聖夜に悲しき思い出を
本日三話目です
「……痛っ……これは、折れたかな」
車は俺の後方の店に衝突していた。俺が咄嗟に車道側に飛んだことで、何とか左手を犠牲に俺は無事だった。というか、車との正面衝突で左手が折れただけって奇跡なんじゃないのか。
「って……事故った方は大丈夫なのか」
車は後方も潰れており、振り返ると、そこには前方がひしゃげたトラックがあった。更にトラックの後方に横を向いて停車している車があったので、どうやら玉突き事故のようだな。って、冷静に分析している場合じゃないな。
「大丈夫ですか」
「だれか、助けて。主人が」
店に衝突した車に近づくと、中から甲高い女性の声がした……さらに近づくと、車からはおびただしい量の血が流れていた。
「主人が、主人が……」
「奥さん、落ち着いてください。今は奥さんの脱出が先です」
運転席に座っているお父さんの胸には座席の一部であろう金属棒が深々と刺さっていた……おそらく、即死だろう。それより今は、爆発の危険性のある車内から無事な奥さんを出す方が先だ。
「ドアは……だめだ、歪んでて開かない……奥さん、捕まってください。僕が窓から引き揚げますから」
「待って、この子が先よ……えっ、雪江……雪江」
「落ち着いてください。どうしたんですか」
「この子の心臓の音が、聞こえない……」
「……衝撃による心停止か……奥さん、この子を早く外に。心肺蘇生します」
「は、はい」
窓から五歳ぐらいの少女を引き上げる、そのまま彼女を車から離す。既に周りには車を止めて、救助を手伝ってくれようとしていた人たちが何人かいたので、お母さんの方の救出はそちらに任せよう。
「すいません。この子のお母さんがまだ車の中にいるんです」
「分かった。その子は?」
「心停止です。余裕があればAEDも」
「分かった。おーい、誰か」
既に遠くからはサイレンの音も聞こえてきている。後は、一刻も早く蘇生をするだけだ。
「くそっ、折れた左手が……ああ、もうどうにでもなれ」
痛みを放置し、俺は力強く心臓マッサージを始めた。詩帆に基本的なことは習っておいて本当に良かった。
「頼む、戻ってこい……」
そう願っていたとき、さらなる絶望が俺を襲った。突然、後方から爆音がして、熱気が辺りに立ち込めた。
「なっ、爆発……くそっ」
お母さんは間一髪救出されてはいたが、退避が間に合わず、救出した男性とともに火を浴びていた。しかも男性はまだしもお母さんの方は熱傷の範囲が馬鹿にならない。しかも爆風のショックで内臓でも損傷したのか吐血も見られた。
「なんで、せっかく事故で、無事だったのに……絶対にこの子だけはここから無傷で助ける」
そこまでのことを把握した俺は、折れた腕をものともせず、必死で蘇生を続けた。
「救急車、来ました」
「この子とお母さんと、そこの男性を優先して運んでください」
「すいません、あなたは?」
「僕はかすり傷だけです。それより早くこの二人の処置をお願いします。この子の心臓マッサージは僕がやります」
「は、はい」
俺はそのまま救急車に飛び乗った……後を詩帆に託せると安堵して……
「湊崎先生、交通外傷です。心停止の五歳の女の子と、全身熱傷の三十代女性と男性……後、軽症の男性です」
「分かりました。救命部長、後はお願いします」
「ああ。そっちは頼んだ」
クリスマスの夕暮れ。込み合う街では事件や事故が多発する。まあ、大みそかからお正月よりはましだって言う先生も多いんだけど……最近は割と大差がないとも聞くからなあ。
「先生、来ました」
「よし。じゃあ、熱傷の重症度見て、私は女の子の方を先に見る」
そんなことを考えていると、救急車が救命センター入口に到着した。そこからストレッチャーとともに降りてきた人物を見て、私は絶句した。
「なっ……」
「雅也さん、何で救急車で?」
「話は後だ。この子、今さっき蘇生した。お母さんとこの男性は全身熱傷」
「えっ……」
「急ぐわよ。雅也、この子の心停止の時間は?」
「マッサージ始めたのが心停止後一分は経ってない。心停止時間はざっと見積もって十分」
「了解。急いでこの子を精密検査に。それから熱傷の二人の治療は急いで……」
その時、静かに眠っていた少女が、吐血した。
「そっちの子の方を私が見る。雅也、処置室までストレッチャー押して」
「おお、分かった」
熱傷の二人は他に任せよう。ただ、お母さんの方は、顔の一部を含めた全身の大半が震度のかなり深めの火傷を負っている。助かるかは五分といったところだろう。
そう思っていたら、突然誰かに手を掴まれた。
「お願い、です。先生。どうか、私は、後回しでも、いいから、その子を、助けて……」
そこには虚ろな目で、私の腕を強く握るお母さんがいた。血まみれのその手を見て、私は覚悟を決めた。
「全力を尽くします」
「お願いします」
そのやり取りが終わるのを見届けて、雅也はお母さんのストレッチャーを引いていった。私もすぐさま少女を連れて処置室に飛び込む。
「血液検査、それからMRIも急いで。取り急ぎ輸血とオペ室の手配を……」
「湊崎先生。大変です、脳外科で明日手術予定の笹原さん、急変です」
彼女の検査を指示しようとした私の下へ、見知った脳外の看護師が走りこんできた。
「藤川先生は?」
「緊急オペで手が離せないそうで……」
「そんな……」
後には原因不明の吐血をした少女。数分前までは心停止をしていた。だが、笹原さんも大きな脳腫瘍を抱えていた……あれが破裂すれば、即死だろう……
「湊崎さん、彼女のことは僕に任せてくれ」
「あなたに……」
そこに声をかけてきた男は、利益優先の診察で患者からの評判がすこぶる悪い医師だった。嫌だった。ただ、私は医者としてこれを選択するしかなかった。
「笹崎さんの緊急オペに入る。彼女のことは任せたわ」
「了解」
「先生、こちらです」
「ええ、急ぎましょう」
私はお母さんに対して申し訳ない気持ちになりながらも、手術室に向かうしかなかった。
処置室には暗い空気が流れていた。
「先生、心停止五分です」
「またか……やはり、もう……」
「全身の九十パーセントの熱傷は、さすがに手が出せませんか……」
「うむ……」
「先生。また交通外傷です」
「受ける。それからこの患者は……20:53死亡確認だ」
「分かりました」
それを聞きながら、俺は腕の激痛で意識を失った。
「雅也さん」
「いかん、骨折が悪化してるな。かなり熱を持ってる、至急整形の先生を呼んで来い」
その喧騒の中、一人の医師がこう呟いた。
「複数臓器からの出血ねえ……両親ともに死亡しちゃったし……君」
「はい」
「この子、容態が安定しているけど傷口から感染すると危ないから、呼吸器つけて無菌室に入れておいてくれるかな」
「分かりました」
それを止める医師は誰もいなかった。
「どういうこと、なんであの子が無菌室にいるのよ」
「すみません。でも先生が容態が安定しているから大丈夫って……」
「あいつ、両親が死亡して叩く相手がいないからって……最悪の手段を取ったわね」
手術終了後、女の子の容体が気になってICUを覗いたら、母親が亡くなったことを聞かされた。それと同時にあの子がなぜか無菌室にいることも。
「くそっ、やっぱり私が最後まで責任を取って……」
「先生は何も悪くありません。だって先生は……」
「でも、私は……っつ、アラート。急ぐわよ」
彼女のいる病室からけたたましいアラートが鳴り響いた。私はそれを聞いて、部屋の二重のドアを何も考えず開け放ち、飛び込んだ。
「あのクソ野郎。精密検査をしたうえで、この部屋に入れたの?」
「は、はい」
「許せない。複数臓器からの出血なんて、即刻オペに入れないのならICUで厳重管理に決まってるじゃない……心肺蘇生。即刻オペよ。循環器と小児科、後は消化器も、事故関連のオペはあらかた片付いたから手は空いてるでしょ」
「でも、先生。もう、その子は……」
「……約束したの」
私が助けると、自分はどうなってもいいと言ってこの子を託されたのだ。だったら私は最後まで責任を取る必要がある。
「約束したの、絶対に助けるって。だから、今すぐ今言ったものを用意して……」
「洲川君、もうやめなさい」
私が叫んだのを後方から諫めたのは、私を唯一洲川君と呼ぶ人、指導医、藤川 直久先生だった。
「話は聞いた。だから、もうやめなさい」
「でも、先生。この子は……」
「十分に頑張った。この処置を指示した奴は、私が必ず責任を追及させる。だから……」
「だから、なんですか……」
「んっ?」
「この子は、お母さんも、お父さんも、失って、誰もいない部屋で、最期を迎えることになるんですよ、しかも、誕生日に……」
あまりに可哀そうだ。なら、最後に全力を尽くしてあげたかった。自己満足なのは分かっている。でも、それでも何かできることがあったんじゃないかと思って終わるのは嫌だった。
「だったら、なおさら眠らせてあげなさい」
「なんで」
「この子はこんなに穏やかな顔をして眠っている。だったら、それに針を刺して、管を挿して、刃を入れてまで、両親のいない厳しい現実に、強引に呼び戻す必要があるのかね」
「それは……」
「それに、それを後悔することは君が助けた笹崎さんや、今までの患者さんにも失礼だ」
「……」
「医者とは時に非情な取捨選択を迫られる……彼女には、申し訳ないことをしたね」
藤川先生はそう言うと、ベッドに近づいてきてアラートを止めた。
「洲川君。笹崎さんの術後観察や、彼女の死亡確認書類は私に任せて帰りなさい」
「でも……」
「疲れている。だから、今日は帰りなさい。これは脳外科部長の命令だよ」
優しくも強く言い放たれた言葉に、私は従うしかなかった。
「……ダメだな、私」
着替えを終えて、職員通用口から出た私は開口一番そう呟いた。
「あの子を救うって約束したのに……私は、何も……」
「詩帆」
名前を呼ぶ声に顔を上げると、そこには柱にもたれかかって、腕にギプスをはめた雅也が立っていた。
「その腕、大丈夫?」
「ちょっと無茶して悪化したけど……一応、ただの骨折」
「そう……」
それを聞いてホッとしつつも、私は自分に落胆していた。雅也の腕がそんな状態になっているのにも気が付けなかったことに。
「詩帆……」
「何?」
「話は藤川先生から全部聞いた」
「そう……ごめんなさい」
「うん」
「あれ、私が謝る必要ないとか言わないの?」
「言わない。今の詩帆が、誰かに謝りたいと思っているように見えるから。だから俺はそれを我慢しろなんて言わない。自分の心をズタズタにしなきゃ気が済まないなら、俺はそれに付き合うよ」
そう彼が言った瞬間、私は彼の胸に飛び込んで泣いた。それこそ、涙が枯れはてるぐらいまで……
「私が救わなきゃいけなかったのに、約束したのに、救えなかった、何もできなかった。でも、私はそれを責められることすらしない。いっそ責めてよ、野次ってよ、ダメ医者だって言ってよ……そうじゃなきゃ、私……」
私のどす黒い心の膿を、雅也は何も言わずに受け止めてくれた。
私が涙を流し続ける間、ずっと、ずっと。だから私の涙は余計に止まらなかった。
第四話目は日付が変わってからですが、一時間後に投稿します。




