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春が遙か  作者: 赤狐
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  Ⅷ 大人の世界


  

 浦田貴博は、第二志望の高校に入学した。

 第一志望の高校と比べると偏差値は大幅に下がるが、校内の雰囲気や自由度が高いため、不満は無かった。

 貴博は入学するとすぐに、中学の時にはあまりしなかった勉強をするようになった。今回の高校受験で、なぜあれほど勉強をしていなかったのかと自分自身に疑問を持ったからだ。貴博は、元から頭は悪くなかったため、すぐに知識を吸収することができた。そして、定期テストでも上位十位に食い込むほどの学力の成長を遂げた。

 さらに貴博は、勉強だけではなく、友人関係にも力を入れるようになった。学校帰りはほとんど毎日と言っていいほど友達と帰り、コンビニで買い食いをして、友達の家で遊んでいた。次第に女友達も出来たが、貴博は専ら男友達といるのがほとんどだった。女子の清純さよりも、男子の活発さの方が性に合ったのだ。

 貴博は、高校の場所による関係上、通学の際にはいつも酒屋と空き地の前を通っていた。その空き地には、柳のような木が一本だけ生えていて、貴博は通る度に眺めていた。だが、特に何も思うことはなかった。

 順調に大学受験に駒を進めた貴博は、都内一の難関大学を受験し、見事合格。同じ高校でこの大学に受かったのは貴博ただ一人だった。そのため、高校の教師達から賞賛を浴び、卒業式では校長から賞状を手渡された。友人達からも手荒い祝福を受け、貴博にとって高校生活最大の思い出となった。


 大学の入学式には、父親のスーツを借りて望んだ。すでに大学見学を済ませていたため、学問分野や校風は全て貴博の想像通りだった。ただ通学が少々面倒になったが、それほど気にはならなかった。大学は地元の駅から電車を二つ乗り換えた先にあるため、時間が高校よりもかかるようになり、通学路も今までとは反対方向になった。それ以来、空き地には一度も寄っていない。

 貴博は生物学部に進み、自分から積極的に学問を深めていった。特に、授業では扱わないような特殊な分野への勉強が目立った。存在が認められてない生物から、架空の生物、等。だがその研究はどれも実を結ばず、もはや自己満足の領域になっていた。ほどなくして貴博はこの研究を放棄し、本来の学問へと戻っている。


 そして在学中に、地元駅前のレストランのアルバイトで出逢った同い年の女性と付き合い始め、大学を卒業し、就職をすると同時に結婚した。この時、貴博の母は過労で死んでしまっていたが、健在だった父は涙を流して喜んだ。貴博は、養ってくれた両親へのせめてものお礼にと思い、今現在も仕送りを続けている。

 しばらくしてから貴博は、マンションの一室を購入し、長年住んでいたアパート、福寿草荘から出ることになった。父を一人だけ残していくのは不憫に思ったが、むしろそうして欲しいという父の声に押されて、引っ越しを決めたのだ。引っ越しをする際にかつての我が家、一〇三号室を大掃除したが、出てきたのはガラクタばかりで、何も思い出すことはなかった。

 空色水玉の傘を捨てる時も、夏休みの絵日記を燃やす時も。

 そして数年後には、妻との間に子供が産まれた。妻は産まれたばかりの我が子を見て、次はマイホームね、とえくぼを浮かべて笑った。

 貴博は理想の、幸せな家族を築いていた。子供は今年で一歳になり、貴博は二六歳になった。




 時間は早いな、と貴博は思った。

 バーボンが並々と注がれたグラスを手にし、口元へ運ぶ。喉が灼けるような感触。

 自室の床暖房の効いたフローリングに寝ながら、外の景色を肴に酒を飲む。これが貴博の一番好きな時間だった。

 だが、好きな時間ではあっても、決して心休まる時間ではなかった。むしろ好きという感覚すら、違うのかもしれない。まるで中毒性があるかのように、自然とこの状態になってしまうのだ。

 グラスを目線まで持ち上げ、軽く揺する。茶色の液体に浮かぶ小さな氷山が、カチリと硬質な音を立てる。そして、一口飲んでから、窓の外へと視点を変えた。

 この地上二二階からの眺めを見ると、決まって感じることがある。

 それは、言いようのない虚しさだった。

 体中が、もどかしさの鳥肌に覆われるような感触がして、心が浮き足立ってしまう。苛立ちや煩わしさを感じる時も、しばしばあった。

 それなら窓の外を見なければいいのだが、気が付けば自然とこの体勢を取ってしまうため、避けることができなかった。もはやこの動作は、習慣となっていた。

 なぜ、こうも空虚感を味わうのだろう。過去に何かあったのか。昔に同じことをしただろうか。いつも思考を巡らせるが、答えは絶対に出なかった。特に最近の記憶は、度重なる仕事のせいか混濁していて、酷く曖昧だ。なおかつ、昔の記憶もなぜか、これっぽっちも覚えてはいなかった。


 ――昔、どこかで、このように寝転んで、空を見上げていなかったかな。


 貴博は、喉を鳴らしてバーボンを飲んだ。だがこの日も、結局思い出せなかった。

 妻と娘のいる今の生活が、幸せだから、思い出す必要が無かったのかもしれない。もしくは、大人の貴博には、思い出している時間が無いのかもしれない。

 窓の外の世界は、空が近いせいか、濃く曇った鈍色に覆われていた。

 そして、季節は巡る。



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