S's cat
晒し中
やりたいことがない。見たいものがない。欲しいものがない。食べたいものがない。
こだわりがない、と言えば聞こえはいいのかもしれないが、悪く言えば無関心で、無頓着だということだ。
昔から私はそうだった。
小学校の学習発表会も、中学の合唱も、高校の文化祭だって、私にとってはどうでもいいことで、興味のわかないことだった。
他の人間がそういったイベントを楽しんでいるのを見ると、こんなもの何が楽しいんだ、と思ってしまう。
でも、ふとした時に、私は心が欠落しているんじゃないか、と怖くなることがある。
何にも興味を示せず、他人に同意したり、依存したりできない私は、人間として不完全で不要なのかもしれない。
そんな私は、自分の人生にも当たり前のように無関心だった。
何かに熱中したり、困難に立ち向かったりしたことは一度もなかったのだ。
なら、私が向き合えるものとは何なのだろう。
何かに興味を持つこと? 他人を理解する努力をすること?
やっぱり、私にはわからなかった。
いつか何かを選ばなければならなくなった時、自分で決断することなんてできるのだろうか。
もし明日、神様か何かが突然現れて、「あなたはもうすぐ死ぬ」なんて言ってきたら、私は何を思うのだろう。
そして、最後の晩餐には何を選べばいい?
焼けつくような喉と胸の痛みで、私は顔をしかめながら目を覚ました。
身を起こすと、激しい咳が出た。
手に生暖かいものを感じ、自分の手を見ると、私の手は赤く染まっていた。
手だけじゃない。
私が頭を預けていた枕も、かけていた布団も、みんな赤く染まっていた。
ちょうどよくドアを開けて私の部屋に入ってきた母は、血まみれの私と、私の寝台を見て悲鳴を上げた。
「ちょっとあなた、どうしたの?!」
どうしたの、と言われても、起きたときには既にこの有様だったのだから、答えようがなかった。
「起きたら血まみれだった」
静かに私は言った。
気が動転しているらしい母は、自分から訊いたくせに私の声に耳を貸さず、外に出る準備を始めた。
準備を終えた母に、あっという間に外行きの格好をさせられた私は、車に担ぎ込まれ、病院へ連れて行かれた。
事前に話を通していたのか、私は待つことなく診察室に入った。
医師にも話を訊かれたが、全く原因に心当たりがない私は、知りません、と答えるしかなかった。
様々な病気を疑われた私は、様々な検査を一日中受けさせられた。
吐血があったこともあって、私はとりあえず病院に一泊することになった。
翌日も私は一日中検査を受けさせられ、前の日と同じように病室に泊まった。
私が吐血して三日目、母共々診察室に呼ばれた私は、こう告げられた。
「残念ですが、末期の病です。ここ数年でちらほら見かけられるようになった新種のウイルスで、有効な治療法は未だ見つかっていません」
隣で母が医師に色々なことを尋ね、医師はそれに伏し目がちに答えていた。
私にはどこか、遠い世界に連れてこられたように感じられた。
次の日も私は診察室に呼ばれ、これからの先のことについて尋ねられた。
入院するのは必須だが、どんな部屋がいいか、といったことや食事に関しても尋ねられた。
無頓着で無関心な私は、すべてお任せします、と伝えて、病室に戻って寝転がった。
長くは生きていられないだろう、と言われた私は、これから先のことについて考えていた。
私の命が尽きるまでの間、私は何をするべきなのか、何がしたいのか。
考えても考えても、さっぱり思い浮かばず、私はそのまま眠ってしまった。
暗闇の中に立っている。
比喩的な表現ではなく、実際に立っている。
真夜中のような暗さではなく、本当の闇の中。
光などひとかけらも存在しない、完全な暗闇の中に、私は立っていた。
いつからここに立っていたのか、ここはどこなのか、私には見当もつかなかった。
歩いてみても、景色に変わりはない。
ふと気配を感じて振り返ると、そこだけスポットライトを当てられたかのように、猫が佇んでいた。
だが、猫の体は向こう側が透けて見えるくらい薄く、儚かった。
「やあ、初めましてだね」
前足を器用にひょい、と上げて、猫が話しかけてきた。
現実的に考えれば、猫が話すはずがないのだから、私は夢でも見ているのだろう。
「ここは?」
私の問いに、猫は私の予想通りの答えを返してきた。
「ここは君の夢の中さ。ここでは君は血を吐くこともなければ、寝転がっている必要もないんだ」
「そう。でも私は目的があるわけでもなければ、何かやりたいことがあるわけでもないの」
「そうだろうね。君はそういう人間だ。無関心で無頓着、薄っぺらい人間性しか持ち合わせていない」
初対面だと言うのに、随分と失礼な猫だ。
「悪い?」
「別に悪くないさ。本当に何にも興味がないんだとしたらね」
「私は何事にも興味はないわ」
「嘘だよそれは。君はただの臆病で傲慢で馬鹿な女の子だ。何にも興味がないだって?
お笑いなのもいいとこだ。何かに熱中して失敗するのが怖かっただけじゃないか」
「知ったようなこと言ってくれるわね。私は誰にも理解されないし、他人を理解しようとも思わない」
「すぐそうやって君は逃げる。興味が無いふりをして逃げていれば傷つくことはないからね。
いくら理由を作ろうが根は変わらないのさ。君は臆病なんだ。そして傲慢でもある」
「いいじゃない。臆病で傲慢でも。人間なんてみんなそういうものでしょ?」
「色んなことに未練たらたらだったくせによく言うよ。君は格好をつけてるだけなのさ」
「格好つけたっていいじゃない。臆病だっていいじゃない。あなたに何がわかるの?」
「なんでもわかるよ。僕はなんだって知っている。君が今、色んな感情を必死に抑えていることもね」
私の考えや過去を次々と言い当てる猫を、私は憎らしく思った。
臆病な人間がいたって、それは仕方のないことなのではないか。
誰もが皆、自分をそのまま表現できるほど強くはない。
努力できない人間もいる。志半ばで折れてしまう者もいれば、最後までたどり着ける者もいるのだ。
人間なんてものは一概には語れない。
なのに、どうしてあの猫は私がさも悪であるかのように話す?
「百歩譲ってあなたの言うとおりだったとしても、あなたには何の関係もないでしょ?」
「関係あるんだよ、それが。今の君にはわからないかもしれないけどね」
きっと根拠を示せと言っても、上手く濁されるのだろう。
私は猫の正体を探るのを諦めた。
「もういい。あなたと話すのは疲れた。帰っていい?」
「別に帰るのは構わないけど、君、自力で帰れるの?」
痛いところを突かれて、私は言葉に詰まった。
「まあいいや。今日のところは僕が帰してあげるよ」
猫はそう言って、私を指差した。
すると、私は突然睡魔に襲われ、その場に倒れこんだ。
「またいずれ」
会った時と同じように前足を器用に上げながら、猫はそう言った。
自分の病室のベッドの上で目を覚ました私は、とてつもない腹立たしさに襲われた。
あんな猫なんかに、私の何がわかる。
シーツに爪を立て、腹立たしさを紛らわせようとしていると、ふと、私が腹立たしい、という感情を最後に抱いたのはいつぶりだろうと思った。
自分が感情的になっていたことに、私は自分のことながら、かなり驚いていた。
あの猫に指摘されたことは、悔しいけれど全て正論で、正解だった。
この十数年、誤魔化しながら生きてきたが、本音の部分では、私は他人と触れ合いたかったのかもしれない。
私に欠けていたのは感情ではなく、思いを声に出す勇気だったのだ。
「不完全な人間」なんていう代物じゃなく、ただの臆病者。
怖くて手が出せなくて、勝手に諦めて勝手に絶望する。
そうやって同じことを積み重ねてきた末に生まれた、哀れな道化がこの私なのだ。
きっと他人から見たら、私は何にも興味がない「ふりをしている」、かわいそうで痛い人間だったのだろう。
ずっと昔からそういうふうに見られてきたのかと思うと、私は恥ずかしさと後悔で、今すぐに消え去ってしまいたかった。
だが、それも後数ヶ月の辛抱だ。
数ヶ月すれば私の命は尽き、私という存在は消えてなくなる。
母を除いて、誰も私の死になんか気を留めないだろう。
当たり前だ。私はそういう生き方をしてきたのだから。
だけど、それは悔しくもあった。
最後くらい、自分の存在を声を大にして叫ぶべきではないのか?
私はここにいたんだ、と自分が存在した証を残しても良いのではないか?
でも、今まで何もしてこなかった私は、何をすればいいのかわからなかった。
何をすれば私が生きた証になる?
自分がちっぽけだなんてことはよくわかっている。
それでも、私は探すのをやめたくなかった。
何万分の一、何千万分の一でもいい。
可能性があるなら、私は縋ってみたかった。
最後の最後に気付かされた自分の本音に正直になってみたかったのだ。
次にあの猫に会ったときに聞いてみよう、と私は思った。
そして、猫に会えるのを期待して、私はいつもより少し早く、ベッドに潜り込んだ。
ひんやりとした感触を頬に感じて目を開けると、この前と同じ暗闇の中だった。
少し離れたところに、あの猫が佇んでいた。
「あれ、また来たの」
猫は意外そうな顔で、私に話しかけてきた。
「ちょっと聞きたいことがあって」
「なんだい? それにしても、昨日はあんなに噛み付いてきた君が、聞きたいことなんて珍しいね」
「ちょっと心境の変化ってやつよ。よくある話でしょ?」
「君は考えを曲げない頑固な人間だと、僕は思っていたんだけどね」
猫はどこか楽しそうにそう言う。
絶対私のことをからかっている。
この人を喰ったような猫に聞くのも癪だが、他に聞くあてがあるわけでもなかった。
「自分の名前を残す方法ってなんだと思う?」
そう猫に聞くと、猫は狐につままれたような顔をした。
「なんだって?」
「だから、自分の名前を残す方法ってなんだと思う?」
「おかしいな、ほんとに君は君本人なのか?」
「失礼ね。本人意外に誰かいるの?」
「いや、ドッペルゲンガーか、もしくは僕が幻覚を見てるのかと。僕もそこそこにいい年齢だけど、まさかボケが始まったとは思わなかったよ」
「だから本人だって言ってるでしょ」
そう言って、猫の耳をつまむ。
「ほんとだ。僕が実体を認識できるってことは、君本人なんだね。でも驚いたな。君がそんなこと言い出す人間だとは思わなかったよ」
「す、少し興味が湧いただけよ。自分の名前がちゃんと他人に認識されるってどういうことなのかなって」
「ふうん。僕にボロクソに言われて、少しは考えたわけだ。えらいえらい」
いちいち目線が偉そうなのが本当に癪な猫だ。
きっと碌な生き方をしていないに違いない。
「名前を残すなんてこと、幼稚園児にだってできるじゃないか。そこら辺の電柱や壁に名前を書いて回ればいいだけさ」
「馬鹿にしないで。私は幼稚園児でもないし、電柱や壁に名前を書いて回る趣味もないの」
「ふうん。君はきちんとした形で自分の名前を残したいわけだ」
「そうよ。悪い?」
「いや結構結構。君がこんな短期間で変わるとは思っていなかったよ。僕も君の前に現れた甲斐があった」
「知ってるなら勿体ぶらないで教えてよ」
「うーん、そうだなあ……物語を書くのはどう?」
「物語?」
「そう。物語だ。君が話を考えて、君の書きたいように書く。書いたものをどこか大きい出版社に応募して、選ばれれば君は業界じゃちょっと名の知れた人間だ」
一息にそう言って、さらに猫は続ける。
「君の書いた物語がもし人に大きな感動を与えるものだったら、自ずと君の物語は君の名を広めて回ることになる。いい考えじゃないか?」
「無理よ」
私は即座に否定した。
「ほら、まただ。君はすぐそうやって無理とか無駄とか言う。そんなもの、やってみなきゃわからないだろ?」
「わかるわよ。毎回何千、何万って数の人が応募してるのよ? その中にはきっとプロに近い人もいる。私がいきなり書いた物語なんて、評価されるはずもない」
「あのねえ、君はわかってない。物語の質ってのは書いた数、その人の技量で決まるわけじゃないんだ。
物語ってのは書き手の感性と伝えたいことが99%。技量や書いた量なんて残りの1%だ。
少なくとも僕はそう思っているよ。書いた量と技量で決まるなんて、そんな年功序列みたいな仕組みで出版される本が面白いわけないだろ?」
猫が一気にそうまくし立てた。
そう言われれば、そういう気もしてくる。
しかし、私は自分がそんな大層なものを書けるなんて、これっぽっちも思っていないのだ。
「でも……」
さらに不安要素を挙げようとした私を、猫は遮った。
「でも、それ以外に君が名前を残せる方法はない。君には時間がないんだ。
それでも何もやらずに死にたいって言うんなら、僕はもう何も言わない。でもね、僕は何もなく終わる人生なんて、君には歩んでほしくないんだ」
猫の真剣な眼差しは、まるで私に腹を括れ、と語りかけてきているようだった。
即断することは、私には無理だった。
「少し、考えさせて」
「いいけど、あまり時間はないよ。次に僕と君が会うときまでに決めておいてくれよ。じゃあ、また」
猫がそう言い終えると、この前と同じように、私は突然、睡魔に襲われ、そのまま眠りへと落ちていった。
目が覚めた私は、まず食堂へ行き、朝食を取った。
味噌汁を飲みながら、野菜を齧りながら、私は猫の言ったことを考えていた。
「物語を書くのはどう?」
どう、と言われても、難しそうだとしか思えない。
私は別に、文を書くのが得意なわけでも好きなわけでもないのだ。
ぽっと出の素人が物語なんて書けるのか。
そして人の目に止まるようなものが書けるのか。
不安要素を挙げればきりがないし、何かが変わるわけでもないのだが。
だが、他に自分の名前を、存在した証拠を残す方法もありはしないのだ。
私に残された時間でできることは、猫の言うとおり、物語を書くことくらいだろう。
ただ、物語を書くことに賭けるのは、リスクが大きすぎる。
読む人間によっても、同じ作品に対する評価は様々だろう。
技巧に凝った作品が好きな人間なら、私の作品なんてすぐに没にされてしまうかもしれない。
失敗したらどうしよう、という考えが私の中をぐるぐると回っている。
自分の意志で決めるなんて、私には甚だ無茶な話だった。
食堂を後にした私は、自室に戻り、ベッドに入る。
太陽が朝来た方から反対側に沈もうとする頃、私は一つの決断をすることにした。
コイントスで決める。
臆病で卑怯な私には、自分の運命をコインに託すしかなかったのだ。
少し震える手で財布から硬貨を取り出し、親指に載せた。
これで私の人生の中身が決定してしまうのかと思うと、恐ろしくて、心が欠けそうになる。
手が震えて、上手くコインが親指に乗ってくれない。
震える右手を押さえつけて、硬貨を乗せる。
表ならやる。裏ならやらない。
なんて単純明快な決め方だ。
コイントスなんてものを考えついた人間は、きっと賢くて、きっと馬鹿なのだろう。
目を瞑って、私は親指でコインを強く弾いた。
「やあ。こんばんは。どうかな、やるかやらないか、君は決められた?」
「残念だけど、私には決められなかったわ。だから、コインに委ねたの」
「へえ。まあ予想通りと言えば予想通りだけど。てっきり君はコインすらも投げられずに縮こまっているかとも思ったよ」
「私もそうだと思っていたわ。でも、最後の最後で親指が上手く動いてくれたの。運が良かったのか、悪かったのか」
「それは良いことだよ。きっと君の親指は君の本心を知っていたんだろうね」
「前の私なら、親指に感情なんてない、なんて一蹴したと思うけれど、今なら信じても良いような気がする。
人間ってのは不思議なものよね。境遇次第で、何もかも変わってしまうのだから」
「万物はそういう風にできているのさ。でも、多くの生き物は箱を開けようとしないんだ。
猫の成れの果てを見たくはないからね。目を閉じて、結果を見ずに済ませようとする。簡単に諦める。
ほんと、人間ってのは馬鹿な生き物さ。箱なんて、開けてみるまでどっちに転ぶかわからないのに」
猫が何を言っているのか、わかりそうで、わからなかった。
「さて、君はどっちを選んだのかな? 箱の鍵を開けようと努力するのか、それとも、箱ごと捨てるのか」
「やるわ。多分、コインが反対側を向いていても、私はやると言ったと思う。
最後の最後くらい、かっこ悪く足掻いてみたっていいじゃない?」
「もちろんさ。僕は嬉しいよ、君が選んでくれて。何か困ったことがあったら、なんでも聞いてくれていい。
君が望めば、僕はいつでも夢に出る。君が成功することを祈っているよ」
翌日、私はペンとノートを購入し、ベッドの上であれでもない、これでもない、と頭を捻っていた。
どうにも上手くいかない。
なかなかいいストーリーは思い浮かばず、思い浮かんだかと思えば、どこかで見たことあるようなものの二番煎じのようなものばかりだった。
素人がいきなり物語を書こうなんて、ハードルが高いとは思ったが、まさかここまでとは思わなかった。
病院の中を歩き回ったり、庭に出て草木を眺めてみたりもしたが、思い浮かんだのは陳腐な表現と、中身のない構想だけだった。
結局、初日は何も思い浮かばず、私は夜になるとペンを放り投げてテレビを見ていた。
どこのテレビ局も面白くない番組しか放送していなかった。
周りに全く参考になりそうなものはなく、頼りになるのは私の脳細胞くらいのものだった。
その脳細胞も、碌な案を出してはくれなかったのだが。
今日はいくら考えても良いものは出てこないだろう、と判断した私は、早々に切り上げて寝ることにした。
「やあ。調子はどうだい?」
「どうもこうもないわよ。てんで駄目ね」
「まあ初日はそうだろうさ。焦らず考えなよ。
いくら時間がないって言ったって、考えるのに時間を使わなきゃどうしようもないんだから」
「それはわかっているけれど……」
「なんでもいいから思い浮かんだことはメモしておくんだ。
二番煎じでも、時と場合によっては使えることもある」
二番煎じ、という猫の言葉に、私は色々と見透かされているような気がして、顔が赤くなった。
「おや。別に深い意味があって言ったわけじゃあないんだよ。気にしないでくれよ」
その言葉とは裏腹に、猫は思い切りニヤついていた。
思わず猫を蹴り飛ばしてやりたくはなったが、これでも私のことを応援してくれているのだ。
「そ、そうね。肝に銘じておくわ」
恥ずかしさをぐっと押し込め、素直に礼を言う。
「まあ、気楽に頑張ってくれよ」
そう言って猫は私に手を振った。
猫の姿は、初め会ったときよりも濃くなっている気がした。
それから三日四日と経ったが、一向に良いストーリーは思い浮かんでこなかった。
冒頭部分すら書けず、もはや私の気力はゼロに近いと言っても良かった。
悪いことに、その数日は猫が出てこなかったのだ。
アドバイスも何もなく、八方塞がりのまま一週間を迎えようとした私の目に飛び込んできたのは。一冊の週刊誌だった。
「自分の人生の見直し方」
あるじゃないか。二番煎じでもなんでもないストーリーが。
他の誰にも書けない、他の誰にも思いつけないたったひとつのストーリーが。
私は、自分ながらに馬鹿だと思った。
思いつくものがないなら、自分の生き方、心、見たもの、見たかったもの、欲しかったもの、そういった私を作っているものを形にすればよかったのだ。
ずっと独りで生きてきた。
他人と関わるのが怖かった。本心では他人と触れ合いたいと思っていたのに。
諦めが早かった。
格好をつけていた。自分には何も必要ない。興味があるものなんて何にもないと思っていれば傷つかないと思っていた。
そう思い込むことで、自分を諦めさせるしかなかった。
臆病で卑怯だった。
自分じゃ何も決められない。
本当に大事なことでさえ、コイントスなんかに頼ってしまう。
根本的に弱いのだ。
気付いていたのに自分で認められなかった。
助けを求めることは許さないと、下らなくて醜いプライドが私の心の入り口で立ちふさがっていた。
今なら、きっとそれを押しのけて外に出ていける。
口では直接言えなかったけれど、文章でしか形に、言葉にできなかったけれど、これが私の本心なのだ。
気付いてくれる人が居なくても構わない。
嘘だ。本当は気付いてほしい。もう一度だけ手を差し伸べて欲しい。
そうすれば私はきっと、今度こそその手を掴むことができるはずだ。
あるところに猫が居た。
その猫は家族を持たず、友達を持たず、知り合いさえいなかった。
猫は、若い頃こそ孤高こそが正しく、本来あるべき姿なのだと信じて疑わなかった。
いや、そう信じざるを得なかったのだ。
孤独しか経験したことがなかったから。
彼はやがて老い、身動きするのも億劫になってくると、こう考えるようになった。
なんで馴れ合っている他の猫達のほうが幸せなのか?
孤高こそが本来あるべき姿。
本来なら自分のほうが幸せそうに見えて良いはずだ。
そこで彼はようやく気がつくのだ。
誰しもが独りで生きていけるわけではない。
誰かと関わって生きていく方が普通だったのだと。
彼は後悔する。どうして気が付かなかったのかと。
どうして寂しさを認められなかったのかと。
そうして悲しみに暮れている彼の前に、一匹の猫が現れる。
「やあ、そんな顔してどうしたんだい」
そうして、彼は初めて友達ができたのだ。
ああ、今回は拒絶しなくて良かった、と彼は心から思った。
彼が開けた箱の中には、果たして何が入っていたのか。
一ヶ月かけて、病状の進行からくる身体の気だるさと戦いながら物語の殆どを書き終え、一番大きな出版社に応募した私は、猫にもう一度会えることを信じて、眠りについた。
「やあ、久しぶりだね」
猫は変わらずそう言って、器用に前足を上げる。
「私だけの物語、書けたわ」
「そうかそうか。それは良かった。もう応募はしたのかい?」
「ええ。結果が出るのは明日のはず」
「なるほどね。結果が出るのは怖いかい?」
「当たり前じゃない。でも、やれるだけのことはやったし、私は自分を信じてる。今はね」
「本当に良かった。それで、君は聞きたいことがあるんだろう?」
「ええ。そうよ。私、もう長くはないでしょう?」
「そうだね。もって後三日ってとこだね」
「やっぱり」
私は確信した。
この猫は、私自身なのだ。
初め、猫の姿が薄かったのは病状が進行していなかったからだ。
そして今、猫の姿がかなり濃いのは、病状がかなり進行してしまっているから。
私はもう長くはないというわけだ。
「怖くなったかい?」
「いいえ。言ったでしょう、やれるだけのことはやったって」
「そうかい」
猫はそう言ったきり、黙ってしまった。
「短い間だったけれど、ありがとう。今日はもう帰るね。また明日」
「ああ、また明日」
そう返事はしたものの、猫はどこか上の空だった。
私の応募した作品が入選したかどうか、出版されるかどうかが決まる日。
私はパソコンの前に齧りついて、リロードを連打していた。
何十回目かのリロードをクリックした時、あっけなく結果が表示された。
最上段に大きく表示された大賞の文字。その横には、私の名前が表示されていた。
急にパソコンをふっ飛ばして飛び跳ねたくなったが、我慢した。
嬉しかった。嬉しいという言葉では言い表せないくらい嬉しかった。
私は、確かにここにいたのだと、証明できることになったのだ。
その日は嬉しさのあまり食欲はわかなかった。
いつもより一時間も早くベッドに入り、目を瞑った。
「やあ。こんばんは。どうだった?」
「大賞受賞だって。ほんとにあの作品で大賞もらっちゃっていいのかな」
「君の努力の証だろ? あれだけ頑張って書いたんだ、評価されて当たり前さ。
君のあの必死さは、並の作家なんて比にならないくらいすごかったよ」
「そうね。ありがとう。それで、そろそろお別れよね」
「ああ、お別れだ。君は自分の人生に価値を見出すことができたかい?」
「もちろんよ。もう、悔いなんて……あれ……?」
私は頬にふと暖かさを感じた。
私の涙だった。
「そんな……もう、悔いなんて、悔いなんてないのに……」
言葉とは裏腹に、どんどん涙が溢れ出てくる。
この十数年分の涙なんだと思うと、親しみが湧いてくる。
「ほら、また嘘をついた。すぐに嘘をつくのは君の悪い癖だ。本当のことを言ってごらんよ」
猫は静かに言う。
「そんなの……そんなの、まだ生きていたいに決まっているじゃない!
私、自分の心を形にするのがあんなに楽しいなんて思わなかった!」
「そう。自分が思ったことを形にしたり、口に出したりすることはとても楽しいことなんだ。
君はようやく気がついたみたいだけどね。殆どの人間はそれに気が付かないんだ」
「でも、最後に見つけられてよかった。自分の好きになれそうなものが一つもない人生なんて寂しすぎるよね」
「君はこの数ヶ月間本当によく頑張った。今までの君を考えると、本当に人が変わったようだったよ。
そして、努力だけじゃなくて、結果をも掴み取り、生きる意味さえも見つけた。
そんな君を果たしてこのまま死なせてしまってもいいのか。僕は激しく疑問を感じるね」
猫が突然話を変えた。
「だから、僕から君に最後のプレゼントだ。これは、君の一生涯の中でも最も大きな箱だ。
開けるか開けないかは君次第。開けるにしろ開けないにしろ、君の冥福を祈るよ。それじゃあ、これでお別れだ」
「そうね。今までありがとう」
私は消え行く猫に最後の礼を言った。
誰も居なくなった暗闇を、私はどんどん歩いていく。
道の終わりは見えず、進んでいるのかさえもよくわからない。
たとえ、逆走していたって、私にはそうだとはわからないだろう。
そのまま歩き続けていると、私は少しずつ沈んでいくような感覚を覚えた。
息を引き取る、とか永遠の眠りにつく、とか言うけれど、最期の瞬間はこんなゆったりとした気分なのだろうか。
そう思ったのを最後に、私の意識は暗闇の中に沈んでいった。
暖かい風が、私の首筋をくすぐる。
くすぐったくて、私は目を開いた。
私がいたのは、真っ白で広い病室で、私の他には誰も居なかった。
どこか現実離れした部屋の白さは、さながら天国の一歩手前、といった感じだった。
もちろん、天国なんてものが存在すればの話だが。
ピコン、ピコンと鳴っている機械と、機械に表示された日付が、ここが天国なんかではないことを示していた。
枕元には、出版社の名前が書かれた封筒。
私は死ぬはずではなかったのか?
「だから言ったろう? 開けるまではわからないのさ」
どこからかそんな声がそんな声が聞こえた気がした。