寒立紫乃と2杯のSカップ
『カフェ堂島』は知る人ぞ知る名店だ。
駅から少し外れた所にあり、内装も外装も地味ではある。
だが、マスターこと堂島さんが長年の研究で産み出したこだわりのブレンドと、東京の人気チェーン店から取り入れたシステム。その2つによって、この鷹岡市のコーヒー店業界に革命を起こしたのだという。
しかし、後にそのチェーン店が地元の駅ビルに進出し、客の大多数はそちらに移ってしまったらしい。
それでも、今でも多くのファンが集うような、隠れスポットなのである。
そんなある日。豆の風味が漂う、カフェ堂島にて。
バイトである僕……千畳敷和哉はテーブルを拭いていた。一度拭いたような気はするが、しかしやることがないのだから何度拭いてもいいだろう。拭きすぎて汚くなることなど無いだろうし。
時刻は3時少し前。ちらほらとテーブルが埋まっているけれど、満員でもない、そんな時間。
暇、なのだ。
普段ならば、カウンター前の3席は常連の集団で埋まり、僕はその人たちと雑談を交わし、暇を潰せるのだが、今日に限って何故か誰もいない。
情報通、嘘吐き、力自慢。そんな個性の塊のような三人は、お互いの職業などは一切詮索せず、ただコーヒーを楽しみながら話に興じているような、ちょっと異質な集団なのだが……実は憧れに似た、強い興味を持っていた。しかし、これでは僕は退屈すぎて仕方がない。
「センジョウくん。そこのテーブルは終わった?」
思いを馳せようとしたとき、声がかかった。綺麗な声だ。どこか艶っぽいと感じてしまう、そんな声。
僕をセンジョウくんと呼ぶ人は一人しかいない。
僕はその音色が奏でられる先へ首を向けた。
「終わってますよ。寒立先輩」
向いた先には女性。黒く艶やかなロングヘアーと雪国の女性らしい肌。髪は今は後ろで結ばれ、まとめられている。
格好は白い店の制服と茶色のエプロン。そして黒のストッキング。ちなみにこの黒ストは自前だそうだ。趣味、だという。
寒立紫乃。僕の先輩である。端的に言えば、美人なおねえさん、だ。僕よりも年上で、色っぽく、頼りになる。
「そう。じゃあ、少し奥で休みましょうか」
こっそりね、と。
そう言って、くるりとターン。奥の休憩室へと向かった。
休憩室。テーブルと4つの椅子、それに従業員用の冷蔵庫が置かれた、よく言えばシンプルで悪く言えば殺風景という待機場所だ。
先輩の向かいに腰掛けると、今まで酷使……という程でも無いが、立ちっぱなしだった足がため息をついた。
正面に座る先輩がしゅるりと髪を束ねていたゴムを外した。はらはらと黒髪が舞うのを、ぼーっと見つめていた。
「それにしても、暇ね」
ふわり、と。そんな風にいい香りを漂わせ、前屈みになり、先輩が僕に顔を寄せる。
身体が一気に緊張した。先輩が前屈みになると僕は困ってしまう。
開いた制服の襟元から白い首筋が顔を出し、大きめの胸が机で少し形を変えてしまうからだ。
嗅覚と視覚をダブルで刺激され、心臓がドクドクと踊る。恋愛経験の無い僕にとってはもうホントありがた…………ツラいのだ。
少し目線をあげると、余裕たっぷりな笑み。恐らく、知っててわざとやっているのだろう。そういう人だ。
心中の焦りを表に出したら負けた気がする。僕は必死に口を動かした。
「……実際、僕らって雇われてる意味はそんなに無いですよね。店員の仕事って掃除とレジくらいですし」
「ホント。一日中、ただ立ってるだけ。ただ退屈なだけ」
先程紹介した通り、ここのシステムはチェーン店のそれと同じである。
まず、お客さんはカウンター近くの注文スペースに来て、メニューを見てコーヒーを選ぶ。
次に、チェーン店のようにサイズを選ぶ。サイズは簡単に言えば大中小に分けられており、それによってカップが変わる。
最後にマスターが淹れ終えたら、後は各自でお好きにどうぞという具合。
だから、僕たちはお客さんが来て、帰るまでの間には仕事はないのだ。
「センジョウくん、何か面白い話題ない?」
「……えげつない無茶ぶりですね。あ。そう言えば、その『センジョウくん』って呼び方、僕ずっと気になってたんですけど」
「千畳敷だからセンジョウくん。不満?」
「まあ、不満ってことは無いですけど。ただ先輩のイントネーションが気になって」
イントネーション? と、先輩は首を傾けた。
他人にとってはどうでもいいかもしれないが、僕にとっては譲りたくないことだ。
「先輩のって『センジョウ』じゃなくて『センジョウ』なんですよね。洗浄とか、戦場みたいな」
「良いじゃないの、『洗浄くん』。クリーンなイメージで」
「それもう洗剤の商品名みたいじゃないですか……嫌ですよ、僕」
「あるいは、『扇情くん』ね」
「……絶対止めてください」
「善処するわ、センジョウくん」
「もとに戻ってるし……いや、もうそれでいいです」
ふふっと寒立先輩の笑い声が聞こえた。つられて僕も笑う。もっとも僕のそれは疲れ果てた上での苦笑い、だが。
先輩との会話はテンポが良くて楽しい。しかし、こちらのカロリーをかなり使うのが、たまにキズ、だ。
読書をする先輩とスマートフォンをいじる僕。思い思いの休憩を過ごす中。
カランコロンと鈴が鳴り、店のドアが開いた音がする。
ようやく仕事がやって来たのだ。僕は注文スペースに移動する。
今回のお客さんはスッとしたスーツを身にまとう、メガネをかけた女性だ。ピッチリとしていて、いかにもキャリアウーマン、出来る女性に見える。
「いらっしゃいませ。メニューはこちらになります」
顔を見たことはない。大体限られた人しか来ないので、誰が新規さんなのかは僕でもすぐ分かる。
「……ブレンドを」
「はい、『マスターのこだわりブレンド』ですね? サイズはどれにいたしましょうか?」
何で商品名を全部言わなくちゃいけないのかなぁ。ちょっと恥ずかしいんだよね、コレ。
なんてことを考えながら、淡々と、事務的にこなしていたが、ここでテンポが乱れた。
女性はじっと、サイズ表を見ている。名称と高さが書かれているそれを、険しい表情で睨んでいた。
「えっと……サイズは?」
「……スモールサイズを、2つ」
「かしこまりました。少々お待ちください」
リズムよく、流れ作業的に。
マスターに注文内容と共に、小サイズのマグカップを2つ、持っていく。
それにマスターが流れるように、踊るように淹れる。濃厚な香りが周りの空気を支配する。
出来上がったそれを注文スペースに運び、渡す。これでおしまい。後は女性が帰るまですることがない。
何気なく視線を動かすと、先ほどの女性が見えた。向かい合って座れる、二人用テーブルに座ったようだ。ノートパソコンを正面に開き、片手でカップを1つ持ち、飲んでいる。
そして、もう1つのカップは、ノートパソコンの向こう。向かい側の椅子の前に置かれている。湯気をたてて、飲まれるときを待っている。
その光景を見て、何となく違和感というか、不思議に思った。
そう言えば、何であの人は小を2つも頼んだのだろう?
中くらいのサイズではなく、だ。
「へぇ。そんなお客さんがいたのね」
そんな話をさらっとしたのだが、意外にも先輩は興味を持ったらしい。
わざわざ顔を確認したほどだ。どうやら僕よりバイト経験の長い先輩でさえも知らないらしい。
結構こういう話が好きなのかもしれない。謎、とか。
「変な人もいるものですね」
別にこの話題を深める用意も、深めるつもりも、さらさら無かった僕はあっさりと流そうとした。
と、急に室内の温度が冷えた。
いや、違う。寒立先輩の視線が冷たくなったのだ。
「ーーセンジョウくん? 仮にもクリエイターを目指すような、そんなあなたがそんな陳腐な、かつチープな回答で逃げるつもり?」
「え?」
まあ、確かに僕はクリエイターに属する職業、小説家になりたい。
そう言えば、そんな夢を先輩に語ってしまったような気がする。あまり興味がないような雰囲気だったのだが、覚えていてくれたようだ。少し嬉しい。
「いい? 人は誰しも物語を持っているわ。センジョウくんのように名前だけ目立ってて、中身に個性が無い脇役みたいな人でも……主人公なのよ」
「……あれ? 今なんか僕、無駄に傷つけられましたよね?」
ともかく、と。寒立先輩はピンと指を立てて、言うのだ。
「小説家志望なら、あの人の物語を推理し、想像してみなさい。あの人が2つのSサイズを買ったバックグラウンドを」
無茶苦茶な……と、思ってはいても威圧感によって声が出せなかった。なるほど、確かに脇役っぽい。
さて。こう見えても僕はオールラウンダーな小説家志望。推理小説は好きだし、実際に執筆にも手を出したことがある。
もっとも実際は自分の適所を探っているだけであり、どれも中途半端なのだが……そこは置いておくとして。
僕は、推理にはそれなりに自信がある。
ここは安楽椅子探偵の真似事でもしてみよう。
「一番無難なトコで言えば、アレじゃないですか? 誰かと待ち合わせ、ってパターン」
「マイナス30点」
無機質な声が響く。
というか点数制……!?
「……プラスでも無いんですね。いや、予想はしてましたけど」
「だって平凡ですらないもの。愚鈍。とにかく愚か。1周回って憐れみを覚えるわ」
そう言いつつ、視線は温かくない。憐れみなど無い。より冷たく、痛い。
「何で先に相手の分も注文してるの? 相手の好みもあるし、何より冷めるでしょうに……」
「あ、それです! 女性は猫舌。コーヒーを冷ましたい。だから、別の座席の方へ寄せた」
「……片方は普通に飲んでいたんでしょう?」
そうだった。それは2つ買った理由には繋がらない。
数十分後。未だウンウン唸りながら僕は考えていた。
「頭をもっと柔らかく、よ。物語を読み取らないと」
柔らかく、と言われても。
はっきり言って、お手上げだ。
別にあの人が何を考えていたのかなんて……と、そこまで思考を働かせて、気づく。
僕は、彼女の物語を想像するように求められた。
けど、実際。僕は本人を見ていなかった。見ようとしていなかった。
人には心がある。けれど、僕はその心情を読み取ろうとせず、周囲の状況だけで判断しようとしていた。
小説家志望が聞いてあきれる。
考えろ。考えろ。
注文のとき。不審な点はなかったか?
そうだ。サイズを選ぶときに、一瞬リズムが狂ったんだ。
あの時の彼女は、どんな顔をしていた?
組み立てろ。
女性。2つのカップ。小さなサイズ。険しい表情……。
その時の僕の感覚を表現するならば、まさに稲妻が走ったような……と形容する。
それほどの衝撃を感じた。
見つけた。これが彼女の物語だ。
「聞いてください、先輩。今回のお客さんに隠された物語は……」
肺を洗うように、息を吸い込んだ。
先輩は、興味ありげにこちらを見つめる。
「悲しい恋の物語です」
僕は、カラカラになった口内に唾を含ませる。そして、語り出した。
「女性が2つ買った理由は、おそらくもう一人の人物のためです」
「センジョウくん、でも……」
何か言いたげな先輩を手で抑えつつ、僕は続ける。
「そのもう一人とは……今はいない大事な人、おそらく彼氏でしょう。彼女は、その彼氏との思い出の場所であるカフェ堂島、そして思い出のコーヒーであるブレンドを飲みに来たんですよ」
目を閉じ、思いを馳せる。
おそらく注文の際に険しい表情を見せたのはそれを思い出したからだったのだろう。
「彼の分のコーヒーもしっかりと買って、です」
これだ。
今は亡き彼氏に捧げる、思い出のコーヒー。
これが、あのお客さんのバックグラウンド。
「どうでした?」
「どうでした、って……何というか気持ち悪いわね」
「えぇ!?」
「まあ、でも最初のよりは遥かにマシよ。58点くらいはあげてもいいかしら」
ただし……と、浮かれそうになった僕に告げる。
「これ、間違っているわ」
「でも、それは聞いてみないことには……」
そう。分からない。本人に聞かなければ、正解かも不正解かも分からないはずだ。
「そもそものところで違うって言っているのよ。私もあなたも、あの人を見たことがない。先輩との思い出のブレンドっていう部分が一気に崩れるのよ」
確かに。
なるほど。勢いで設定を盛り込んでしまったが、これは失態だ。
やはり僕には向いていない。
じゃあ結局、何が真実なのだろう?
「そうね……。センジョウくん? 彼女が来店してから注文するまでを詳しく聞かせてくれないかしら。あなたが見聞きしたありのままで、ね」
そう言って、先輩は目をつむった。
今の流れで眠るわけがない。つまり、目を閉じた理由は集中するため。
まさか、推理をするつもりなのだろうか?
つくることは出来なくても、伝えることはできる。
語り手として、僕はくだらない細部までも語った。
語り終え、しばらくしても先輩は目を開かなかった。
不思議に思い、顔を寄せる。もしかすると本当に眠って……?
端整、を形にしたような顔だ。白い肌に赤く光る唇。ツヤツヤとしているそれは、きらびやかな色彩で人々を誘う花のようで。
僕は、しばらくその芸術作品に見とれていた。
「先ぱ……」
パチリ、と。長いまつげを上げ、先輩の瞳が現れた。
慌てて顔を離す僕に対して、いつものようにフフフと笑う。余裕たっぷりな笑みを、浮かべる。
「それじゃあ、センジョウくん。ちょっとあの人に話しかけてくれないかしら?」
「え? 何でまた……」
「ーーいいから。まず耳を貸して」
先輩が近づき、また香りが漂う。続いて黒髪が僕の体を撫でた。
温かい吐息が、僕の耳に当たる。くすぐったい。おそらく耳は真っ赤になっているだろう。
「ふぇ? そんなことで良いんですか?」
羞恥と緊張で裏返った僕の問いに対して、先輩は微笑を浮かべながら静かに頷いた。
「ありがとうございましたー」
女性が店内から去っていく。鈴の音と共に去っていく。
結局、僕はあの後すぐに、少し理由をつけて接近し、先輩の言葉を伝えた。
「サイズの表記が分かりにくくて申し訳ございません。こちら小さい方から順番に、Sはショート。Tはトール。Gはグランデとなっております」と。
結果はビンゴだった。女性客は顔を赤らめつつ、「ああ、そうでしたか……」と呟いた。
今さら言うなよ、みたいな非難の目を浴びせながら。
このカフェ堂島のシステムは若い頃のマスターが、東京のチェーン店から取り入れたもの。
サイズ表記もまた、そこから取り入れていた。
そう言えば、彼女はS……つまりショートを頼むときに、スモールと言っていた。
僕はそれで伝わったから敢えてスルーしていたが……そこがキーだったとは。
サイズの読み方が分からなかったから、中くらいのサイズを頼めなかった。でもこれでは、量が足りない。だから、険しい表情を浮かべ、唯一分かりそうなSを2つ注文した、と。
そんなオチだと、先輩は言う。
いや、確かに矛盾はなさそうだ。事実関係的には。
でも、それはあまりにも、何というか納得がいかない。
何かが引っ掛かり、まさに落ち着かない。
やがて、僕は喉に刺さった小骨のような違和に気づき、指摘した。
「じゃあ、何で指を差さなかったんですか? 大中小は分かるのだから、それで済むじゃないですか」
あるいは、「T」と言えばいい。それで済む話だ。
なのに。わざわざSを2つ頼んだのは、何故か?
しかし、その疑問に対し、先輩はあっさりと返してきた。
まるで予測していたかのように。
「そうね。それを語る上ではまずセンジョウくんの誤解を解く必要があるわね」
「誤解……?」
「あの女性。別にキャリアウーマンなんかじゃないわよ。むしろ新人さんね」
ふっ、と。先輩は息を吐き出した。小休止。
やがて、再びその唇を動かし始めた。
「デキる女というのはね、抜くときは抜くものよ。そういうメリハリがあってのイイ女、なのだから」
だけどね……と、先輩は続ける。
「彼女は違った。センジョウくんからすればピッチリと決まっていたから勘違いしたのでしょうけど……その逆。余裕がない人ほど気を張り、格好で見栄を張るの」
見栄を張る。虚勢を張る。
初めて来た、お洒落なコーヒーショップ。そんな場所で読み方を間違えてしまっては格好がつかない……とでも思ったのだろう。
だから、か。
「だから、読めないなんて知られたくなかった……ですか」
先輩は頷き、指先で宙に丸を描いた。
名探偵がこんな身近にいるなんて。
さながら、僕は探偵助手。またしてもパッとしない脇役だ。
けれど、不思議と満足していた。これは主役の華やかさのおかげだろうか。
人生が物語であり、人々は主人公。
ある物語での脇役は違う物語で主人公となっているかもしれない。
そして、登場人物にも個性は色々あるわけで。
僕のような脇役にとっては、くだらないこと。
だけど、主役である彼女にとっては、彼女の物語の中では、絶対に譲れないこと、だった。
「人にはそれぞれ物語がある、ですか……」
「そうね。でも……それを超えるような小説、期待しているわ」
ウインクしつつ、そんなことを言う。二重の意味でドキリとした。
これはまたハードルが高い。
けれど、この先輩に期待されてしまっては応えないわけにはいかないだろう。
カランコロン、と鈴が鳴り、僕の出番が訪れる。
コーヒー店のバイトなんて、まさに脇役だ。
脇役は脇役らしく、頑張る主人公たちにしっかりと華を持たせてこようじゃないか。
先輩に頷きを返し、小走りで駆け出す。
いつかちゃんと、僕は小説を書こう。僕が主人公の物語を。
推理が向きでないならば、次のジャンルは恋愛でどうだろうか。
いつか、きっと……。
と、視界の端に映る黒髪を見て、思った。