病院の恋(8)
赤ん坊の泣き声がする廊下を歩きながら俺は周りをきょろきょろと見渡した。
基本的に風邪とかにかかりにくいので、病院自体もあまり行かないのだけど、産婦人科はさらに縁遠く、初めてだ。
薄いピンク色の壁は、何となく女性らしい気がして、やっぱり俺が今入院中の内科とは違う感じがする。
「そう言えば、あんまり妊婦さんっていないんだな」
「今は診療時間が終わっているからね。だから私も休憩に入れたのだし。今は出産した方と、ちょっと状態が良くない妊婦が入院しているだけよ」
「前に幽霊を見た時も、人気は少なかったのですか?」
「ええ。これだけがらんとしているから、廊下でうずくまっている子が余計に目立って、心配になって声をかけたの」
確かに人のいない場所だと、目につくだろうなと思う。大きな鏡でもあれば見間違えたりもするかもしれないが、それらしきものはない。
「あの。失礼ですけど、近藤さんと、もう1人の看護師の能力を教えてもらっても?」
「私は【無効化】でBクラスよ。能力の無効化ができるわ。一緒にいた同僚は【手当て】の能力者でCクラスよ」
疑っているとも捉えられない影路の質問だったが、気を悪くした様子もなく、近藤さんは答える。
「変に気を使われるより、すぱっと聞きたい事は聞いて、早く解決してくれる方がありがたいから、遠慮はしないで」
「やはり早く解決した方がいいですか?」
「ええ。下手に幽霊の噂が広まって妊婦が不安がっても困るし、逆に幽霊の所為で怪我をする人が出ても困るのよ。だから幽霊の仕業でも、人為的なものだったとしても、何でもいいから収まって欲しいというのが私の正直な気持ちね。ここには、赤ちゃんも居るからね」
近藤さんは口調こそ軽いものの、眉を顰めながらなが話しており、本当に患者の事が心配なのだろう。
産婦人科に隣接しているナースステ―ションを横切ると、ガラスの向こうに何人かの赤ん坊が寝かせられていた。赤ん坊って小さいのに本当に俺と変わらない姿をしてるんだなと、何となくマジマジと見てしまう。
手に手袋のようなものをつけた赤ん坊は、目は閉じたまま腕を動かしたりしている。確かに何かあっても、赤ん坊だけでは逃げる事もできないし、心配になるだろう。
「どうして近藤さんは、産婦人科の看護師になったのですか?」
「どうして? それは、私が看護師になろうとした理由を聞いているの?」
「いえ。【無効化】で看護師は珍しいような気がしたので」
そういえば、確かに看護師といえば、【手当て】の能力者が圧倒的に多い。続いて、【病視】や癒し系の能力者が続くが、【無効化】はあまり医療現場には関係ない気がする。
「産婦人科は【無効化】の能力持ちが結構多いのよ」
「そうなんすか?」
「ええ。一応出産の場所は、能力が使えないように万全の体制をとってはいるけれど、赤ちゃんの中には道具だけでは能力を上手く抑えきれない場合もあるからね。出産時の赤ちゃんの能力の暴走は、母子ともに危険にさらすことになるから、【無効化】の能力者の配置は産婦人科では義務付けられているのよ」
「へぇ」
そんな風に決まっているんだ。
Aクラスは組織に勤めるのが当たり前だったから、他の職業について調べたことなどなかったので、初めて知った。
「……赤ちゃんも既に能力はあるんですか?」
「ええ。最近は【無効化】の能力者が配置されていないと開業できないからあまり事故はないのだけど、一昔前は結構な大事故もあったのよ。やっぱりAクラスの能力の子だとやんちゃだからね。佐久間君も親にはちゃんと感謝しなさいよ。出産は命がけなんだから」
「はーい」
感謝しろと言われてもいまいちピンと来ないが、確かに俺の能力で暴れまわったら、さぞかし危険だったんだろうなと思う。ほとんど施設で過ごして、施設から出た後は1人暮らしだったから、あまり親に育てられたという感覚はない。それでも産んでくれなければこの世にいないのだから、感謝はした方が良いのだろう。
「えっと。初歩的な事を聞いてもいいですか?」
「ええ。いいわよ」
「赤ちゃんの時に能力を暴走させるような子だった場合、どうやって親はその子を育てるのですか?」
「良い質問ね。こっちに来て」
近藤さんはそう言って少しだけ来た道を戻って、ナースステーションの前で止まった。
「基本的に生まれた時から危険な能力だと分かった子は、能力封じをするの。ただし年をとればその能力は強くなる場合が多いし、早めに自分でコントロールを覚えた方が良いから一時しのぎにすぎないのだけどね。一応5歳ぐらいまでは原則親元で育てる事になっているから、それまでは生家で暮らして、その後Aクラスの保護機関に入るわ」
そう言って、ナースステーション前に置かれたいくつものリーフレットやパンフレットを俺たちに差し出す。
俺が受け取った紙には、【子育て相談】という題名が書かれ、自分と違う能力だった子供だった場合、能力が強すぎる場合、Dクラスだった場合は、気軽に相談に来るようにと書かれていた。
「後はたくさんこういう相談会場が設けてあるから、そこで親同士交流したり、先生が相談に乗ったりして、一番いい方法を探していくのよ。能力は遺伝ではないし、どの親も子育てには不安がいっぱいあるからね」
「なあ。自分と違う能力だった場合や、能力が強すぎる場合というのは分かるんだけど、どうしてDクラスだった場合って書いてあるんだ?」
Aクラスだった場合なら分かるが、Dクラスだった場合というのが良く分からない。
Dクラスは多様性が大きいのでどうしたらいいのか分からないというのはありそうだけれど、他者に危害を加えるような危険な能力はない。
「子供には何も罪はないのだけどね、世間ではどうしてもDクラスは蔑まれてしまうから、心理的な理由で上手く育てる事ができない親が多いのよ。影路ちゃんの前で、こんな話をしてごめんなさいね。でもDクラスというだけで、将来はある意味決まってしまっているから、自分で自分を責めてしまう親もいるし、周りから責められる親もいる。その場合、虐待や育児放棄に走ってしまうケースが多いから、育児を続けるのが無理と判断した場合は、早急に孤児施設に預けるなどを勧めるようにしているの」
そうなのか。
Dクラスの立場が弱いのは、学校に潜入した時に良く分かったけれど、生まれた時からそんな扱いをされている事は初めて知った。
何といえばいいのか分からず、俺は視線を紙に落とした。
誰の所為でもない。Dクラスに生まれたのは、その子の所為ではないし、親の所為でもない。でも確かに理不尽な現実がDクラスには待っている。
「大丈夫です。私も里子に出されているので、分かっています」
「えっ?」
さらっと、影路の言った言葉を俺は聞きかえした。
里子に出された?
俺が聞き返した事で、影路は少しだけ困ったような顔をする。言いたくないというよりは、どう言ったら、俺を傷つけないでいられるだろうかと気遣っているような、そんな顔だ。
「たぶん両親やお姉ちゃんは、私がそれを知っている事を知らないと思う。だけど、私があまり皆と顔が似ていないから調べた事があって。そうしたら、そうだったの。……えっと、ただそれだけなんだけど。でも私は幸せだよ。お姉ちゃんも、お父さんもお母さんもとても優しいから」
幸せだという影路を慰めるのも、憐れむのもなんだかか違う気がして、何ともいえない気分になる。
「そうだったのね。Dクラスでもいいから子供が欲しいと思う夫婦もいるから、相談所ではそういう里親斡旋もしているわ。影路ちゃんが幸せなら、私はその時一番いい選択をしたのだと思う。私たち看護師はこういう相談教室を開くから思うのだけど、子育てに正解はないのよね。でも幸せだと子供が言えるなら、たぶんどんな形であれそれが正解なのだと思ってるわ」
子供をDクラスという理由だけで手放す親がいれば、どんな形でもと子供を切望する親もいる。
何といえばいいのだろう、この気持ちは。やるせない思いだけがただ残る。影路は幸せだという。実際幸せなのだと思う。
でも無性に……抱きしめたかった。
俺はただただ、影路が生まれていてくれて本当に良かったと思う。
「あの、話は変わるのですが、赤ちゃんの能力一覧はありますか?」
「新生児室にあるはずよ。でも影路ちゃんの推理は残念だけど外れね。幽霊事件が頻回に始まったのは3ヵ月以上前だし、未熟児の子もいるけれど、その子ですらまだ2ヵ月程度の入院だからね。たぶん後1ヵ月もすれば退院するし。確かに幽霊が出たのはこの近くだけど」
「普通どれぐらいで退院するもんなんすか?」
「最近は早いから1週間程度ね」
1週間。
そんなに早く退院できるものなんだ。確かにそんなに早く退院してしまえば、ここで幽霊騒ぎを起こすことはありえないだろう。まあ、すべてが同一犯ではない可能性はあるので、幽霊騒ぎのうち1回くらいは赤ん坊だったという可能性はあるのだけど。
「私が幽霊を見た時、あの部屋に居たのは佐久間と看護師と私の姉だけだと思ったけれど、よく考えたらそうではないから。だから一度見せていただけますか?」
そうではない?
あの時俺もいたけれど、他には誰もいなかったと思う。ここに居る赤ん坊が瞬間移動してきたとも思えないし。
「じゃあ、ちょっと待っててね」
そう言って、近藤さんはナースステーションの中に入っていった。