『「真実の愛」を見つけた夫へ。私はあなたの不幸を願いません――離縁した公爵夫人は、風の音を聞きながら眠る』
大理石の床に落ちる午後の陽光は、七年前の婚礼の日と同じように、白く冷たかった。
エレナは執務机の向こうに立つ夫、アルヴィン公爵を見つめていた。
その隣には、淡い菫色のドレスを着た若い男爵令嬢がいる。令嬢は怯えた小鹿のような目をして、アルヴィンの袖を握りしめていた。
「すまない、エレナ」
夫はそう切り出した。
「責められるのは承知している。だが、私は彼女と出会って初めて知ったのだ。義務や利害で結ばれた結婚の向こう側に、魂が震えるような『真実の愛』があるということを」
エレナは黙っていた。
「君には感謝している。七年間、公爵夫人としてよく尽くしてくれた。だが、私はもう、自分の心に嘘をついて生きたくない」
差し出されたのは、公爵家の紋章が押された離縁状だった。
エレナは書類を見下ろした。
七年間。
長いようで、振り返れば短い年月だった。
婚礼の翌朝から、彼女の仕事は始まった。
先代が残した借財の整理。荒廃した農地の復旧。領内の税制の見直し。冬を越せない村への食糧配給。
飢饉の年には、自ら穀物倉の鍵を開けた。
商人たちと交渉し、王都の銀行家に頭を下げ、領民が飢えないように走り回った。
夫が社交界で華やかに笑っているあいだ、エレナは執務室の灯りを消せずにいた。
書類をめくり続けた指には、貴族の淑女らしからぬ小さなペンダコができている。
その指先を、彼女はそっと撫でた。
「もちろん、君を路頭に迷わせるつもりはない」
アルヴィンが言った。
「生涯不自由のない手当と、王都の別邸を用意する。違約金についても、できる限りの配慮をするつもりだ」
彼は一度言葉を切った。
「……君は怒るだろうな」
エレナは顔を上げた。
「なぜですか」
「なぜって……」
「私が怒ると、お思いなのですね」
アルヴィンは気まずそうに視線を逸らした。
「七年も妻として尽くしたのだから、当然だろう」
その言葉を聞いたとき、エレナの胸の奥で何かが小さく軋んだ。
当然。
彼は知っていたのだ。
彼女が七年間、尽くしてきたことを。
知っていながら、その年月を「形ばかりの夫婦生活」と呼んだのだ。
エレナは膝の上で両手を重ねた。
爪が掌に食い込んでいた。
痛かった。
胸の奥も、指先も。
けれど、不思議と涙は出なかった。
ただ、長いあいだ張り詰めていた一本の銀の糸が、ことりと音を立ててほどけたような気がした。
ああ。
もう、頑張らなくてもいいのだ。
そう思った瞬間、エレナは自分がどれほど疲れていたのかを初めて知った。
*
「閣下」
エレナは静かに口を開いた。
「離縁をお受けいたします」
「……え?」
「七年間、お世話になりました」
彼女は立ち上がり、淑女としての完璧な礼をした。
アルヴィンが目を見張った。
隣の男爵令嬢も、驚いたように瞬きをしている。
「待ってくれ、エレナ。君は本当に、それでいいのか」
「はい」
「私を責めないのか」
エレナは少し考えた。
「責めてほしいのですか?」
「いや、そういうわけでは……」
「でしたら、責めません」
アルヴィンは黙った。
エレナは続けた。
「ただ、一つだけお願いがございます」
「何だ。別邸か? 年金か?」
「王都の西にある、旧修道院の土地を譲っていただきたいのです」
アルヴィンは眉をひそめた。
「あの荒れた土地か?」
「はい」
「あそこには、古い孤児院があるだけだぞ。屋根も傷み、畑も荒れている。とても人が暮らせる場所ではない」
「存じております」
「そんなものをもらって、どうするつもりだ」
エレナは窓の外に目を向けた。
庭園では、庭師が秋の落ち葉を集めている。
風が吹くたび、黄金色の葉が石畳の上を転がっていった。
「パンを焼こうと思っております」
「……パン?」
「はい。畑を耕し、子供たちに文字を教え、冬には暖炉を囲んで昔話をするのです」
アルヴィンは理解できないという顔をした。
「君は公爵夫人だぞ」
「もうすぐ、そうではなくなります」
「だが、そんな生活が君に務まるとは……」
エレナは微笑んだ。
「七年間、公爵領の財政を預かってまいりました。小さな孤児院の帳簿くらいは、つけられると思います」
男爵令嬢が、思わず小さく息を漏らした。
アルヴィンは何も言わなかった。
*
エレナが初めてその孤児院を訪れたのは、結婚三年目の冬だった。
飢饉で領内の穀物が不足し、王都の貧しい地区にも食糧が届かなくなっていた。
彼女は自ら馬車に小麦粉と乾燥豆を積み、旧修道院へ向かった。
そこで出会ったのが、まだ五歳だった少女、ミアだった。
痩せた小さな手。
継ぎはぎだらけの服。
それでも、焼きたてのパンを渡すと、少女は目を輝かせた。
「奥様、これ、あったかいね」
「ええ。焼きたてですもの」
「お日さまの匂いがする」
エレナは思わず笑った。
「そうね。お日さまの匂いね」
少女はパンを両手で抱え、少し考えてから尋ねた。
「奥様、また来る?」
「ええ。必ず」
「じゃあ、今度は一緒に食べようね」
その約束を、エレナは忘れなかった。
公爵家の仕事に追われ、毎日訪ねることはできなかったけれど、食糧と薪の手配だけは欠かさなかった。
そして、ときどき考えた。
もし、自分の時間を自分で使える日が来たなら。
朝、石窯に火を入れよう。
庭にローズマリーを植えよう。
子供たちと土を触り、焼きたてのパンを分け合おう。
そんなささやかな暮らしを、夢見ていた。
公爵夫人としての義務を果たしながら、心のどこかでずっと。
*
「土地の譲渡については、正式な契約を結びたいと思います」
エレナは言った。
「離縁に伴う財産上の取り決めも、書面に残していただければ幸いです。手当や別邸は希望いたしませんが、孤児院の土地と建物については、私が管理できるようにしていただきたいのです」
アルヴィンは、ようやく現実的な話になったことに安堵したのか、深く頷いた。
「わかった。手配しよう」
「ありがとうございます」
エレナは離縁状を手に取った。
署名する前に、もう一度夫を見た。
若い令嬢の手を握るアルヴィン。
彼は少しだけ晴れやかな顔をしていた。
この人は、これから幸せになるつもりなのだ。
エレナはそう思った。
その幸せの中に、自分の居場所はない。
けれど、それでいい。
人の心は、命令して留めておけるものではない。
七年間、夫婦であったことまで消えるわけでもない。
あの日々には苦しみもあったが、確かに笑った夜もあった。
それだけは、自分の中に残しておこうと思った。
エレナは署名した。
そして、小指から公爵家の印章指輪を外し、机の上に置いた。
「アルヴィン様」
久しぶりに、かつての親愛を込めて名を呼んだ。
「あなたが見つけられた『真実の愛』が、どうか本物でありますように」
アルヴィンが息を呑んだ。
「華やかな春の日だけではなく、嵐の夜にも。財政が傾く冬の日にも。互いの欠点が見えてしまう朝にも、その愛があなた方を支えますように」
男爵令嬢の指が、夫の袖を強く握った。
「私は、あなたの不幸を願いません」
エレナは穏やかに言った。
「どうか、お幸せに」
その言葉を口にしたとき、掌に残った爪の痕が、じんと痛んだ。
七年間を惜しまないほど、まだ聖人にはなれなかった。
それでも。
憎しみを抱えて、この先の人生を歩きたくはなかった。
愛と、呪いと、祈りは、とてもよく似ている。
どれも目には見えず、人の心を長く留める。
けれど、愛が終わったあとに何を残すかは、自分で選べるのだ。
エレナは深く一礼した。
「さようなら、閣下」
そして、振り返らずに執務室を出た。
廊下の窓が、少しだけ開いていた。
そこから秋の風が吹き込んでくる。
冷たい風だった。
けれど、エレナはその風を心地よいと思った。
*
三年後。
王都の西の丘に、白い壁の小さな孤児院があった。
かつて朽ちかけていた旧修道院は、今では子供たちの笑い声に満ちている。
屋根は修理され、割れた窓には新しいガラスが入り、庭にはハーブと野菜が育っていた。
石窯からは、焼きたての黒パンの香りが漂う。
「先生! 見て!」
少年が小川から駆け戻ってきた。
両手には、大きな魚を抱えている。
「まあ、立派ね」
エレナは笑った。
「今夜は魚のスープにしましょう。庭のタイムを入れたら、きっとおいしくなるわ」
「やったあ!」
子供たちが歓声を上げた。
エレナはリネンのエプロンで手を拭き、少年の髪についた草を取ってやった。
もう、絹のドレスは着ていない。
宝石も身につけていない。
朝は畑に出て、昼は子供たちに文字を教え、夕方には石窯の火を落とす。
帳簿をつける仕事もある。
寄付金の管理、食糧の購入、建物の修繕費。
決して楽な暮らしではなかった。
けれど、夜になると眠れるようになった。
公爵夫人だった頃、エレナは眠るのが苦手だった。
目を閉じても、翌日の会議や未処理の書類が頭から離れない。
領内で橋が壊れたらどうしよう。
収穫が減ったらどうしよう。
夫が社交界で失言したら、誰に謝罪すればよいだろう。
心配事は尽きなかった。
深夜、寝台の上で天井を見つめ、夜明けを待つことも珍しくなかった。
今でも、ときどき眠れない夜はある。
そんな夜、エレナは窓を少し開ける。
丘を渡る風の音が聞こえる。
木々の葉が触れ合う音。
遠くで鳴く夜鳥の声。
草の間を虫が歩く、小さな気配。
風は、彼女に何も求めなかった。
もっと働けとも、もっと美しくあれとも、もっと立派な妻になれとも言わなかった。
ただ吹いている。
世界は、彼女が眠れなくても、静かに呼吸を続けている。
エレナは目を閉じ、その呼吸に自分の息を合わせる。
吸って。
吐いて。
もう一度、吸って。
まるで、この大きな大地と、自分という小さな存在の調子を合わせているようだった。
誰にも評価されない時間。
誰にも奪われない時間。
それが、今のエレナには何より幸福だった。
*
秋のある日。
年配の郵便配達人が、手紙の束を届けに来た。
「エレナ先生、お手紙ですよ」
「いつもありがとうございます」
エレナは封筒を受け取り、一通ずつ確かめた。
寄付の申し出。
修道院時代の知人からの便り。
そして、その中に一通だけ、見覚えのある紋章があった。
アルヴィン公爵家の蝋封だった。
エレナは、しばらくその封筒を眺めた。
三年ぶりの夫からの手紙。
正確には、元夫からの手紙だった。
彼女の耳にも、いくつかの噂は届いていた。
新しい公爵夫人は華やかな社交を好み、アルヴィンは領地の実務に苦労しているという。
収支の均衡が崩れ、いくつかの事業が行き詰まったとも聞いた。
かつてエレナが整えた制度も、引き継ぐ者がいなければ維持するのは難しいのだろう。
けれど、噂がどこまで本当なのか、エレナにはわからなかった。
手紙には何が書かれているのだろう。
謝罪かもしれない。
近況報告かもしれない。
あるいは、助けを求める言葉かもしれない。
エレナは封筒を胸元に当てた。
かつてなら、すぐに封を切っただろう。
公爵家に何か問題が起きたのではないか。
領民が困っているのではないか。
自分が手を貸さなければならないのではないか。
そう考えて、胸を痛めたに違いない。
けれど、今は違った。
必要なら、アルヴィン自身が考え、決め、行動すればよい。
それが彼の人生なのだから。
「先生?」
小さな声がした。
振り向くと、ミアが立っていた。
あの飢饉の冬、パンを抱えて「お日さまの匂いがする」と笑った少女だ。
今では背も伸び、年下の子供たちの面倒をよく見てくれる。
「誰からのお手紙?」
「昔の知り合いからよ」
「大事なお手紙?」
エレナは少し考えた。
「そうね。大事だった時代もあったわ」
ミアは首を傾げた。
「今は?」
「今は、あなたたちの夕ご飯のほうが大事かしら」
ミアが笑った。
「じゃあ早く来て! パンが焦げちゃう!」
「あら、それは大変」
エレナは手紙を机の引き出しにしまった。
返事を書くかどうかは、あとで考えればいい。
今すぐ決める必要はなかった。
*
その夜、孤児院では小さな宴が開かれた。
少年が捕ってきた魚のスープ。
庭で育てた野菜。
焼きたての黒パン。
特別な料理ではない。
けれど、子供たちは笑い、食卓を囲み、何度もおかわりをした。
エレナも一緒に笑った。
かつて公爵家の食卓には、銀の燭台が並び、遠い国から取り寄せた香辛料を使った料理が供された。
それでも、食事中に夫と交わす言葉は少なかった。
今は違う。
誰かがスープをこぼせば、みんなで布巾を持ってくる。
パンの最後の一切れをめぐって小さな喧嘩が起これば、半分に分ける。
食べ終わった皿は、年長の子供たちが洗う。
暮らしとは、こういうものだったのかもしれない。
誰か一人が黙ってすべてを背負うのではなく、できることを持ち寄りながら、一日を終えていく。
食事のあと、エレナは子供たちを寝かしつけた。
最後の灯りを消し、自分の部屋に戻る。
窓の外には、満天の星が広がっていた。
今夜は、少し眠れそうになかった。
けれど、もう眠れないことを恐れてはいない。
エレナは窓を開けた。
夜風が頬を撫でた。
丘の向こうから、木々のざわめきが聞こえてくる。
遠い山の斜面を渡り、畑を抜け、孤児院の庭へ届いた風。
それは誰のものでもなかった。
公爵のものでも、王のものでも、神殿のものでもない。
世界が、ただそこにあることを知らせる音だった。
エレナは椅子に腰掛け、目を閉じた。
七年前の自分が、ふと心に浮かんだ。
白い婚礼衣装。
冷たい大理石。
公爵夫人として失敗してはならないと、固く結んだ唇。
あの頃の自分に、何か言葉をかけられるとしたら。
きっと、こう伝えるだろう。
そんなに頑張らなくてもいいのよ。
誰かに必要とされることと、幸せになることは、同じではないのだから。
風が吹いた。
エレナは深く息を吸った。
そして、ゆっくりと吐いた。
遠い土地で、アルヴィンも同じ夜空を見上げているのかもしれない。
彼が幸せであるなら、それでいい。
苦しんでいるのなら、いつか自分の足で立ち上がれますように。
ただ、それだけを祈った。
もう彼の人生を背負うことはしない。
彼の後悔を待つこともしない。
彼の不幸を、自分の幸福の証しにすることもしない。
エレナは窓辺で、静かに微笑んだ。
愛は終わることがある。
祈りも、いつか言葉を失うことがある。
それでも、風は吹く。
季節は巡り、草木は芽吹き、子供たちは育っていく。
そして自分もまた、その大きな世界の一部として生きている。
誰かの妻としてではなく。
誰かに認められるためでもなく。
ただ、エレナという一人の人間として。
眠れない夜は、風の音を聞く。
自分の呼吸を、大地の呼吸にそっと重ねる。
まるで、地球とチューニングするように。
世界と自分の小さな鼓動が、静かに重なっていく。
エレナは思った。
ああ、今が幸せ。
遠くで夜鳥が鳴いた。
窓辺のカーテンが、柔らかく揺れた。
明日の朝には、またパンを焼こう。
子供たちと畑に出よう。
きっと、いい一日になる。
エレナは窓を少しだけ開けたまま、寝台に横たわった。
風の音が、子守歌のように聞こえていた。
やがて彼女は、穏やかな眠りについた。
もう誰の夢にも、縛られることなく。
――完――




