それが一昨日だな」
「一昨日……そうだ、それで翌朝、空港に向かう途中の車を襲撃されて、拉致されかけた」
「ああ。で、拉致は結局されたのか?」
呆れたような、目の前の人物の言葉にようやく状況と記憶が繋がってきた。
「そうだよ。夢じゃなければ確か昨日、雅也義兄の転生した世界に来たんだった……」
「ああ、夢じゃないぞ。ここは正真正銘の異世界だ」
呆れたように呟いた雅也義兄……の転生先の人物、クライス・フォン・ヴェルディド・フィールダー卿の言葉と共に、ようやく俺は落ち着きを取り戻していた。
「さっきまでいなかったよね……何、魔術で気配消してたとか?」
「いや、普通に転移魔術だよ」
「いきなり物理法則ガン無視の魔術の名前が出てきたね」
「ちゃんと科学的に筋は通して転移してるぞ。まあ、そんな話は後だ。千夏さんも美衣ちゃんも、寝過ぎなお前を待ってるから、早く降りてこい」
「了解」
それを言い残して、雅也義兄は忽然と姿を消した。見知らぬ異世界、しかも転移魔術なんて常識外れの技術があるのに、あまりにも昔の実家のようなやりとりに苦笑しながら、僕は部屋を出た。
「とりあえず今日はまず、水輝君達を紹介しなきゃいけない人のところに会いに行くことにしてる」
水輝君一家を交えて朝食を取った後、俺はそんな風に話を切り出した。
「紹介、ですか? 異世界から転移してきた知人を?」
「ああ。今、先触れで連絡したから、相手からの連絡待ちだな」
「ああ。相手が誰かは分かったけど、雅也がアポ取るって事実に戦々恐々とされない?」
「さすがに状況が状況だから人払いもいるし、と思ったけど……確かにそうだな」
無論、紹介相手というのはレオンだ。俺が訪問の際に正式にアポを取るのは公的な場合、すなわち国王と魔術省大臣として会談するときだけだ。そんな俺が私的な訪問でアポを取るという時点で、今頃頭を抱えているだろう。
「まあ、考えても仕方ないだろう」
「それもそうね……」
「というわけで、しばらく時間がかかるから、連絡が来るまでこの世界に関わる重要事項の確認だけしておくな」
俺と詩帆の会話に不穏な気配を感じ取ったのか、不安そうな顔をしている水輝君と、苦笑している千夏さんの顔が見えたが、まあ逆に説明しても一国の王との会談とか、不安を煽りそうだし、スルーしよう。
「さて、昨日も説明したが、この世界の基本的な概念や法則、倫理観は基本的には前世から大幅な乖離をしていることはない」
「技術水準とか、後は信仰や思考の関係性で現代日本の価値観と完全に一致しているかと言えば、違うけど、基本的には外国に移住したくらいの認識でいいと思うわ」
「文化・技術水準的には、異世界に似合わずかなり近代化が進んでる感じと言われてましたよね」
「ああ。まあ、魔術が技術的なブレイクスルーを引き起こしてるし、そもそも魔術というのが物理現象再現技術であることから、科学の研究もそれなりに進んではいた。まあ、魔術の利便性と、過去の大戦で進捗度は今ひとつだが」
千年前の魔神の事件で大陸全土が荒廃した際、また更にそれ以前の魔術大国が魔神出現と討伐で崩壊した際、この世界の、この大陸の人類は滅亡の危機に瀕している。そのたびに技術力は大幅に低下している。
「技術レベルの衰退を引き起こすほどの大戦、ですか?」
「ああ。だが、当面心配はないよ。少なくとも俺達が生きている間は。まあ、その辺りは今後、この世界の魔術と歴史の関係性についてじっくり講義するよ」
「湊崎先生の講義って聞くと、拒否反応がなあ……」
「水輝君、10万字の手書きレポート課題でも出してやろうか?」
「すみません冗談です。続けてください」
「お母さん、これ何の話?美衣、わかんない」
昨日の復習がてらの解説だったのだが、確かに美衣ちゃんがいるときにするなら、レベル感考えるべきだったな。すっかり一緒にいる美衣ちゃんが退屈そうにしている……うん、まあ昨日、最重要事項は伝えたし、どうせ時間潰しくらいのつもりだったし、いいか。
「ごめんね、美衣ちゃん。ちょっと難しい話にしすぎちゃった。お詫びに、ここからは美衣ちゃんの聞きたいこの世界の話をなんでも話すよ」
「なんでも?」
「ああ、なんでもいいよ」
「うーん……何にしよう?」
「雅也さん、美衣がすみません……」
「いや、昨日から散々小難しい話、しましたし、僕も息抜きですよ。あっ、最低限必要な説明は昨日の夜ので終わってますから、そこも気にしないで大丈夫ですよ」
「それならいいんですけど」
美衣ちゃんが聞きたいことを考えているのをしばらく眺めている。小声でうーんと唸りながら、小首をかしげている姿が何とも可愛らしい。
「詩帆」
「何?」
「俺、娘ができたら鬼可愛がるだろうから、怒れないかもしれない」
「呆れた……って言いたいけど、私もそうなりそう。お互いに気をつけるしかないかな」
「だなあ……」
親になるにはどうにも情けない会話をしていると、美衣ちゃんがパッと顔を上げて、キラキラとした目をしていた。何か嫌な予感がすると思ったら、その予感が的中した。
「あっ! じゃあこっちの世界でおじさん達がどうやってもう一回会ったか知りたい」
「……魔法とかじゃなくて?」
「それも気になるけど……だって、この魔法だと、どこに生まれるかわかんないんだよね」
「そうだね」
「でも、今一緒にいて、結婚してるんでしょ。どうやったのか聞きたい」
そういえば昨日、量子データを用いた転生実験の説明で、転生先の不安定さについて話したな……まあ、興味はあるか。
「雅也さん、詩帆さん……あの、私も気になるので、よければお聞きしたいです」
「どういう経緯で、貴族になってるかとかも気になるし、何より雅也義兄と、詩帆姉だからかなり波瀾万丈なんじゃないかと思ってるから僕も聞きたいですね」
「須川家、満場一致か……じゃあ、ざっとだけど説明するか」
「まあ、確かに知識の話より、この世界での私達の立ち位置を説明する方が先かしらね」
「わーい」
美衣ちゃんと千夏さんが目をキラキラさせているが、生憎惚気る気は蚊ほどもない。さて、どこかれら話すか……
「まず、詩帆の方は、俺がデータかき集めて、転生先の指定にどうにか成功した」
「僕みたいな、こちらの世界から転移した形跡……湊崎准教授を辿るならまだしも、量子データの解析だけで転生先の指定とかよくやりましたね」
「二人にはお察しの通り、相当な無茶だったよ。だが、何とか詩帆はこの国の王都の伯爵家の令嬢として転生させた」
「貴族のお嬢様……いいなぁ」
「詩帆姉、伯爵令嬢……似合うな」
「水輝、何か今失礼なこと考えなかった?」
水輝君の想像した、令嬢詩帆はあながち間違ってないのが面白いところだな。魔術学院では、貴族令嬢らしいドロドロした権謀術数の世界で生徒会長になってるわけだし。まあ言ったら怒られるから言わないけど。
「まあ、ただそこは結論から言うと、失敗したようなものだけどな」
「えっ、今成功したって……」
「ああ。俺の指定通り、詩帆はこのルーテミア王国の軍務閥の重鎮、当時の軍務省大臣グレーフィア家の長女、ユーフィリア・フォルト・フォン・グレーフィアとして生まれたよ」
「大成功じゃないですか。この国の文明レベルは色々囓ってますけど、この国の都市部の一大貴族の長女でしょう。転生先としてはこれ以上安全な場所なんて……」
「家庭環境、ですか?」
「ああ、千夏さんあってるよ。俺の人生最大の失態の一つだ」
「家族に、いじめられてたってこと?」
そこまで話したところで、俺は言葉に詰まって、隣の詩帆を見た。これは彼女にとってどこまで話していいことなのか、迷ってしまったから。だが詩帆は、そんな俺の迷いも見透かしたように淡々と言葉を続けた。
「酷い家庭だったわよ。伯爵は、母も私もストレスのはけ口としてしか見ていなかった」
「……」
「何より、あの伯爵はロリコンだったから……当時は雅也を恨んだわね」
「っっ……」
「まあ魔術で自衛してるから、その辺りは心配しなくてもいいわよ」
「そう言っても……」
美衣ちゃんもいるので、直接的な言葉は避けているが、状況は容易に察せられたようで、水輝君と千夏さんは絶句していた。その間で、よく分かっていないながらも辛そうな顔をしている美衣ちゃんが、ポツリと呟いた。
「なんで……家族なのに……」
「そういう人もいるの……ものすごく少ないけど」
「……今は、大丈夫?」
「うん。今は雅也が守ってくれるから。何より悪い思い出は全部、雅也が上書きしてくれたから、今はもういいの」
「よかった……」
詩帆の言葉と、美衣ちゃんの声に、重くなっていた空気が弛緩していく。その空気に合わせて、今度は水輝君が口を開いた。
「それで、詩帆姉がその状況で、何してたんですか?」
「……魔術修行かなあ」
「えっ?」
「いや、俺が生まれたのって、王都から南に遠く離れたフィールダー男爵領だったんだよ。それで、詩帆が伯爵家に転生したことを断片的な情報から把握したから、安全だろうと思って……」
「それで、奥さんとの再会を後回しにした、ってことですかね?」
「ま、まあ、そういうことになるかな……でも、魔術の強化をする必要性があったのもあってね」
「でも、いじめられてたんでしょ。早く行ってれば、もっと早く助けられたよ?」
「うっ……」
千夏さんの正確な指摘と、美衣ちゃんの純粋無垢な言葉が胸に刺さる。確かにその通りだ。俺は、いかなる理由があろうとも、行けるチャンスがあるのならまずは王都で詩帆と再会すべきだった。
「まあ、雅也はこういう人だから。私を本当に大切にしてるけど、根底は学者馬鹿だから」
「嫁の言葉が一番刺さるんだが?」
「あら、フォローしてあげたのに?」
「フォローになってない」
「大好きだから、それくらいは許してあげるってこと」
「……敵わないなあ、ほんと」
散々な目に遭ったというのに、何度も心配かけたというのに、とんでもない人生に巻き込んだというのに、そう言い続けてくれる詩帆には、本当に一生かけても感謝しきれない。
「いや、一生どころか転生して二つ目の生も共にしてるのか」
「それが嫌じゃないって私が言ってるんだから、今更あなたが気にしないの」
「……ああ、そうしよう」
「お二人とも、惚気るのはベッドでやってください」
「……話が逸れたな。それで10歳から5年間魔術修行をして、その後、王都に向かって……」
「えっ、奥さんを15年間放置したんですか?」
水輝君の指摘に、言葉を詰まらせつつ、話を自身の過去に戻したのだが、また千夏さんの地雷を踏み抜いてしまった。同時に、俺も冷静に自身の過去を思い返して……
「……そう言い換えると、俺、クズ男だな」
「千夏さん。気持ちは分かるし、ありがたいけど、私はもう許してるから、勘弁してあげて」
「はい……」
「これから雅也が、馬鹿やったらしばいておいて」
「はい」
詩帆の優しい言葉に癒やされる反面、千夏さんの湊崎准教授に対しての尊敬の眼差しが、一瞬でダメ旦那を見るものになってしまったことのダメージが割と大きい……いや、どう言い繕っても、転生後の行動経緯を考えると何も言えないんだけども。
「水輝君……」
「さすがに僕も擁護できませんよ」
「まあ、雅也がこうなのは前世からだから。たぶん二人も知らない話が一杯あるわよ」
「その上での、この反応ですか……なるほど」
「あの、詩帆さん。俺の精神もう限界なんですけど」
「大丈夫よ。この後この失点を取り返すくらい王都で私を助けてくれたし、ロマンチックに告白してくれたでしょう」
「えっ、それ聞きたいんですけど」
「告白?えっ、どんなの?」
この後、王都での恥ずかしい話を詩帆に赤裸々に暴露され、しばらく須川夫妻から生暖かい目で見られることになってしまった。
「あれ、待って、これ私にとっても恥ずかしい?」
「ああ、そうだな」
勿論、ノリノリで話していた詩帆も自爆したのは言うまでもない。
昨日は失礼いたしました。
次回更新予定は8月5日21:00です。




