厭な怪物
冬にホラーもまた一興。ささっと読み流してやって下さい。
すっごい潮臭かったわけ。
だから私、そいつが海から来たんだってのはわかった。だって海の匂いがしたんだもん。海の匂い。伝わるかなあ。
磯臭いっていうの? 海水浴にきて、水着に着替えて、さあこれから泳ごうってときにさ、ビーチサンダル履いて砂浜行くわけじゃん? で、海を前に臨むわけじゃん。
そんときの匂い。海そのものっていうか、海! っていう匂い。
ずっと嗅いでると、鼻の奥がひりひりしてきて、軽い痺れみたいな感じが伝わって、そのうち喉までびりびりしてくるのね。で、なんか、スースーって、無駄に鼻呼吸がしやすくなっちゃって。
どきどきした。
え、なにこれ、この感じ、みたいな。
あいや。なにこれ、っていう驚きより先に、まず私は思ったよ。
厭だなあって。
そう。
厭なの。
なんとなく、厭だなあって。
磯臭いだけでもさ、なんか気持ち悪いじゃん。ていうか、違和感? 私の地元、山ばっかだし。近くに海も港もないわけよ。だから、あれ? ってなるわけじゃん、はじめに。なにこれ、って認識する前に、ほとんど反射的に。
心臓んとこで、むくむく気持ち悪いのが大きくなったわけ。
で、ふと振り返ると、やつがいた。
翠色の怪物ね。海からきた。苔の塊みたいな。
手や脚はなかったと思う。お椀をひっくり返したみたいな全身してて、そう、びっしり苔だか海藻だかみたいなひだひだが生えてて。
磯の匂いがするの。
で、ずず、ずずず、って。
こう、地面と接地してる部分、――一応、脚はあったのかな。ひだひだに隠れて見えなかったけど。
全身をこう、引き摺るようにして。
ずずず、ずずずず、って。動いてた。
私がいる方に向かってね。
苔だか海藻だか分からないもんぶら下げて。
身体はデカいんだ。民家の塀、楽々越してたから。
三メートルはあったのかな。
でね、全身を引き摺るわりには、意外と速いの。
軽く自転車を漕いだくらい。
どんどん私の方に迫ってきた。
ああ。いや。ていうか。
私の方っていうか。
私が立っている方向ね。
翠色の。直視したわけじゃないんだけど、きっとプールの底みたいにぬるぬる、ぬらぬらしたそれ、塊。
で、私、やっと驚いて、逃げたの。
後ろから来てたから、前に逃げた。
確か曇り空だったなあ。右手に傘を持ってたから。走り辛くて走り辛くて。
何度かこけそうになった。
臭いはずっと続いてた。海の臭い。
それと跫。
ずずず、ずううう。
たまに加速でもしてたのかな。音が変わる瞬間、希にあったから。
もう、ね。気持ち悪いったらなかった。
厭で厭で堪らなかった。
走ってると、お腹が痛くなってきた。
まあ、どちらかといえば早歩きに近かったんだけど、体育の授業以外じゃ、滅多に運動なんてしてなかったからさあ。
距離が詰まった分だけ本気で走るって感じだったかな。
ずっと早歩きなままだと、追いつかれちゃう気がしてさ。
いや、実際は知らないよ。振り返って確かめたわけじゃないから。ただ、なんとなくで。背中に感じる、気配? 雰囲気で。
ぼんやりとした感覚で。
厭な感じって分かるから。あ、近づいてる! キモッ! って。
まあ、キモいっていうよりかは。
やっぱり、厭だなあって感じなんだけど。
うん。厭。
てか、他の人はなにしてんのよって思った。
誰かあいつを止めてよって。
だって厭なんだもん。
気味悪いし、臭いが強いから。
それにきっと、害、あるしね。
放っとけば、絶対そのうち問題起こすから。たぶん。
私以外の人には見えてない、ってわけじゃなさそうだった。
だって、散歩中のお爺さんとか、それを見て腰抜かしちゃってたし。で、座ったまんま、必死な感じでおおぉおおぉって拝み出しちゃってたし。
小学生の一団とか、私の後ろを振り返るなり、悲鳴を上げて私より速く遠くまで逃げていっちゃったし。私、心のなかで薄情者ォ! って叫んだ。年上なのにね。
私もダッシュで逃げようかなって考えた。
でも、私がダッシュで逃げたら、背後のあれも猛スピードで追ってくる気がして出来なかった。ていうか、私はいつのまにか、私、標的にされたなって確信しちゃってた。そんなこと有り得ないんだけど。追われるような事してないし。
そもそも、あいつが何者だったのかも分かってないし。未だに。
標的、変えてくんないかなあって思った。
厭だ厭だと思いながら。
思い切って通学路から逸れてみた。
いつもなら直進する道を右に折れてみたわけ。
ちなみに、直進すれば駅があるわ。当然、ラッシュ時だから人でごった返してるはず。そこに行け! って思った。
あっちに行け。私の方じゃなくて。
あっちを狙え。
そう思った。
ずず、ずずずう。
こっちにきた。
なんでよ。
どうして私なのよ。直進すれば人が一杯なのに。
ずずずう
お腹一杯になれるよ。
ず、ずずず
どうせ、腹が減ってるとかだろう。食べようとして追いかけてるんだろう。だったら駅を目指しなさいよ。
食べ放題だよ。
ずずずずう。
帰ろうか悩んだ。迂回しても、自宅まで二百メートルなかったし。鍵掛けて籠城したかった。
家にはまだ、お父さんもお母さんもいる。いたはず。お父さんは八時廻っても朝食を食べているし、お母さんは専業主婦だから、買い物以外では家を離れない。少なくとも、お母さんはいる。そうだ。私の右ポケット。
うっかりしてた。
携帯持ってたんだわ。これで助けを呼べるじゃん。
家に電話しようって思ったわけ。
でね、ポケットから携帯を取り出したの。
ぶおお。
そのときに、微温い潮風、みたいな。
そんなのが突然、後ろからさ、覆い被さるようにぶわあって掛かってきて。私、びっくりして。
携帯、落っことしちゃった。
がつんていった。
ストラップが吹っ飛んだ。
壊れたと思う。
最悪。
「ぶおお」
まさかの二回目。
微温い潮風が、ねっとり絡みついてきた。
厭な鳴き声。法螺貝吹いたみたいな。
臭いし。
汗を吸ったシャツみたいな微温さだし。
気持ち悪かったあ。もう、本当に。
厭。厭すぎる。
他人のゲップを頭から浴びた気分。
磯臭いゲップね。それもちょっと温かい。
食道を酸っぱいものが逆流してきた。やばい。吐くって。
マジで気持ち悪いって。
制服にも髪にも臭い染み付いたって。
首筋がべたつく。
やがて、べとべとはむずむずになって、痒くなった。
すっごく痒い。でっかい蚊に何箇所も刺されたみたい。
でも掻こうとは思わない。
毛穴から、なんか胡麻みたいな、蟲の卵みたいなぶつぶつが大量発生してる。
そんな気がして。
厭だったから。きっと。
爪を立てたら、血が出てくる。か、蛆がうねうね畝って湧いて出る。気がして。
我慢した。
髪が項に触れるたび、粒が潰れるようなぷちぷちという音がした気もするけど。
ああもう。
厭だ。厭だ厭だ厭だ。
どっかいけって。
こっちくんなって。
厭なんだって。
もう家は駄目だ。
離れすぎた。いま通り過ぎた角を曲がらなかったから。
斜め前方のカーブミラーを見た。
写っているのは、私だ。それと、その後ろに。
いる。
うわあ。こいつ、口ついてんのか。
目は。
ないのか。
ないっぽい。
じゃあ、どうやって追ってきてんだよ、こいつ。熱? 脈拍鼓動? 跫?
熱を感知してんのか。
それとも息遣いを追って? はあはあどきどき。こいつは聴覚が異常なほど発達してるのか。
だって海から来てるんだろう。魚って耳ついてんのか。ついてたっけ。
目がない魚はいるよね。深海魚なんかそう。暗闇で生活するから視覚を必要としないんだ。
こいつもそうなのか。
暗闇で生活するから、ていうか、本来は海底に棲んでてて然るべきだから、目がないのか。
ずずずずずずう。
だったら海に帰れよ。
二度と浮上するなよ。
お願いだから。マジで。
ずずずずう。
ぷちぷちぷちィ。
なんか弾けた。首の後ろが温かい。
いや、温かい、とろみのある液体みたいなのが這ってる。
きっと半透明だ。で、なかに黒いぶつぶつが浮いてる。
卵だ。
あの、怪物の。
種子。
厭だ。
寄生虫かも。
ますます厭だ。
背筋まで這ってきた。肌が現在進行形で気触れている気がする。
いや、黒いぶつぶつに食い荒らされているのかも。よく見ると、小さな小さな口がついていて。鋭い歯も揃っていて。きっと歯茎もちゃんとあって。
背中を齧っているのかも。
ああ、痒い。
背中が痒い。痛痒い。
齧られてる食べられてる。
身体のなかに入ってきてる。
厭だ厭だ。
全力で逃げた。
右に折れ、左に折れ。
人通りが多い道を選んで走っていたら、駅に着いた。そうだった、私は学校に向かう途中だったんだ。それを思い出して、構内に続く階段を昇った。
一段飛ばしで駆け上がる。
スカートがひらひらと舞った。
構うもんか。下着ぐらい見せてやる。
見せても大丈夫な柄を穿いているんだから。それに、パンツどころじゃないから。
ああ厭だ。
しっかり追ってきてるんだから、あいつ。
やっぱりだ。
やっぱりそうだ。私が全力で走ると、あいつは一定間隔を開けてぴったりと後をついてくる。
ずずう。
階段を昇ってきた。
だから、身体の構造どうなってんだよ。
お前脚ねえじゃん。
目も耳も。
無茶すんなって。体幹後ろに傾いてるじゃん。
苔だらけの藤壺みたいだな。
いっそ転がっちまえ。
お椀型だから、よく転がるぞ、きっと。
いや、それとも。
全身のひだひだが、粘着液を分泌してたりして。だとすれば、漫画みたいには転がらないか。玩具のスライムを叩きつけたみたいに、下がぐちゃりと潰れて、ぶつかったところは抉れたみたいに凹んで。
で、じわじわと、時間をかけて回復しちゃうのかも。
絞ったら海水が出てきたりするのか。
ぬるぬるしてそうだな。
定期券を使って改札を抜ける。構内は悲鳴と磯の臭いに満ちていた。
私は期待した。
これだけ人が多いんだ。標的から外されたかもしれない。
逃げ切れたかしら。
プラットホームに降りる。
避けきれず、新聞を読んでいた親父を勢い余って押してしまった。親父が怒鳴る。
この野郎。
よく見て歩け。
こら、どこに行く。
そこの君だ、君。
女子高生。
聞いてるのか。
ずずずずう
な、なんだあれ。
ずうずう
おいおい、なんだよ。
嘘だろう。
ギャアッ。
親父は私の後ろを見て、絶叫した。
ずずずうずずずず
逃げ切れていなかった。
ずずうずずう。
ぐうぅ。磯臭い。
――ドアが閉まります。ご注意下さい。
間一髪、私は電車に飛び乗った。ぶしゅうと音がして扉が閉まる。
あいつは。
どこ。
どこだ。
今度こそ逃げ切ったか。
やった、扉の外だ。
電車が動きだす。
ずずずうずずずうずずずう。
執念深く、翠色の怪物は私のいる車両を追ってきた。加速する前とはいえ、奔る電車としばらく並走していたのだから、かなり速かったと思う。ひだひだを振り乱して透明な汁を撒き散らして。
よく見ると、脚っぽいものは確かにあった。
唇が忙しなく開閉している。バテているのか。どことなく呼吸が辛そうだ。
顔色(――顔色?)も悪い気がする。どこからどこまでが顔で胴体かは解らないが、全身の上半分、口の更に上部分の色素が、少し落ちている。
顔が白んでいた。
疲れている、のだろうか。
どうでもいいけど。
二足歩行であることは判明した。
肺呼吸なんだろうか。
まあ、いずれにせよ。
気持ちが悪い。
いい加減、諦めろよ。もういいだろう。
電車が駅を飛び出した。
轟轟とプラットホームが小さくなる。
ずずう。
ずうずう。
怪物が、線路に降り立った。
きちゃったよ。
厭だ厭だ。
厭だってば。
追いかけてきた。
私が乗った車両は最後尾だ。その様子は厭でも目についた。
ひだひだを腕のように振り回して追ってくる。
ああ、厭だ。
そのとき、私は理解してしまった。
私を捕まえるその瞬間まで、あいつは、止まらないのだと。
い。
厭だ。
捕まったら、あれは私をどうするんだろう。
もしかして、次は私が、あれを追いかける番になるとか。
鬼ごっこみたいに。
そんな莫迦な。
決まってる。食べるんだ。
食べられてしまうんだ。
なんとなくだけど、やつに歯はない気がするから、吸われるか、啜られるか、丸呑みにされるかしてまうんだ。そう思ってた。で、胃袋で消化されてしまうんだって。
でも、そんなの。
絶対に、厭だ。
厭じゃないわけがない。厭じゃないというやつは頭がおかしい。気が触れているとしか思えない。ああ、厭だ。厭で厭で堪らない。まだ死にたくないし、死ぬにしても食われるなんて以ての外だ。私はせめて老いて死にたい。こんなところでは死ねない。
首が痒い。また弾けてる。
ぷちぷち。
でも触れない。
触って、それの正体に気付いたら、平常を保っていられないと思うから。
ああぁぁ。
厭だ。
何もかも厭だ。
食われるのも厭だ。
絶対に。誰がなんていおうとも。
死にたくない。
逃げ切りたい。
――次は終点。終点。
電車が止まる。扉が開く。
磯の臭い。
ずずず。また悲鳴。絶叫。鳴き声。
「ぶおお」
ついに学校まで追ってきた。下駄箱を駆け抜け、級友を押し分けて階段を駆け上がる。地獄の釜をひっくり返したら、きっと亡者はこんな声で絶叫するんだろうなってくらい、悲鳴が上がってた。
私は、ほとんど何も考えずに教室を目指していたわけだけど、
ふ、と思った。
背後のあれは段差に手古摺っていて、私は視界から外れている。
目が見えていればの話だけど。
やり過ごせるんじゃないかなって思った。
トイレに逃げた。
一番奥の個室に入って、内側から鍵を閉めた。
しゃがみこんで、耳と口を覆った。息を吐くのもなるべく控えた。
ずずうずずう
トイレの前を、巨大な影が通過するのが分かる。ぶおお。行け、通り過ぎろ。ぷちぷち。
気づくな気づくな気づかないで。
気づかれたら厭だ。厭厭厭。もう、駄目だから。
逃げ道ないんだから。
私はずっと、膝を抱えて小さくなっていた。
終わり。
「――これが、私が知ってることの全て」
母親の鏡子がため息をつく。背後に控えた、刑事と名乗る嶋袋と顔を見合わせた。
「一週間前から、ずっと、この調子で……」
鏡子は、白いベッドで横たわる我が子の手に自分の手を重ね、涙ぐむ。
「お医者様がいうには、娘は、無意識のうちに事件のショックから逃避してるんだろうって」
「そうでしょうな。無理もない」
嶋袋は辛そうに眉間を指で押さえた。
「なにせ、ひとクラス、皆殺しだ。朝学校に来てみたら、教室にはバラバラの死体が山積みという状態。未だ犯人は逃走中。しかも、犯人の目撃証言はなし。まるで怪人の如く、事件現場から消え失せてしまった。――嘘みてえに莫迦げた事件だ」
凶器は鉈や斧のような強力なもので、犯人は死体を解体(――というより破壊)した後、薬品か何かを振り撒け、肉と骨とを溶かしていた。
現場は凄まじい死臭に満ちていた。
「あははは。違いますよ、刑事さん」
由佳がけらけらと笑った。
「怪物はひとじゃないんだから、犯人、という単語は相応しくありません。――怪物が狙っていたのは、私だった。でも、怪物は私を見失った。だから、怪物は憤慨して、私のクラスメイトを食っちまったんです。それで、海に帰ったんです。目撃者なんて見つかりませんよ。怪物は怪物なんですもの。文字通り、液状化するかなんかして海水に溶けてしまったんだ。見つかりっこない」
嶋袋は言葉を詰まらせた。鏡子の嗚咽が痛々しかった。
「ああ、でも」
由佳は思いついたように言った。
「食い損ねた私を、あいつが諦めてないんだとしたら」
また、会えるかもしれません。
死ぬほど、厭ですけどね。
嶋袋は病室を出、喫煙所に向かった。
厭な気持ちを煙と共に吐き出す。しかし厭な成分は微塵も減った気がしなかった。
厭な少女で、
厭な話だ。
人間、気が触れるとなにを言い出すか解ったもんじゃない。
喫煙所を出る。
廊下でナースとすれ違った。胸には研修中とある。軽く会釈した。
ずずぅ
そして。
嶋袋はある異臭を嗅ぎ取った。
これは。
病室の、由佳の哄笑が耳に響く。
この臭いは。
なんて、厭な。
厭な……。
すれ違ったナースに振り返ろうとして、やめた。なにか、厭な発見をしてしまうような気がしたから。
何にも、気づかなかったふりをした。
暇潰しにでもなれたならこれ幸い。