影路綾の恋(5)
病院の外にすんなり出られた俺は、能力を使って風を操ると自分の体を浮かせた。そして、病院の壁のでっぱり部分に足を乗せ蹴り上げるようにしながら屋上を目指す。
ロッククライミングの要領で屋上のフェンスまで来た俺はそのままよじ登り、中に入りこんだ。
屋上は貯水タンクで影になる場所にベンチと灰皿が置いてあったが、それ以外は何もなかった。たぶん、職員の喫煙場所となっているのだろう。この分だと患者が来る事はなさそうだ。
一応影路の能力が効いているけれど誰かがきたら貯水タンクの上に逃げた方がいいだろう。
「……にしても、結構寒いな」
夜が近づいてきている為、屋上の風も強くなってきており冷たい風がぶつかってくる。色々あってのぼせた頭が冷やされてちょうどいいかもしれないが、このままだと風邪を引きかねない。良しこれからという時に、熱を出しました無理ですなんて言った日には、使えない男レッテルを影路につけられてしまう。それだけは駄目だ。折角両想いになったのに、好感度が駄々下がりで、やっぱりあの告白はなかった事になったら、悔やんでも悔やみきれない。
俺は手始めに病院内の風をコントロールして、動きを止めた。風を作る方が止めるよりもずっと楽なのだけれど、影路の言う空気を支配下に置くというのは、多分こういう事でいいのだろう。
これの範囲を広げるかぁ。
短時間でもいいという話だったので、試しにぐっと広げてみる。もうちょい。もうちょい――っ、ちょっと無理。
結構広がったようにも思うけれど、これはキツイ。というか、倍加した所で、大和全域とか無謀すぎる気がする。見えない手を広げるような感覚で伸ばしてみたが、すぐに限界が来て、止まってしまう。半径1㎞ぐらいは広がったとは思うけれど、どうやってそれ以上伸ばせばいいんだ? こんなの無理――。
「いやいやいや。無理じゃない。何度かやってれば風船みたいに広げやすくなるかもしれないだろ?」
影路だって頑張っているんだから、諦めるわけにはいかない。
とにかく少しでも風を止められる範囲を広げようとぐぐっと広げてみるが、どうしても途中で止まってしまう。……マズイ。影路の期待に応えられない。
「うおおおおおおっ!!」
「うららららららっ!!」
「どりゃああああああっ!!」
何度か試し、今度は掛け声を加えてみた。アニメの戦闘シーンで、なんか叫んだりしてすごい力を引き出しているのを見た事があったので試してみるが、五月蠅いだけだった。パワーアップとか全然する気配はない。
最初よりは、範囲を広げられている気はするけれど、それでも半径10㎞を超えないだろう。半径10㎞を大和全土にいきわたるぐらい広げるとなると、倍加の少年に何回肩を叩かれる事になるんだ?
暗算が苦手なので答えはすぐに出ないけれど、かなり無謀な回数になる事は間違いない。
「……どうするよ」
ちょっと休憩と屋上で大の字になって寝そべるが、コンクリートは冷たかった。仕方なく、喫煙スペース用のベンチまで移動して座り込む。
やっぱり、風を作り出して動かすよりもずっと体力の消費が激しくて、肩で息をする羽目になる。もしかしたら、叫んだのも裏目に出ているかもなと思うが、次の手が思い浮かばないのだから仕方がない。
根性で広げるとしても、成功させるには長期間にわたる訓練が必要になると思う。でも、ぶっちゃけそんな時間はない。
俺と似たような能力の持ち主に相談するという方法もあるが、今Aクラスの知り合いと連絡をとるのはあまりよくない気がする。もしかしたら、そこから俺らのやっている事がバレないとも限らない。
でも手詰まりなのはどうしたものか。
元々風を作り出すのを基本として練習してきたので、広範囲の空気を一気に操るという事は経験がないのだ。
「みゃっ」
「っだあああっ!!」
突然足元で鳴き声がして、俺は飛びのいた。そこには、影路がつれていたパンダが居た。何だ、パンダか。
……いや、普通、何だパンダかじゃないよな。当たり前に、屋上にいる動物ではないはずだ。
「どこから入ってきたんだよ」
「みゃ」
屋上に繋がる扉を指さされ、ああ、そういえば職員がたばこを吸いに来るような場所だった事を思い出す。目立つ事は避けた方が良いのに、わざわざ外に出て空を飛ぶようにして派手に屋上まできた俺がアホの様で恥ずかしい。
「でも、何でここに来たんだ? 影路に用があってついて来ていたんだろ?」
「みゃみゃみゃーん」
分かんねぇ。
明日香の体に魂が入っている時は大和語を喋っていたから、それなりに知能は高いのだと思う。だからといって、全てが上手く意思疎通できるというわけでもない。
「何が言いたいんだ? 悪いけど、俺は能力の訓練で忙しいんだよ」
「みゃあん?」
本当にと言われたような気がしてドキリとする。
「今は、休憩中で――してる場合じゃないんだけどな。はぁ」
パンダ相手に、何で言い訳してるんだと思いつつも、そもそも休憩していてもいい状況じゃないよなと現状の手詰まり感を思い出す。
今までだったら学校での訓練を思い出せば、なんらかしらの解決策が思い浮かんだが、やろうとしている事が全く違うのだ。
「みゃ、みゃ、みゃ」
「元気出せって言ってくれてるのか? ありがとうな」
パンダが話しかけてくれるので、俺は撫でようと手を伸ばすが、サッとよけられた。意外に、このパンダフットワークが軽い。そんな感心をしていると、パンダは鋭い爪のついた手で、俺の足を叩いた。
「みゃ、みゃ、みゃ」
「ん? 何を暴れ得てるんだ? 危ないだろ」
子パンダだけど、それなりに痛いんだぞ。
俺の足に攻撃するパンダから離れようと動けば、パンダもそれについて来て、手を振り回す。……何か、俺恨まれるような事でもしたか?
その時、ふと室内と繋がっているドアノブが音を立てた。そういう事かよ。俺は慌ててパンダを抱きかかえ、貯水タンクの上に飛び上る。
音を立てないように着地した時には、外に医者らしき人が出てきていた。白衣を着た男は煙草を取り出すと火をつける。
あっぶねー。
たぶんパンダはこの事を俺に伝えようとしていたんだな。
「サンキュー」
腕の中で大人しくしているパンダを下に降ろして頭をなでる。やはりパンダはこの事を伝えたかったらしく、下ろしても俺を叩こうとはしなかった。
本当に賢いパンダだけど、よく気が付いたな。野良パンダだし、野生の勘という奴だろうか?
「みゃ」
さてと、あの医者が中に戻ったらまた訓練を再開するか。
影路の能力があるとはいえ、やはり人が居る中で練習する度胸がない俺は、医者が煙草を吸い終わるのを待つ。
「……この人暇なんだな」
普通に吸えばいいのに、煙をドーナッツの形にしたりして遊んでいる。誰も見て居ないのに何をやっているんだろう。もしかしたら、誰もいないからこそ、子供にでも見せるために練習してるのかもしれないけれど。
煙を口に含んだ後、口を「ぽ」の形にして頬を叩いて大量に輪っかを作っている。なるほど。ドーナッツ型の煙ってどうやって作ってるんだろうなと思ったけれど、こうやってやるのか。
ドーナッツ型の煙が広がりながら消えていくのを見て、俺はあっと思いついた。
「そっか、そうだよな。別に全部を一気に掌握しなくてもいいよな」
風は動くもので、空気は広がって行くもの。つまり俺が作り出した風を広げるように移動させていけば、どこまでも行けるはずだ。倍加の少年には空気が移動するスピードを速めてもらえばいいわけで。
この方向で試してみようと、考えていると、ブブブブと携帯のバイブがなった。本気で心臓が飛び出るぐらいドキッとして、慌てて携帯を掴む。
気がついていないよなと、そろりと下を覗き込めば、煙草が吸い終わった医者はぐっと背伸びをしながら室内に戻っていった。
流石影路。能力は完璧なようだ。
「びびった。一体誰……って、影路?」
件名には『影路です』と書かれていた。
助けれてくれたのも影路。びびらせてくれたのも影路。……俺って、影路にもてあそばれてる? でも、小悪魔な影路……それもまた良い――。
「みゃっ」
「いてっ。止めろって。本当に、お前の爪は痛いんだって」
馬鹿な事考えていないでちゃんとメールを見ろとばかりに、ふんとパンダが鼻息を吐く。
くっ。ちょっとくらい、小悪魔なコスプレをした影路を妄想したって罰は当たらないと思ったが、確かに至急の事柄かもしれないので、メールの内容を読む。
「影路。本当に、ドS……」
メールには、今日の夜に決行したい旨が書かれていた。
俺なら大丈夫という信頼の証か、それとも血反吐はいてでもやり通せという鬼軍曹的な命令か……。急がなければいけないのは分かるけど、もう少し時間が欲しかった。でも惚れた弱みだ。仕方がない。
俺は何とか能力の使い方に見通しができた事もあり、了解と送った。