堕ちたあなたに、愛の平手を
「この、バカタレがァ!!」
ぱん、と乾いた音が響いた。
思い切り振り抜いた手がじんじんと痺れて痛い。
けれどそんな些細なこと、ソルフィーネにはどうでも良かった。
頬を打たれて蹲った男を、ただじっと見下ろす。
彼は異形だった。
漆黒のツノや牙、毒々しい爪、青黒い肌。
額には魔物の証である紋様が浮かび上がっている。
「グ……ぉ、貴サマ、ナニを」
「何を、じゃないでしょう。あなたこそ何をしているのか自覚はおありですか?」
「僕ハ貴様ヨリ、強くなッタんだ。偉ソウに物ヲ言うナ! …………食い殺シテやル食イ殺してヤる」
――パシーン。
――ベシ、ビシ、バシン。
二発目、三発目、四発目。
胸の中に渦巻く激情に任せて、異形に強烈な往復ビンタをお見舞いする。
「ぐふッ」
口から黒煙のようなものを吐き出し、異形は目を回した。
「自惚れないでください。強くなりたいからと禁術に手を出す愚か者のくせに」
まったくもって情けないことに、この異形は、ソルフィーネの婚約者である。
故にソルフィーネが責任を持ってこの異形を人の道に戻してやらなければならないのだ。
◆
彼は元々異形ではなく、きゃあきゃあ言われるような美丈夫であった。
甘いマスク、柔らかな美声、ほっそりとした体つき。金髪は美しく煌めき、瞳はまるでサファイアのよう。
見た目の良さも去ることながら、性格も良く言えば優しげな紳士、悪く言えば気障ったらしい。
そんな、キラキラとした貴公子の皮を被っていた。
対するソルフィーネは、可愛げがないとよく言われる。
剣術や乗馬を嗜み、それ以外の時間は勉学に費やしてきたせいだろうか。あまり愛嬌がないせいだろうか。
釣り合いが取れているかといえば不釣り合いだろう。しかし、ソルフィーネには不満はなかった。
両家の親の都合で二人の婚約が結ばれたのは幼い頃。
互いに恋情は抱いていないけれど、良好な関係を築こうと努力してきた。
彼は「僕の愛しい婚約者様」とソルフィーネを呼び、好きだの世界一綺麗だのとまるで息をするように耳心地の良い言葉を吐く。
ソルフィーネは彼を「あなた」と呼び、彼の甘やかな嘘にただ静かに応じる。
週に一回はお茶会したり、親しい恋人のように手を繋いでデートに出かけたり。
少なくともソルフィーネにとってはそれなりに楽しい日々であった。
けれどいつしか、彼は歪んでいった。
どれほど優しげに振る舞っても表情が引きつり、他の女性に目を向けるようになって、そして――。
ある日、彼は唐突に失踪した。
彼の部屋には、禁術と呼ばれる呪いに関する本が山積みにされていた。入手経路不明、所持するだけで罪にあたるものだ。
その中で唯一開かれっぱなしにされていたページに書かれていたのは、『強大な存在になる方法』。
己の体に魔を宿すことで、力を得られるのだそうだ。
「…………は?」
想像してみてほしい。自分の婚約者が勝手に人間を辞めたことを知った時の心情を。
ここまで考えなしの馬鹿だったのか、と唖然となるしかなかった。
その馬鹿は、のうのうとソルフィーネの前に現れた。
変わり果てた異形の姿で。
「迎エに来タヨ、僕の愛しイ婚約者サマ」
爽やかな笑みを向けられても、鋭く光る牙が覗いていては様にならない。よだれを垂らし、紅く凶暴に染まった双眸は焦点が定まっていなかった。
とても正気には見えないというか、ほとんど魔物だ。
「魔物と結婚する趣味もなければ、魔物と婚約していた覚えもないのですが」
魔物は人間を喰らう害獣だ。
迎えに来たなんて嘯きながら、ソルフィーネを腹に収めるつもりで来たのだろう。
「失礼ナ。僕は魔ヲ宿してイルだけだ。見た目ダッテちゃんト人間ダロう? 怒っタ顔モ可愛らしいネ。あァ、腹が減ッタ」
迷いなく剣を突き立てるのがきっと正解だった。
こんな魔物もどき、世にのさばらせるわけにはいかない。厳しく処断すべきだ。
だが、どうしようもなくチラついてしまった。
彼のへらへらした笑顔が。耳が溶けそうになる声音が。
だから――。
一切の遠慮なく、全力で平手打ちをぶちかました。
魔物もどきになったことで頑丈になっていなければ、とっくに顔が歪んでいただろう。
苦しみに呻き声を上げながら、敵意満々で爪を向けられたが、構いやしない。
攻防……否、『躾』はどれほど続いただろうか。
反抗の心が消えてなくなるまでひたすらボコボコにし、立ち上がってこなくなったのを見て、とどめを刺した。
「バケモノに落ちぶれてなお、あなたは、か弱き乙女の平手にすら敵わないのです」
ソルフィーネは知っていた。
完璧みたいな顔をして、実際のところ、細腕で剣も握れず馬にも乗れないのだということを。
勉学はちんぷんかんぷん。少し転んだ程度で大泣きするような弱虫で、頼り甲斐なんてまるで存在しなかった過去を。
「そんな風ですから、私は剣術も馬術も学も身につけました」
「…………僕ヲ見下しテ、楽しかッタか?」
「まさか。あなたとの未来を歩むには足りないところを補い合いたいと、そう思っています」
「嘘ダ、貴様ハ何もかモ、僕よリ勝っテイル。同情カ、あるイハ哀れみか、どチらにセヨろくでもナイ」
彼は悔しげに声を震わせていた。
「劣等感を拗らせまくって面倒臭いですね。私を上回りたいなら、努力すれば良かったではありませんか。魔を宿したら私から一目置かれる存在になるとでも……気を引けるとでも考えましたか」
「違……ッ」
「他のご婦人がたと仲良くされていたのも、私の嫉妬心を煽りたかったからでしょう。本当に、愚かな人」
図星を突かれたのか、しゅんと項垂れる彼。
青黒い顔面をひび割れさせ、情けなくもぽろぽろと泣き出した。
泣き顔まで美しいのだからずるい。
「君ニ相応しイ人間であれなイのが苦しい。君が手ノ届かない存在ニ思えて仕方ナいんだ。僕はこンなにも、君ヲ」
「私も、愛していますよ」
ソルフィーネはさらりとそう告げて、そっぽを向いた。
赤らむ頬を見られないように。
燃え盛るような恋情はない。
ただ、積み重ねた関係の中で芽生え、育んできた想いはあるのだ。
恥ずかしいからずっと黙っていたけれど。
「ならなぜ平手打ちヲしたんダ……?」
「愛の平手です。こちらも結構痛いんですよ。どうでもいい相手にわざわざするものですか」
明日には手が真っ赤に腫れ上がるに違いない。そう思いながらソルフィーネは、振るい続けたのとは反対の左手を差し伸べる。
「どうせ私たちは最初から釣り合っていないんです。あなたと違って私は可愛く振る舞うのが得意ではありません。美しい華のような魅力はありません。キラキラ輝けるあなたに憧れ続けています。そんな私の足りない部分を、あなたが埋めてください」
どれほど躊躇われただろう。数秒だったかもしれないし、数分かそれ以上だったかもしれない。
けれど、彼は恐る恐るながら掌を重ね、立ち上がることを選んだ。
「愛しい婚約者様が、そう望むなら」
彼から黒い煙――魔物の魂の残り滓が一気に溢れ出し、すぅっとかき消えていく。
青黒い肌は全て剥がれて本来の色白に。爪や角は折れ、額の禍々しい紋様が砕け散って煌めいた。
◆
禁術は、『真実の愛』で解けることをあとで知った。
なんとも陳腐な響きだが、ソルフィーネの行動は間違っていなかったらしい。
体から魔性が抜け切ったおかげで彼が禁術を使用した事実はなんとか隠し通すことができた。発覚したら当然極刑である。
代わりに真実を知る身内からはひどく叱られ、根性を叩き直されることになったようだ。
「少しはマシな男になって戻ってくるから、信じて待っていてくれ」
「はい。もしその言葉が嘘だったら、容赦しませんからね」
彼に嘘偽りないと無邪気に信じたい。
けれども人というのはそんな簡単には変わらないものだから、また彼が道を誤り、堕ちる可能性だってあるのは当然理解している。
もしそうなれば何度でも光の道に連れ戻すのみだ。
彼が更生する間、平手打ちの修練をしておくとしよう。
そう密かに決めるソルフィーネであった。