絵の中の君 1
現在、就活中の私。来年の春には短大を卒業する。
私は特別裕福でもない、ごく普通の家庭で育った。
父は現在単身赴任中。母はパートで働き、社会人の兄が一人。本当にごく普通のありきたりの家庭。
なのに昔はお金持ちだったらしく、田舎に大きな古い屋敷を所有していた。所謂、没落したということでしょうか。
まあその話は追々ということで。問題のその屋敷は見晴らしの良い丘の上にぽつんと建てられた、古びた洋館だった。
夏休みになるとその洋館によく泊まりに行った。海も近くにあって、まあ別荘なんて良いものじゃなかったけれど、ノスタルジックな心地になれるので、私は何故かあの洋館が好きだった。
それに、その洋館には私を待っている人が居た。
彼の名前はアラン。
私が勝手に付けた名前。
彼は、その古い洋館の階段の上の突き当りの壁に掛けられた絵の中の騎士。
幼い頃に見た彼が忘れられなくて、初恋の人はと訊かれる度、居ないと応える。
だって恥ずかしすぎる。
初恋の人が絵の中の騎士だなんて。でも、それが原因で今までまともに生身の人間とはお付き合いできなくて……
ちょっと、引かれてしまうかな。
現実世界の男性が苦手な私です。
そんな私に単身赴任中の父から、とんでもないことをメールで告げられる。
見合いをして欲しいという、とんでもないメール。
今やってるのは婚活ではなくて、就活なんですけど。
何を考えているのやら。
父が言うには、これは私の曾祖母からの遺言(?……ここまでくれば、もう言い伝えの域でしょ)らしく、とにかく一度会って欲しいとのことだった。
どうして、一人の人間の一生が掛かっていることを、そう簡単に言えるかな。しかもメールで。お見合いなんて、絶対に出来ません。
とにかく、父はもう見合いの日を決めたというのだ。
たぶん彼の中では、私はもうその人と結婚している。だから、連絡はメールで済ませたのだ。
親子かなって、思える父。彼もまた、私と同じで思い込みが激しいタイプ。
私は今まで父が勧めた中高一貫の女子校を出て、そのままその系列の短大に進んだ。
だから男性に対しての免疫もなく、合コンには何度か行ったが、告白されてもお付き合いする勇気がなくて、だって初恋はアランですから……
父は嫌なら断りなさいと付け加えた。今までの経験から、父に敵わないことを知っている。
女子校だって行きたくはなかった。何だかんだとつい乗せられて、自分の意思を貫き通すことが出来なかった。今回も暗雲立ち込める怪しい雰囲気が父の言葉に漂う……
というわけで、お見合いをする前に洋館へとやってきた私。
古い洋館だが、父は手入れを怠らなかった。おかげで、何処かの指定文化財にしてはという話が持ち上がったくらいだ。勿論、丁重にお断りしたらしいが。
昼間でも薄暗い階段。
洋館の中の空気は冷たくて、まだ残暑が厳しい季節だというのに、私はぶるっと身震いをした。
そしてゆっくりと上がっていく。
やはり絵を目の前にすれば、胸が高鳴る。この気持ちは幼い頃からちっとも変わらない。
大好きな彼の名をぽつりと呟くような小さな声で呼ぶ、アラン。
窓から差し込む太陽の光が彼をやんわりと包み、彼は笑みを浮かべているようだった。
少しウエーブの掛かった栗色の髪を一つに束ね、眼も澄んだ栗色だった。中世の騎士を思わせる格好をした彼は、何処か物憂げで美しかった。
私は自分の荷物をそこへと置き、階段を上って彼の前に跪いた。
「私のアラン、私は貴方に恋をしている」と告げ、誰も見ていないことを良い事に、迂闊にも私は彼に口付けをした。
そこでこの世界での私の記憶は途切れたのだった。
*
遠くで砂浜をぽすぽすと、馬の蹄の音。
アランの絵を見ていたとき、突然の眠気に襲われ彼女は漸く眼を開ける。
彼女のところまで来たとき、馬上の人物は馬を止め身軽に、ぽんと飛び降りた。
「どうしました? こんな夜更けに?」
月の光を背に受けているので顔がよく見えないが、髪はよく見慣れたアランのものだった。
「さあ」
差し伸べられた手もやはり、絵の中で剣を握っていた彼のものだ。しなやかだが力強いその指先が彼はは好きだった。
今日は騎士の格好ではなく、袖の裾が膨らんだ白いブラウスシャツを着て、やはり同じような柔らかい素材の黒いズボンを履いていた。シンプルなデザインだが、それだけに彼の美しさを引き立たせていた。
彼女は正直、戸惑っていた。
何がどうなったのか、残念ながら彼女はゲームもやらなければ異世界トリップものなどにも興味がない。こんなことならば、もう少しその辺りの事を学んでおけば良かったと、アランを見て小首を傾げた。
「さあ、遠慮はいらない。それより、何処から来たのかな?」
まさか、ここは絵の中ですか?って訊いて、そうだよなんて応える筈もなく、返す言葉を躊躇う。
「私の名前はアラン、怪しい者ではない。この辺りは我が家の領地だから……君は差し詰め、お客様だね」
屈託無く、満面の笑みを浮かべるアラン。
奈津子は思わず眼を見開いた。彼女が付けた名前の通りだったので、背筋に寒いものが走る。
あまりの妄想の為に、トリップどころか頭が変になったのかもしれないと、自分の頭をぐーに握った手でぽかぽかと殴ってみる。
そんな彼女を見て驚いたのはアランのほうで、何故そのような事をするのかと、手首を握って止めさせた。
確かに幾ら叩いても頭は痛かったし、握られた温かい手の感触もあった。
「で、名前くらいは教えてくれないかな?」
「……あっ、はっ……はい……奈津子、柏木奈津子」
「ナツだね、ナツって呼んでいいかな?」
奈津子は「ええ」と返事するしかなかった。アランはすんなりと奈津子を受け入れようとしてくれた。本来なら、不審者であるはずの奈津子を。
そして奈津子は出されたアランの手に、自分の手を載せるしかなかった。
アランは立ち上がった奈津子を見て跪き、手の甲に軽いキスを落とした。
奈津子の心臓が猛スピードで動き始める。動かないアランしか見たことがない奈津子は、当たり前だが、彼の声を聞いたことがなかった。
初めて訊いたアランの低く優しい声は、彼女を心地良くさせる。そのアランの唇が奈津子の手の甲へ触れるのだ。
卒倒しそうだった。それは今のアランの行為にではなく、現在自分が不思議な世界に迷い込んだという、身の上に降りかかる仕儀の為にだった。
アランは軽々と奈津子を自分の馬に乗せ、自分もその後ろに乗った。
奈津子は生まれてこの方、馬になど乗った事はない。
唯一、乗ったとすれば、幼い頃に乗った動物園のロバくらいなものだ。父に連れられて並んで乗った事を思い出す。その頃の奈津子にはロバの背の上でも高かった。それが怖くて順番が来てもすぐに乗る事が出来ずに、ロバの轡を持つ小父さんに乗せて貰った記憶がある。
馬の背から見る世界は、車や電車などとは違い、悠長で穏やかに動く。
そして後ろにはアランが馬の手綱を引いていた。
背中にアランの体温を感じ、どきどきしながら行く手を見ると、目の前には大きくて立派な門があり、屋敷が何処なのか、門からは見えないほどの広い敷地だったのである。
それは月の美しい穏やかな夜の出来事だった。