第十七話 守るための剣
魔物が出た。
そう聞かされてから、集会所では誰も驚いた顔をしていない。
驚いている暇がないのだ。みんな疲れている。
「西の礼拝堂にいた人たちは、全員こちらへ移れましたか」
「二世帯分がまだです。荷車を回しています」
「では、寝台はこちらへ寄せます。奥の通路を空けてください」
七月二十一日の朝。
マルタが現地の治療師と話す横で、俺は寝台の数を確かめていた。
騎士団が村へ近づかないよう追い、住民は川から離れた建物へ移る。それで済めばいい。
いや、済んでほしい。本当に。
こちらには、昨日ようやく歩けるようになった人も、まだ熱の下がらない人もいるんだ。避難先をもう一度変えるだけで体力を使うんだぞ。
「聖女様。包帯を運んでいただけますか」
「はい。どちらに」
「入口の棚です。今朝から二段目を空けましたので」
俺は束を抱えて運ぶ。
外では車輪の軋む音がしていた。騎士が声をかけ、馬車が一台、奥へ動く。逃げるための準備をする音は、どうにも落ち着かない。
包帯を置いたところで、昨日足を治した男の子がひょこりと顔を出した。
「もう走っていい?」
「まだ駄目ですよ」
「昨日もそう言った」
「昨日は『今日は歩くところまで』でしたでしょう?」
「今日は昨日じゃないよ」
正しい。正しいけれど、そういう問題じゃない。
「では、先生に相談しましょう。私一人では決められませんから」
男の子は唇を尖らせて母親の方へ戻った。
せっかく治した足で真っ先に外へ飛び出されたら、俺の心臓が持たない。特に今は。
◇
昼過ぎ、騎士団から知らせが来た。
魔物は森の外れを南へ移動している。まだ村の中心には近づいていない。ただ、川沿いの道へ出る群れがあり、避難用の荷車を動かす順序を変える必要があるという。
マルタは報告を聞き、患者の一覧を指で追った。
「今のうちに移した方がよい方が三人います。ただ、長い道のりに耐えられるかは確認が必要です」
「移動中に治療が必要でしたら、私も同行しましょうか」
「セレスティア様には、ここで待っていただきたいです」
即答だった。
「なぜでしょう」
「セレスティア様が移送に同行なさると、その間、ここで重傷の方に対応できる人が減ってしまいます。これから怪我人が増えるかもしれません」
「……はい」
それも、そうだ。
「現地の方に移送をお願いしてよろしいですか」
「もちろんです。搬送中にできることも、皆さんよくご存じですよ」
「ありがとうございます。では、よろしくお願いいたします」
俺は患者の状態をもう一度確かめ、移送する人たちへ必要な情報を渡した。
◇
最初の負傷者が来たのは、その一時間ほど後だった。
片足を押さえた騎士が、同僚二人の肩を借りて入口へ入ってくる。膝の下から血がにじみ、濡れた靴が床を汚していた。
「斜面の石に足を挟みました。骨もやったかもしれません」
本人はそう言って、自分で歩こうとする。
「その足で踏ん張らないでください」
マルタが言う。
「いや、外は今――」
「外のことは、外の人に任せてください。座って」
騎士は渋々寝台へ腰を下ろした。
鎧を外してみると、傷は思っていたより深い。マルタが患部を確かめ、俺へ治療を頼んだ。
「よろしいですか」
「お願いします。……できれば早く戻りたいんですが」
「それは治療の後で先生とご相談ください」
光を流し、傷んだ骨と皮膚を探る。出血は収まり、足の形も整った。
まだ動くなと言われた騎士が、口を開く。
「救助に戻ってもよろしいでしょうか」
「駄目です。まだ検査も何も終わっていません」
マルタが騎士に強く言う。
「お前はそこで寝てろ。足を治してもらったばかりなんだぞ」
「でも――」
「でもじゃねえよ。ほら、先生の言うことを聞いておけ。分隊長には俺から伝えておく」
「……悪い。任せた」
「すみません。聖女様、先生。こいつのこと、よろしくお願いいたします。俺たちは戻ります」
「ええ。お気を付けください」
二人の騎士は俺たちに深く礼をしてから、速足で戻っていった。
入れ替わるように、外からの足音が増えた。
次の担架が来る。
今度は村人だった。荷車を誘導している時に転び、肩を痛めたという。腕が上がらず、顔をしかめる。
「家の者には、言わないでもらえますか」
本人が小声で頼んできた。
「……なぜです?」
「昨日、危ないから出るなと叱られたんです」
「ご家族へお伝えするかは、ご本人と相談してからにします。まず、お怪我を診せてください」
「……分かりました。でも、怒られると思うんですよ」
肩を落とす男性を見ていたマルタが、淡々と言った。
「そこは、肩が治ってから考えましょう」
流石はマルタ、容赦がない。だが正しい。
俺は一つ深呼吸をしてから治癒魔法を使った。
◇
夕方前、村の外れから角笛が聞こえた。
短く二度。続いて、少し間を置いて一度。
意味を確かめる暇もなく、入口にいた騎士が外へ走った。集会所の戸が開き、湿った風が入ってくる。
「南側の道に魔物の一群、出ました!」
外から声が飛んだ。
マルタが治療師たちに指示を出す。
「通路を空けて! 動ける患者さんは奥へ。担架を二台、入口に!」
俺は寝台の間を抜け、医薬品を棚の下へ移した。倒れたら拾う暇もない。
外を見ると、集会所の前を抜ける避難路の先で、盾を構えた騎士たちがいた。その背後を荷車が一台、ゆっくり通ろうとしている。
さらに向こう、橋へ続く曲がり角で何かが動いた。
先頭に、獣のような魔物が二頭。泥を蹴散らしながら騎士団の並ぶ方へ向かってくる。
こっちへ来るなよ。頼むから、こっちへ来るな。ここには動けない人が多くいるんだぞ。
一頭が騎士の持つ盾へ突っ込み、鈍い音がこちらまで届いた。足場を取られた騎士が後ろへ下がり、盾の列に隙間ができる。別の騎士が横から槍を出したが、相手は身を捻って逃れた。
荷車は、まだその後ろを通り終えていない。
「セレスティア様、こちらへ! 入口から離れてください!」
分かってる。分かってるんだが、今少しだけ見えたのは――。
黄金の髪が、盾の列の向こうへ出た。
レスト。
何してるんだよ。……いや、レストは王太子だ。剣だって使える。必要があれば前へ出るのは分かっている。
分かってるから、嫌なんだ。あいつが怪我をするのを見たくない。
レストが盾の隙間へ入った。抜いた剣で向かってきた魔物の前足を払い、その間に騎士たちが盾を寄せ直す。荷車が防衛線の後ろを抜けると、レストも列の内側へ戻った。
さっき盾で突進を受けた騎士が、仲間に抱えられて運ばれてきた。鎧がひしゃげ、血が垂れている。
「聖女様、こいつの治療を!」
「はい!」
俺は道を空け、奥へ入れる。
運んできた騎士は手際よく鎧を脱がせた。下の服は左肩が破れ、その下の皮膚まで広く裂けて、赤く染まっている。本人は意識があるが、奥歯を噛みしめて声を出せずにいた。
「セレスティア様、治療を!」
マルタの声を聞き、手をかざす。
外で剣の音がした。
光を集めようとした指先が一瞬止まった。
レストだろうか。
違う、今見るのはこの人だ。集中しろ。
俺は息を整え直し、損傷した肩の奥へ意識を向けた。傷の具合を確かめ、出血を抑え、無理に筋を繋いでいないか一つずつ確認する。
欠損を治すような高位の治癒に比べれば、張り詰める神経は少ない。それでも、気を散らしていいわけじゃない。
「……痛みは」
「もう、ほとんどないです……。ありがとうございます」
「よかった。あとは先生に診ていただきましょう」
安堵しかけたところで、次の負傷者が運ばれてきた。
マルタと目を合わせ、頷く。
俺は急いで治癒魔法をかけた。
◇
防衛線が落ち着いたと知らされた時、それが何時なのか、すぐには分からなかった。
何人治したかは記録にある。誰を治して、誰をまだ診ているかも分かる。
だが、外から戦闘の音が聞こえている間は、時間がやけに長く感じられた。
「殿下は――」
マルタに聞こうとして、口を止めた。違う。今は、レストの心配だけをしているわけにはいかない。
「……前線の皆様は、ご無事でしょうか」
「今、負傷者の数を確認しています。殿下のお名前は、まだ報告にありません」
報告がない。
無事だから名前がないのか。それとも、まだ確かめられていないのか。
嫌な想像を始めたところへ、入口から低い声がした。
「マルタ殿。こちらの負傷者の状態は?」
聞き慣れた声だった。
顔を上げる。
レストがいた。外套に泥が跳ね、剣は鞘へ戻している。見たところ傷もない。護衛を二人連れ、入口に立っていた。
……ああ、もう。無事なら、無事だってもっと早く教えてくれよ。心配したんだぞ。
「命に関わる傷は、治療を終えております」
マルタが答える。
「まだ診ている方はいらっしゃいますが、今のところ搬送の必要はありません」
「ありがとう。こちらで確認した限り、避難した人たちにも大きな被害は出ていない。ただ、明朝もう一度、道を調べる必要がある」
レストはマルタと必要な話を済ませ、俺の方を向いた。
「セレスティア。遅くまでありがとう」
「殿下こそ。……お怪我は、ございませんか」
「私はないよ。騎士たちにも助けられた」
「そうでしたか」
そこで言葉が途切れた。
何だよ。何か言え、俺。
剣を持って出ていった時は散々心配したくせに、戻ってきたら「そうでしたか」だけか。
「……今日は、まだお休みにならないのですか」
「もう少しだけ、片付けがある。君は?」
「あとお一人、治癒を頼まれております。それが終わりましたら」
「では、先に休んでいてほしい」
「殿下も、無理をなさらないでくださいね」
レストは頷き、護衛と外へ戻った。
姿が見えなくなると、途端に脚がだるくなった。
……疲れた。
治癒魔法のせいじゃない気がする。というか、村に来てから治癒魔法以外のところで疲れすぎだ。
「セレスティア様、大丈夫ですか?」
「ええ。大丈夫です。マルタ様こそお疲れではありませんか?」
「被災地での救護は何度か経験しています。私は大丈夫です。ただ、セレスティア様は今回が初めての遠征です。先ほどから手が少し震えておりますよ」
言われて自分の手を見る。本当だ、自分でも気がつかなかった……。
魔力はさほど減っていないが、体は結構疲れているんだな。
「……そうですね。申し訳ありません」
「いえ、謝る必要なんてございません。ただ、覚えておいてください。セレスティア様のおかげで救われた命が、いくつもあったのですよ」
そういうことを今言わないでくれ。……泣きそうになるだろ。
「……ありがとうございます。マルタ様。では、最後の方の治療に向かいましょう」
「ええ。その前に、少しお休みくださいね」
強いな、マルタは。俺は椅子に座って数分休んだ。
手の震えが収まったのをマルタに確かめてもらってから、最後の患者のもとへ向かった。
◇
二十二日から二十三日にかけて、騎士団は森へ戻せた魔物をそれ以上追わず、村へ出てくる群れへの警戒を続けた。
騎士団が見張る道を変え、住民が通れる場所も少しずつ増える。相変わらず家へ戻れない人は多いが、荷車を出すたび護衛を増やさずに済む時間ができた。
夕方、救護の記録を閉じようとしていると、レストが入ってきた。
「明日、王都へ戻ることになった」
「もう、ですか?」
思っていたより大きな声が出た。
「王宮から、戻るよう知らせがあったんだ。ここで要るものは手配できたから、あとは王都で予算と人を動かすよ」
「そうなのですね」
レストが戻るのは当たり前だ。王太子には、ここ以外にも仕事がある。
俺はまだ現地に残る。診てもらいたい人も、これから病気になるかもしれない人もいる。
「セレスティアは、もうしばらくこちらに?」
「はい。マルタ様と、あと数日ほど」
「そうか。気をつけて」
「殿下も。道が悪いと伺っていますから」
「うん。馬を急がせないようにするよ」
その返事が、何だかレストらしかった。
俺が心配することなんて、とっくに分かっているんだろう。
馬より自分を急がせるなよ、と言いかけてやめた。周りに人がいる。
「……それでは、また王都で」
「ああ。また」
護衛が待つ入口へ歩いていく背中を見送った。
さっきまで同じ現場にいたのに、明日からは離れる。
変な感じだ。
でも、仕事が終わって別々に帰るなんて、何度もあった。
だから今回も、そうなるだけだ。




