そこに棲むもの
妙に静かな空気だ。
夏の夜である。
じっとりと湿度の高い空気が体全体に纏わりついているようで鬱陶しい。それでも日差しのない分、幾分か過ごしやすい。
車から降りた瞬間、高い気温と湿度の空気に触れここにやってきたことを早くも後悔していた。
こういうのは予感だ。
不快指数が高い外気に覚えた予感ではなく、その場にある空気というか雰囲気と言うか。
今日はやめておいた方がいい、と自分の中の何かが強くそう訴えていた。
「なあ、今日はやめないか」
予感というか、感覚と言うか。
いつもそれを感じたら深入りすることなく帰ることにしている。
だから予感を無視したら何が起こるのか、俺はそれを知らない。
不確かな予感をどう話せばいいのかわからず、トランクを開け、釣り道具を取り出している友人にそう切り出すと、彼は釣竿を手に取って俺の方を見返した。
ルームライトの灯りで、彼が訝し気な表情をしているのがわかる。
「せっかくここまできたのにか?」
「ああ。日を改めよう」
釣り道具が入ったツールを地面に置いて、もう一度友人は俺を見た。
「何で?」
「何となく。良くない感じがする」
「は? なんだそりゃ」
心底おかしそうに友人は俺の言葉を笑い飛ばした。馬鹿にしたような様子はない。
「気のせいだろ。確かに釣れなそうな条件だけどな」
人や釣り針の姿を隠してくれる曇りや水面に波立つほどの風の強い日の方が釣り日和である。
月明かりがまばゆくほとんど無風である今日などは釣りに向いているとはいいがたい。
「だから、別の日にすればいいだろう」
「ボウズが確定したわけじゃないんだ、いいだろう?」
可能性があるのなら、せっかくここまでやってきたのだから釣りたいというのが友人の主張だ。
家からここまで車で1時間ほど。決して広くない山道を登って来たのだからその気持ちはわからなくはない。
良くない――というよりは明確に嫌な予感に近い――感じを、言語化できるような材料は見当たらないのだ。
諦めて車の後方に回ると、友人と並んでトランクに積んであった釣竿を取り出した。
仕方ない。短時間だけだ。数回糸を垂らして適当なことを言って切り上げよう。
彼も数回投げれば少しは気も済むだろう。
どちらにしろ車を運転するのは俺なのだから。
友人の狙いはブラックバスである。
彼の邪魔にならないようにと、俺は少し離れた場所に陣取ってしかけを作る。
ほのかに空気に混ざる煙くささは、友人が虫よけのため蚊取り線香に点火したためであろう。
月の光に照らされた周囲は明るい。手元を照らすためにヘッドライトを持参したが使わなくてもよさそうだ。
浮きや重りを釣り糸で竿と結び付け手を止める。本当は針もつけるのだが、何となく釣りをしたい気持ちにならなかったので針はそのままツールボックスにしまい込んだ。
何もしないでぼーっとしているのも何となく落ち着かない。水面に浮きを浮かべておくだけでも釣りをしているような気持ちになって気がまぎれるような気がした。
ぽちゃん、と少し離れたところから水音が聞こえてはたと我に返る。
友人が投げたルアーが水の中に落ちていったのだろう。
見れば、彼はゆっくりとリールを巻いているのが目に映った。目当ての魚がかかるまで投げて巻いてを繰り返す。いつかかるのかという期待感とほどよい緊張感と、これも釣りの楽しみの一つのなのだ。
俺も釣りは好きだ。ただし海釣り専門である。
海釣りはいい。小さすぎたり毒があったりしなければ釣った魚を食べることができるというのが大きい。
これも何となくだ。命を奪ったら責任をもって食べる。釣りを始めたときからずっとそうすべきだと思っていたし、必ず守っていた。
だから、池や沼での釣りは好きではない。食べられない、もしくは食べるための下準備が面倒な魚が多いからである。
ただこれは俺だけの勝手な信条だからこそ、それに他人を巻き込むつもりもない。だから友人がバス釣りを楽しんでいるのに口を出すつもりもない。釣りは楽しいものだ。釣り好き仲間としてその楽しさは理解している。
「浮き釣り? バス狙いじゃないのか」
「浮きが沈むの見てるのが好きなんだって言わなかったか」
ルアーを投げつつ問いかけて来る友人に適当に答える。
針が付いていないから浮きは絶対に沈まない。
浮きを餌の虫か何かと間違えてつついてくる魚はいるかもしれない。
「明日の遅番のメンバーって誰かわかる?」
「俺は休みってこと以外は何も知らん」
黙っているのも退屈なのか、友人が話題を振って来た。友人とは同じ高校出身で地元に残ったという共通点がある。大学は別だが偶然バイト先が同じだった。
高校時代は別段仲が良かったわけでもなく、かと言って揉めたこともなく、可もなく不可もない。そんな関係だったせいか、バイト先で再会した時は少し気まずかったものの、今ではこうやって夜釣りに一緒に出掛けるぐらいには打ち解けている。
「もっと周りに興味を抱こうな」
「休みの日の出勤状況まで興味持つなんてどう考えても気持ち悪い」
そんなどうでもいい会話を重ねて時間が過ぎていくのをただ待っているが、落ち着きのない感じはどんどん増しているように感じがあった。
良くないと感じる原因は何なのか。自分の中の違和感に似たその感覚を更に研ぎ澄ませてみる。
ぽちゃん。
再度、友人がルアーを投げた音だ。
水面に小さく波が立ち、水面に映った月明かりがゆらゆらと揺れる。
向こう岸――目の前にあるのは沼だ。沼を挟んで向こう岸にあるのは、木立。月明かりが木々の葉に遮られて薄暗い空間。
暗さになのか、一瞬ぞくっと背筋が冷えた。
「きゃ――!」
その時、突然悲鳴のような声がかすかに聞こえ、思わず身を竦ませた。
女の悲鳴のようだった。こんな真夜中でこんな山の中で聞くのには似つかわしくない。
「鹿の鳴き声だからそんなにびくびくするなよ」
「鹿?」
俺が怯えていることが面白かったのか笑い混じりに友人が言う。
鹿の鳴き声が悲鳴に聞こえる話はどこかで聞いたことがあったような気がした。
「そうか、鹿か」
言われてみれば人の声音とは違っていたように思う。
自分を納得させるように頷いて、俺は再び対岸を見やった。
やはり暗くて木々が立ち並んでいることしかわからない。
――やはりこの感じは良くない。
俺一人だったら、すぐにでも撤収しているような感覚だった。
水辺だからか一段と湿度が高いように感じているが、この不快感が問題なのではない。
ここにいればいるほど、その嫌な感じが募っていくようなそんな感覚があった。まるで背後に何か得体のしれないモノが立っているかのような不快感、というのがこの感覚を表すのには適切だろうか。
対岸は闇だ。月光の中の闇。
風もない穏やかな夜なのに、見ていると不安な気持ちが募っていく。
何かがうごめいていたとしても、気づかないのではないか。
じっと目をこらして闇を見る。
しばらく凝視していると、闇の中の一際濃い影がゆっくりとその形を変えているように見えてくる。
だが恐らくそれは俺の怯える心がそのように見せているだけだ。
ぽちゃん
再び、友人がルアーを投げたのか水音が辺りに響き渡った。
「おい、石投げるなよ。魚が警戒するだろ」
友人が非難の声を上げる。
え? と友人を見るとルアーを手に持った状態で俺の方へ顔を向けていた。
じゃあ、今の水音は何だったのか?
「違う。俺じゃない」
さっきからずっと両手は竿を掴んだまま、仕掛けは一度も自らあげていない。
石を投げるにも、ずっと突っ立ったままだ。石を拾えるはずもない。
「あん? ……魚がはねたのか? 疑ってごめんな」
「なあ、そろそろ帰らないか?」
今が潮時だろう。友人に改めて提案してみるが、彼はそれを無視するように再度ルアーを投げた。
水面に波が立つ。
「まだ一匹も釣ってないのに、帰れるか」
「暑くて限界なんだ」
「? 何言ってんだ? むしろ寒いぐらいだろ」
寒い?
この男は何を言っているのか。熱帯夜と言っても差支えがないぐらい蒸し暑いのに?
……いや、おかしいのは友人なのか? もしかして感覚が狂っているのは俺の方かもしれない?
びちゃん、と、大きなものが水に投げ込まれたような音に再度竦みあがる。
「何だよ、さっきから……ってきた!」
友人は勢いよくリールを回して投げたルアーを水中から引きずり出す。
月の光を反射して輝く刃のような物が、友人の釣竿に引かれその姿を現した。
駄目だ。
咄嗟にそう思った。
それに触れては駄目だ!
慌てて友人に駆け寄る。
「触るなぁああ!」
とびかかるが、全然間に合わない。
釣り上げた魚を手に取り、友人はそれをゆっくりと針からはずす。
「逃がせ! 早く!」
「はいはい、まずは写真撮ってからでも遅くないだろ」
何を悠長なことを言っているのかと、殺意にも近い苛立ちを友人に対して抱いていた。
このまま飛びかかって池に落としてしまいたい。
それに触れてはいけないのに。早くこの場を後にしなければいけないのに。
「やめ――」
「さっきから何をそんなに怒ってるんだよ?」
……言われてみれば、俺は何でこんなに激昂しているのだろうか。
頭にかっと血が上っていた。池に突き落としたい、なんて、なんで?
友人に向かって伸ばした手を反対の手で押さえつける。
俺は何をしようとしていたのだろう?
「本日1匹目の――」
俺の様子を気にする風もなく、友人はポケットからスマートフォンを取り出すと腕を伸ばして――ぽいとそのスマートフォンをその場に放り投げた。
同時に、友人は手に持っていたブラックバスを両手で掴んで自分の口元に引き寄せると何のためらいなくそれにかじりついた。
「え、ちょ……ちょっと、なにを……?」
ぷちっというのは皮を食い破る音なのだろうか。
涎をすするような音の合間にぶちぶちと何かを引きちぎる音、そして合間にブラックバスが抵抗しているのだろうかびちびちと尾びれを動かしているような音がその場を支配する。
――とても直視できず、知らず知らずのうちに目をそらしてしまっていた。
違う、目をそらしている場合じゃない。
「な、何やってんだよ! やめろ!」
勇気を振り絞って友人へと足を踏み出し魚に噛みついている頭を引き離そうと、必死に友人の手を掴んでその動きを阻んだ。
「うがああああ!」
「うう、やめろって! 何食ってんだよ!」
俺を振り払おうとする友人の手にくらいついて、その手の中から暴れているブラックバスを手放せることができた。
ぼとっと地面にブラックバスが落ちたのと同時に、友人は突如脱力してその場にひざまずいた。
荒々しい息を何度か吐き出してから、まず思ったことは今すぐ逃げなければ、という使命感にも近いものだった。
「アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!」
車の方を一瞥するのと、そんな獣のような叫び声が間近から上がる。
叫び声に俺の胸中に恐怖が一気に膨らんだ。
とにかくこの場から逃げ去りたいという思いから車へと一歩近づいて、不意に友人のことを思いだした。
一緒に逃げなければ!
「アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアっ!」
立ち上がろうともしない友人へと踵を返した途端、再び叫び声が上がる。
まるでけだものの咆哮のような音に、一瞬思考が止まった。
友人が――叫んでいた。この雄たけびは、友人の口から出ているもの、で。
「アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!」
人の物とは思えない、身の毛のよだつような叫びに耐え切れず耳を塞ぐ。
何で、友人がこんな声をあげている? というより、生のブラックバスにいきなりかじりついたりとか叫び出したりとか、友人の様子は尋常じゃない。
何で、何が? どうして?
疑問で埋め尽くされた頭を塗りつぶすように友人の叫び声が大きく響き渡る。
俺も、おかしくなってしまいそうだ。
「アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアっ!」
友人は一度叫びを止めると、何度か呼吸を繰り返して、再び叫び出す。
「アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア」
耳を塞いでも周囲を埋め尽くすその音からは逃れられない。
友人の様子に、周囲の奇妙さに、恐怖以外の感情を覚える余地もなく。
なんで? なんで? なんで!?
「アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアっ!」
この悍ましい叫びは永遠に続くのではないか、そんな考えるだけでも恐ろしい考えに新たな恐怖を覚え――
「ア」
ただただ怯えていたらぴたっと声が、やんだ。
体は考えるよりも先に動いていた。
その場にうずくまったままの友人の腕を引っ張って無理やり立ち上がらせ、その腕を俺の肩に回し引きずるように車へと歩み寄る。
助手席に友人を押し込むと勢いよく扉を閉め、車の前方を回り込むように運転席側へと走る。
滑り込むように運転席に乗り込んで逸る気持ちを抑えきれずエンジンスタートさせてからドアを閉めた。
幸いエンジンがかかったので、周囲の安全を確認する余裕もなく、焦る手でシフトレバーとハンドブレーキを操作すると車を発進させた。
池の駐車場から一般道に出た途端、一気に脱力した。と同時に押さえつけていた恐怖が襲ってきた。
がたがた震える体をどうにもできずそのまま車を走らせる。
早く、一刻も早くこの山から下りたい。その一心だった。
「――来る……」
自分の言葉ではないその声に、恐怖が更に大きくなる。
友人だ。ちらっと横を窺えば両手で自分の体を抱き込むようにして俯いたまま何やらブツブツと独り言を呟いている。
「来る……来る……追ってくる……アレが……来る……」
「黙れ! 頼むから! 黙れ!」
俺は半狂乱で友人に怒鳴りつける。
何でそんな恐怖をあおるような真似をするんだ、こいつは!
「……来る、どこに行っても、追ってくる……もう、逃げられない……」
「やめろ! やめろっつってんだろ!」
俺も必死だ。
友人の呪詛のような台詞を打ち消すように叫んだ。
逃げろ、とにかく逃げろ! この言葉も真に受けるな! 俺の中の本能が叫んでいた。
そうしなければならない!
友人の言葉を塞ぐようにとにかく叫びながら、山を下山し続けた。
危ない運転だったが、何とか下山を果たした。
途中コンビニにでも寄ろうかと思ったが、友人の様子があまりにもおかしいので寄り道することは憚られ、真っ直ぐに友人の家まで走ってしまった。
迎えに来た時は、あんなに楽しみで仕方ないという雰囲気だったのに。
あれからまだ数時間しか経っていない。今は怯えしかない。
いつの間にか独り言も止め、やや正気に戻りつつある友人を再度見やればあからさまに安堵した様子で自分の自宅を見ている。
「朝になったら、……絶対にお祓い行けよ、気休めでもいいから」
「……ああ……」
心ここにあらずという様子でぼんやりと頷くと、友人はシートベルトを外して開いたドアから車外へと出て行った。
「……けど、もう、遅い……」
「は?」
じゃあな、と言おうとして開けた窓を見ようともせず、小さく吐き捨てると友人はふらふらと自宅へ入って行った。
今なんて言った?
ぶるっと震えが来た。身震いしてドリンクホルダーに置かれていたペットボトルの水に手を伸ばして一口飲みこむ。
池の周りで感じていたあの感覚が消え失せていることにようやく気付いた。
はぁ、と息を漏らす。
逃げることが、できた、のか?
最初に駄目だと感じたあの瞬間に無理やり友人を車に押し込んで逃げていればよかったのかもしれない。
そう思っても後の祭りでしかないが。
あそこで逃げることができてよかったのだ。タイミングを逃せばもう二度と戻れなかったのかもしれない。
もう一度深いため息をつき、再び車を走らせ自宅へと向かう。
あの池のことを思いだそうとするだけで震えがくるから、無理やり違うことを考えながら。
その後、友人がお祓いに行ったかどうかは知らない。
ただ、二日後にバイト先で会った時には普段どおりだった。普通に馬鹿話をして、別のバイト仲間と食事に行くと言って別れた。
そしたらそれっきり、バイトを無断で辞めてしまい接点がなくなった。連絡しても既読がつくことすらなかった。
友人がどうなったのか、その後のことは一切わからない。
俺は、その後怖くて水辺に近寄ることができなくなった。
こいつら不法投棄してるや。と後から気づいた。