最終話 その空、果てなく美しく
* * *
ローラへ
待たせてごめん、やっと王の裁断が下った。ローレンス男爵を貶めたオリンズ公爵は罰を受ける事になるだろう。勿論、イリアとの婚約は破棄された。
でも、君との婚約は認められなかった。
模倣する者が現れたらどうする、との王家としての答えだった。
それで、だ。
君にその意思があるのなら、三日後の夜、あの木の下で待っていて欲しい。ライカ国へ逃亡するんだ。兄が手引きをしてくれる。
今よりも質素な生活が待っているかもしれない。それでも良いと思ってくれるなら、どうか俺と一緒に来て欲しい。
俺は君との生活を夢見ているよ。
セレートより
* * *
手紙を従者に渡し、日が変わる前にローラへ届くようにと念を押した。
三日間で何が出来るだろう。父にも知られず、臣下にも感づかれずに準備を整えるには――いや、荷物なんて持って行かなくても良い。邪魔になるだけだ。
手持ち無沙汰な時間が俺の心を締め付ける。本当に上手くいくだろうか。途中で捕まったらどうすれば良いのだろう。国境へは迷わず走り切れるだろうか。
不安が津波のように押し寄せては引いていく。溜め息を吐き、何とか気持ちを落ち着かせるしか無かった。
訓練を通して剣を握っている時でさえ、迷いが生じる程だった。兄に剣の切っ先に翻弄され、瞬く間に弾かれる。
「そんな事では先が思いやられるな……」
呟いた兄の言葉は見逃さなかった。とは言え、内容は真っ当なので、俺も言い返せない。
ただただ時間が過ぎるのを待っていた。
ローラは来てくれるだろうか。不安と期待を入り混ぜながら。
そして、ようやくその時は来る。
シンプルな貴族の衣装と外套に身を包み、馬車へと乗り込んだ。御者は勿論、兄直属の臣下だ。気を遣う必要は無い。
兄も見送りに来てくれた。御者に真剣な表情を向ける。
「良いか、出来るだけ早く馬を走らせるんだ。何があっても止まらず、突き進め」
「かしこまりました」
御者が頷いたのを確認し、今度は俺へと向き直り、微笑んだ。
「セレート。元気で暮らすんだぞ。また、此処で会おう」
「はい」
頷くと、兄は御者に目配せをする。
「……行け」
馬が小さくいななくと、馬車の車輪はゆっくりと確実に進み始めた。
今一度振り返り、兄を見詰める。暗がりの中でも、何処か誇らしげな表情に見えた。その姿が小さくなって見えなくなるまで、視線を逸らせなかった。
馬車は人気の無い街灯の点る大通りを進んでいく。何度か角を曲がると、あの百年樹が見えてきた。その影には彼女の姿も――。
馬車を見付けるなり、ローラは走り寄ってきてくれた。声を出す訳にもいかず、ただ頷き合う。
ローラが乗車したのを確認すると、車輪がまた動き出す。速度は徐々に加速し、馬車が揺れるまでになる。
王都を出た所で、ようやく俺は口を開いた。
「ローラ、来てくれてありがとう」
「とんでもありません。私の為に、逃亡まで手引きして下さるなんて……」
決心が固まっていなかったのか、深い海色の瞳は小さく揺れる。
「敬語は止めよう。これから一緒に暮らす事になるんだから」
「はっ……う、うん」
俺が王子だから、抵抗もあるのだろう。俺の様子を見ながら、控え目に頷いた。
草原を抜け、いよいよ国境へ続く森へと差し掛かる。その時、後方から別の馬車が猛スピードで追ってくるような車輪の音が聞こえ始めたのだ。振り返ってみると、その馬車には王家の紋章が見て取れる。
父に気付かれたのだ。
「セレート殿下! 止まりなさい!」
微かに騎士と思しき者の叫び声も聞こえるが、此処で立ち止まる訳にはいかない。
それにも劣らない声量で、御者に言いつける。
「絶対に止まるな! もっとスピードを上げるんだ!」
御者は手網を馬に叩き付けると、大きくいなないた。馬車の速度が若干上がる。
「セレート様、どうしよう……!」
「立ち止まらなければ大丈夫だ、絶対に」
自分にも言い聞かせるようにして、ローラの心配そうな瞳を貫いた。
王家の馬車との距離が離れる事もなく、国境付近の森へと辿り着いた。御者に礼を言う暇もなく、馬車を乗り捨てる。腰の背丈程の草を分け入り、必死に藻掻く。手が草に当たって傷が出来るかもしれないが、そんな事まで一々気にしていられない。
捕まるかもしれないのだ。
「ローラ! 俺の手を掴むんだ!」
「うん!」
木々は深くなり、俺たちの姿を隠していく。
そして今に至る。
国境は近い。騎士は既に巻けたかもしれない。いや、まだ安心するには早いだろうか。
あともう少し。手を伸ばせば届きそうな自由に胸が膨らむ。
「もう駄目……」
力を使い果たしたのか、ローラは膝をついてしまった。
普段は運動などしないのだろう。それなのに、良くぞここまで走ってくれた。
ローラの背中と膝の裏に腕を回し、抱き抱える。
「えっ!? セレート様……!」
「もうすぐだから。あとは俺に任せて」
体力が持つ限り、俺がローラを支えてみせる。一目散に森の中を駆け抜けた。
いつの間にかフクロウは鳴く事を止め、代わりにカラスが朝の到来を告げる。
必死になっていて気付かなかった。木々は後方へと捌け、代わりに一本道が姿を現していた。
「森を……抜けた……?」
もう、王家の者が追ってくる心配は無いだろう。
ローラを下ろし、紫からピンク色へと変わっていく空を見上げる。
空はこんなにも色鮮やかで美しいものだっただろうか。
「これが、俺たちの歩く道か。きっと、幸せになってみせよう」
「うん」
未知の国で、見ず知らずの人々が暮らす土地で、新たな人生を歩んでいこう。
fin.