夜明け前のベランダ
何の前触れもなく、目が覚めた。
ぱちぱちと目を瞬かせ、サナはむくりと身を起こす。
宙をぼんやりと眺め、窓辺に置いてある時計へと手を伸ばした。
AM4:03。
何度確認してもアヒル型のデジタル時計はその数字を描いている。
ふむ、サナは考え込んだ。
夢を見ていただろうか?見ていなかったような気がするが確かなことでは無い。
もしかしたら見ていたかもしれないが、こんな時間に、何の前ぶりも無く、パッと目がさめる程の夢を見ていた確率はかなり低い。
サナは自身の寝起きの悪さを自覚していた。
その寝起きの悪さを欠片も披露していない今の状況、夢を見ていたかも覚えていない状況。
それらを組み合わせてもこれが普通の目覚めでは無いことは明かだ。
サナは再び、まくらもとの時計を手に取った。
AM4:04。目覚めてから1分しかたっていない。
自室を見渡して見るが特に何も無い、眠りに落ちる前と変わらない姿を保っている。
サナはため息をついて、再びベットに潜り込んだ。
意味のない目覚めなど必要無い。睡眠を何よりも尊ぶサナにはこの1分いや、もう2分はこの世の何よりも必要の無い時間だった。
目を閉じる。…1…2…3…4……。
いつもならすぐに訪れるはずの色があらわれない。
32秒が過ぎたところで、サナは諦めたように再び目を開いた。
眠れない。
むくりと身を起こし、サナは再びため息をつく。
眠れないものを無理に寝たとしても全く価値は無い。
この世に価値のあるものなど、無きに等しいが。
まあ、いい。こんな気まぐれもあっていいだろう。
サナはそう考えることにした。
毎日毎日こんなことが続くとしたらそれは何か対策を考えなければならないが、たまにはこんな一夜があってもよい。
彼女は50秒ほど前に潜り込んだ布団の中から再び這い出し、戯れに部屋の窓を明けてみた。
きぃぃんとした冷たい空気が部屋の中に流れ込み、サナの体温を奪ってゆく。
わずかに身震いをして、サナは毛布を体に巻きつけた。
ほぅ…と吐き出された息は白い。真冬のこんな時間に窓を開けるなど馬鹿のする行為としか思えない。
彼女の部屋の窓からは取り立てて美しいものは臨めない。
隣の、裏の家の壁と窓が見れるだけだ。
だが、サナはかまわずにぼんやりと闇を見つめた。
「こんばんは」
突然、聞こえた声。
サナは目線をつぃっと上げる。
闇の中に先ほどまでは無かったものがあった。
「……こんばんは」
サナは驚いていた。表面上はなんら変わっていなかったが、とても驚いていた。
こんなに近付かれるまでその存在に気がつかない、その、異常、さ。
己のことをよく理解している彼女であるからこその驚き。
同時に落ちる、それを見たときに、感じた、納得。
ばらばらに千切れながらも思考は1つの正解に辿り着く。その結果が先ほどの答え。
声の質からして若い男だろう。男の子と称しても良いくらいの。
サナはそれの観察を始めた。
2本の白い足、少女のものかと思うくらいに細い腰、それの上に泳いでいる柔らかそうな白い衣服。
真冬には薄すぎる布地であることが見て取れた。
その上は部屋からの光に邪魔され闇に沈んでいる。
以上、視覚が捕らえられたものの描写はおわり。
「なにか用かしら?」
「別に?ちょっと散歩をしていたら、変なのを見つけたからさ」
声をかけてみただけだよ。歌うように笑うように彼は答える。
「ふぅん」
こんな時間にお散歩?いえ、それは別にそう不思議なことではないはね。とても異様ではあるけれど。
だけれでどのような散歩道を通れば、わたしが見つけられるのかしら?
サナは自身の脳裏に浮かんだ言葉を裡へと沈める。意味は無い。
普通ではない、明らかな異質に、常識じみた普通の言葉を投掛ける意味が少しでもあるだろうか。
1秒にも満たない考えを破棄し、サナは興味を無くしたように目線を下へと向けた。
「君はこんな時間に何してるの?」
サナは視線を上げることもせずに、彼の質問に答える。
白い腕はベランダに置かれているバラの鉢に伸びた。
「別に、何もしてないわ。ただ単に目が覚めただけ」
部屋からの光を頼りに、葉の様子を見ていく。
前の誕生日に送られたミニバラは鮮やかな朱色だった。
なぜ、バラなのか、色々と思うことはあるけれど、その花は美しく、枯らしてしまうには勿体なかった。
病害に強いと言われているにも係わらず、以外に難しいバラの世話がサナの日課だ。
目はバラに向いている。意識の大半も、バラに向かっている。
だが、完全に向ききっていないのは、自分にも、その自分を興味深そうに観察している少年にもわかりきっていることだった。
サナはバラの観察を続ける。
「ふぅうん?……綺麗なバラだね」
明らかなお世辞にサナはわずかに視線を上げる。この、普通ではない存在が、そんなことを言うとは考えていなかった。
さっさと立ち去ってくれればいいものを、何故、彼はここに留まるのだろう。
「…それは、どうも。お散歩は中断したままでいいの?」
言外に早く去ねと言う。
意識していったのだ、相手もわかっている。
サナの学友が今の彼女の声を聞いたなら驚くだろう。
それほどに冷たく排他的な声だった。
くすり。くすくすくす。
彼は心底楽しそうに笑った。
鈴の音を転がしたような声だが、その音は毒を含んでいる。
サナは目を伏せる。
ああ。同類か。
「散歩なんてもうどうでもいいよ」
闇に落ちて見えないはずの彼の赤い唇がくぃっと吊り上ったのが分かる。
「だって、初めて同類に会えたんだもん」
ああ、同類だ。
稀有な、同類同士だ。
「僕、初めて会ったな。僕と同じ存在に」
彼は歌うように言う。
サナは冷めた目で彼を見た。
この化け物が。
「なんのことか分からないわ」
サナは否定する。
その否定さえも彼は笑った。
何がそんなにも面白いのか。
分かっているが、分からないふりをする。
「うそつき」
「知ってるわ」
「仮面被りか」
「なんのことだか、分からないわ」
「本当に、うそつき」
くすくすくすくすくす。
笑い声が空間に飽和していく。
彼は笑顔は血生臭い。
血に濡れた顔で笑っているのだろう。
サナはつぃっと視線を上げた。
日が昇ってきている。
僅かに差し込み始めた光に彼の顔が見えそうになった。
「空が明るんできたわね」
「さようなら、縁があればまた出会うでしょう」
未練も躊躇いも欠片も持たずに、サナは窓を閉ざす。
これで終わり。あんな希有な出会い、あんな存在を見ることなどこの先無いだろう。
そう考えて少しつまらないものを感じている自身に苦笑する。
現在の時刻6時57分。今日の授業は2限からなので、あと2時間は眠れる。
サナはごろりとベットに寝転び目を閉じる。約3時間の奇異なる時間は彼女の睡眠欲を回復させた。
闇を見つめる意識が眠りの色に引きずり込まれる。
終わりだと思うのと同じくらいに、終わらないという思いを抱きながら。
季節外れにも程がある。